猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

池内紀は『ヒトラーの時代』で何を語ったか

2019-12-15 14:46:32 | 歴史を考える

池内紀の『ヒトラーの時代 ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか』(中公新書)はユニークである。いままでのヒトラーについての本と異なり、彼の心理分析や、彼を取り巻く政治状況の話はほとんどない。

著者は、ヒトラーが ただの議論好きの どこにでもいる つまらない男だと語る。それよりも、彼と同時代の町の人びとを追うのである。

彼の視点からは、ワイマール共和国時代からドイツは問題含みであった。各政党は、暴力集団である私兵を抱え込んでいた。街頭にはデモがあふれていた。超インフレが抑えられたかと思うと世界経済恐慌。政党間の争いで国の政治は何も決めることができなかった。なるべくして、ヒトラーの時代がきた、とも本書は読める。

1930年のトーマス・マンの講演から伺えるドイツ市民社会の危機と大きく異なるものである。作家トーマス・マンは、市民社会の理念を壊すものとして、ヒトラーを非難していた。

池内は丹念に下調べをして本書を書いているはずであり、池内の描く世界も 1つの事実なのであろう。

池内は私の7歳上であり、日本の敗戦後の混乱を直接目撃している。その彼からみれば、ワイマール共和国は混乱した社会であり、ヒトラーはそれに独裁という秩序をもたらしただけなのであろう。

私の世代は、混乱が収まった日本の目撃者であり、貧困がまだ日本をおおっていたが希望があふれていた。飢えがまだ日常化しており、道路は舗装されていず、洗濯機も電気釜も冷蔵庫もなかった。が、なによりも、強調したいのは、日教組が健在であり、炭鉱労働者組合も強かった。私は民主主義や自由や平等の価値を信じた。

だから、おなじものを池内と私が目撃しても、異なるものを見て取ったのであろう。

池内のゲシュタポの拷問の描写は生々しい。多分、子どものとき、特高の拷問の話を周りから聞いて育ったからだろう。子ども時代の私にも、権力に逆らえば、拷問が待ち受けている、恐怖が頭の片隅にあった。

いまは、直接的な拷問の話は聞かないが、権力による暴力は整然と行われている。リクルートの江副浩正もライブドアの堀江貴文も、贈賄事件や証券取引法違反で、警察に拘留されたとき、裸にされ、尻の穴まで調べられた。そして、ときの権力に逆らえば、理由もなく、長期拘留になり、裁判がなかなかはじまらない。本来は、裁判所が拘留を認めなければ良いのだが、日本の司法は検察や警察とグルになっている。

池内は、本書の結びに、ウィーンの地下劇場の、『カール氏』という、ほとんど一人芝居を紹介している。

「小市民カール氏は終始多数派の一人だった。オーストリア社会党がのびたとき、彼はいそいそと労働者のデモに加わった。ナチスが強くなると、さっそくそちらに くらがえした。通りの群衆にまじり、連行されるユダヤ人を見物していた。オープンカーでヒトラーがやってきたとき、鍵十字の小旗を打ち振りながら歓呼の声をあげた。」

現在の日本は、人権について非常に鈍感になっている。集団行動がとれない子どもたちは発達障害と呼ばれ、社会から隔離される。隔離されなくても、無意味な競争に疲れたものは、うつや統合失調症になる。

ヒトラーの時代と異なったやり方だが、人間の個人的権利、平等、表現の自由、団結の自由などが否定される方向に日本社会は流れ込んでいる。逆らうべし、逆らうべし。