猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

高校の世界史はどうすべきか、教科書はいらない

2019-12-10 20:48:48 | 教育を考える

きょうは朝から咳がでて体が重い。
それで、1年前のYahooブログにのせた書評を再録する。

その本を読もうと思ったのは、その年の9月の朝日新聞書評欄に、『新たな研究、なぜ反映しないか』の見出しのもとに、次のように書かれていたからだ。

<古代イスラエル史について、ヘブライ人の国王ダビデとソロモンの実在は疑わしく、100年以上エルサレムの発掘調査を行っても当時の栄華は実証できない。それなのに、なぜ 旧約聖書の記述がそのまま〔高校教科書に〕「保存」されてきたのか。>

『モーセの五書』が偽書であることは、19世紀の終わりから20世紀のはじめにかけてドイツの研究者たちによって、すでに主張されていた。モーセはユダヤ教とは無縁の存在で、エジプトからのヘブライ人の大掛かりな脱出劇はなかった、としている。

しかし、古代イスラエル史の王朝の記述を私は疑っていなかったので、「王ダビデとソロモンの実在は疑わしい」は 衝撃であった。

12月に図書館に本が届き、早速借りて読んだ。以下、1年前のYahooブログからの採録である。

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長谷川修一、小澤実編の『歴史学者と読む高校世界史 教科書記述の舞台裏』(勁草書房)を借りてきて読むと、本書は思いのほか重たい内容だ。

長谷川修一は、まず、高校教科書に記述された出来事が「事実」かどうかを問題にしている。昔から、書物というものは、事実より、そう思われていること、あるいは、そうあって欲しいことを書いてきた。しかし、教科書を読むひとは、国による検定があるから、書かれていることをすべて「史実」と思ってしまう。長谷川修一は、それゆえ、教科書は常に新たな歴史学研究を反映し、少なくとも、実証されていないことは、書くべきでないとする。

しかし、これは、非常にむずかしく根の深い問題であることが、本書を通して読むとわかる。
教科書は、それぞれのテーマを専門とする歴史学者たちが、チームで討議して、書いているのではない。

出版会社の依頼で、執筆者は与えられたテーマについて個人の責任で書く。このため、過去の教科書を参照して無難に書き、最新の歴史学研究を反映することはない。歴史的「事実」よりも、世間一般にそうだと思われていることを書いてしまう。しかも、専門分野でないテーマまで執筆している、と本書は指摘している。

国による検定も、少人数で広範囲の内容を検討しているだけで、専門家によるチェックがあるわけではない。具体的には、文部科学省職員が検定依頼のあった教科書の「調査意見書」を作成し、教科用図書検定調査審議会でそれを審議し、検定意見がつくられる。審議会が専門分野にもとづいた分科会から構成されておらず、しかも、短期の会合で審議するから、「史実」かどうかを判定できるはずがない。単に政権の思いにたてついているかどうかが、話題になるだけだ。

さらに、歴史学では、一つの出来事があったか、どうか、だけでなく、どう過去をとらえるかが、問題となる。すなわち、歴史学は、年号と人名を暗記する学問ではなく、過去を振り返ることで、現在を相対化することである。ところが、現在の偏見で過去を振り返れば、現在を相対化できない。

本書は、この面白い例を挙げている。「東欧」というくくりは、「中世」にはない。「中世」は言語で国々に分かれていなかった。「国民国家」というものは近代の所産である。ところが、第2次世界大戦後、ロシアがヨーロッパの東半分を共産主義陣営に引き入れた。そのため、「東欧」というくくりができ、「東欧」という偏見で「中世」のヨーロッパを分割して記述してしまう高校教科書が生まれた。

また、戦前から引き継がれた問題として、明治時代に日本の文部官僚が受けいれた「西洋史」という概念がある。イギリスやドイツやフランスが自分たちの植民地支配を正当化するために作った歴史書を「西洋史」として無批判に受け入れ、それに「東洋史」を付け足すことで、「世界史」とした。これが今でも引き継がれている。

そのために、イスラムの歴史、インドの歴史、東南アジアの歴史、極東アジアの歴史が、「東洋史」のなかに、ひとかたまりとして押し込まれる。また、コロンブス以降の北アメリカ、中央アメリカ、南アメリカの植民地政策下の歴史がいいかげんに扱われている。

では、どうしたら良いのだろうか。以下は私の提案だ。

国による教科書検定は無理である。誤りのない教科書は無理である。

検定をやめよう。アメリカ、イギリス、オーストラリア、フィンランド、フランス、オランダには検定はない。

教科書を崇拝するのを、やめよう。教師が自由に参考資料を選択する。そして、その誤りを指摘することで、資料を批判的に読む学生の力を育てる。

ノーベル賞を今年もらった本庶佑は、つぎのように言う。

「教科書に書いてあることが全部正しいと思ったら、それでおしまいだ。教科書は嘘だと思う人は見込みがある。丸暗記して、良い答案を書こうと思う人は学者には向かない。『こんなことが書いてあるけど、おかしい』という学生は見どころがある。疑って、自分の頭で納得できるかどうかが大切だ」

大学入試に「世界史」を必須とするのも、やめよう。大学入試は、高校で教える全「教科」から1科目か2科目でよい。また、教科書から出題しなくても良い。大学がこんな学生に教えたいと思う学生を選別すればよい。学部や学科によって、「世界史」だけを受験科目にしたって良い。

そうすれば、教科書を丸暗記して答案を書こうと思う学生を、本庶佑も取らなくても済む。大学の教員が学生を選別するのであって、文部科学省の職員が学生を選別するのではない。まして、政治家が学生を選別するのではない。