猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

佐伯啓思の朝日新聞『社会が失う国語力』はちょっとオカシイ

2019-12-29 22:32:03 | 教育を考える
 
きのうの朝日新聞の佐伯啓思の《異論のススメ スペシャル》『社会が失う国語力』にコメントしたい。
 
OECDのPISAにおける日本の読解力低下をもって、安易な「教育改革」を進めるのはいけない、というのが彼の趣旨だと思う。そのこと自体には同意する。これについては、私も12月4日のブログ『OECDの「読解力」テストに日本の教育が左右されて良いのか』で議論している。
 
OECDとは、第2次世界大戦後、アメリカの金持ちが、共産主義思想から資本主義陣営を守るために、外国の経済復興を促す組織であって、物資や資金の援助、自由貿易の推進とともに、実用教育の推進を行った。したがって、PISAとは、実用的能力の習得度を測定するもので、すでに、経済復興をしている日本が、その順位に一喜一憂すべきものではない。しかも、日本のPISAの成績が少しも悪いわけではなかった。
 
PISAが読解力と言っているものは、単に、readingを通じての情報取得能力のテストにすぎない。したがって、タイトルの「国語力」は、OECDのPISAの目的とは何の関係もない。
 
ところが、不思議なことに、佐伯のなかでは、「国語力」がPC(ポリティカル・コレクトネス)と結び付いている。さらに、みんながスマホを見ているという話しまで広がっている。私もコメントせざるを得ない。
 
佐伯の言う「国語力」の中軸は、「読解力」である。彼によれば、
 
〈 読解力とは、著者の意図を正確によみ、かつそれを自分なりに解釈することである。〉
〈 国語の読解力が大事なのは、翻訳も含めて、国語で書かれた文章のなかに、先人たちの経験やそれをもとにした思索の跡が刻印されており、それを知ることがわれわれの想像力をかき立て、また鍛えるからである。〉
 
一般論として、そうも言えるかもしれない。しかし、古いものにろくなものはない。ごみ溜めのなかで、宝物を探すようなものだ。見つかるかもしれないし、見つからないかもしれない。「自由」とか「民主政」という概念は2000年前にはなかった。貧乏人は読み書きできなかったからである。古代の書物の多くは、支配者の「思索の跡」である。
 
じつは、佐伯が高校生のときに読んだものは、近代の外国物の翻訳である、と『社会が失う国語力』なかで述べている。
 
「先人」からといっても、日本には、鎌倉仏教をのぞき、思想の歴史がない。しかも、鎌倉仏教は江戸幕府の大弾圧で中断している。
 
外国物は翻訳でなく原語で読むのが良い。明治時代に、自分たちのもたない外国の概念を、無理やり、儒学の知識にたよって漢字を組み合わせ、造語で訳した。原語で読まないと、明治の日本人の誤解を引きずってしまう。
 
英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語、ラテン語、古代ギリシア語、ヘブライ語が読めるというのが、読解力だ。
そうすると、日本語習得が「国語力」でなくなる。
 
さらに、上にあげた読解力がつくと、「言語」とはなんと限界あるものか、わかるようになる。それとともに、人間社会を健全に維持していくに必要なのは、特定の言語、日本語でも英語でもないことがわかる。「希望」「信頼」が社会に必要なのだ。
 
私の立場からいえば、「読解力」に力を注ぐよりも、わかりやすい日本語で話をし、わかりやすい文章を書くことに、力を注ぐべき、と思う。佐伯と反対に、私は、漢字をやたらと使うな、と言いたい。読むことに関しては、原語で、思想性のあるものを読めればよりよい、と思う。
 
世の中には孤立している子どもたちが いっぱい いる。ディズニーランドにもアイドルにもゲームにもスマホにも興味がなく、お金もない子どもたちがいっぱいいる。図書館に行けば、大きな本屋にいけば、日本語で思想を語ってくれる本がある。孤立している子どもにこそ、本を読んでほしいと思う。
 
そして、孤立している子どもたちに読んでもらえる、わかりやすい文章を書いてほしい。
 
敬語や漢字を教えるな。不要だ。
 
ポリティカル・コレクトネスについて言えば、これは、右翼の被害妄想にすぎない。自分の方が正義と思うなら、わかりやすい日本語で、自分の言い分がなぜ相手に分かってほしいのか、説明すれば良いだけである。今まで、他人に命令してばかりいたから、他人に説明できないようになっているだけである。
 
佐伯は「あるレストラン経営者」の話を紹介している。
 
〈 若い者が修業に来ても、簡単に叱れない。また、「君はどうしてそれをやりたいのか。ちゃんと説明してくれ」ともなかなかいえない。〉
 
「叱る」とは上から目線で、自分の命令に服従しろと言っているにすぎない。私は、「怒る」ほうは対等な人間関係を表わしているから、「叱る」より「怒る」をNPOの子どもたちの前で行う。私に命令したり、バカにしたら、「怒る」ことにしている。私に、命令するのではなく、お願いしなさい、と子どもたちに言う。そして、怒るのに、暴力をふるう必要はない。感情を隠さず表情にあらわせば良いだけである。
 
この経営者は修業者に説明をもとめているが、まず、経営者は修業者に説明できているのだろうか。経営者は、上下関係のある人間関係に慣れきって、対等な人間関係を築けなくなっていると思われる。
 
しかし、佐伯は、ポリティカル・コレクトネスの問題をこのように捉えているのでもない。佐伯は、私より、2歳も若いのに、もっと もうろくしているようだ。いや、もうろくしているのに、気づいていないようだ。
 
ネットに、あるひとが、佐伯啓思のまとめとして、「過剰なまでの情報と競争の社会、短期的な成果主義や万事における革新主義、行きすぎたポリティカル・コレクトネスという時代風潮こそが、読解力への障害となっている」と書いていた。このひとは、もうろくしているのか、軽はずみなのか、「国語力」が足りないだけなのか、困ったひとである。