猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

新型コロナ騒ぎは政権や専門家会議の無能さにある

2020-04-23 23:09:28 | 新型コロナウイルス


今回の新型コロナ騒ぎを見るにつけ、日本およびヨーロッパ、アメリカの政権担当者のレベルの低さをまじまじと感じる。

ヨーロッパやアメリカの新型コロナの水際対策の失敗は、中国に起きた医療体制の崩かいが中国の後進性によるもので、新型コロナは大したことがない、自分たちの医療体制は確固としたものだ、と思いこんでいたからだ、といえる。ところが、今、ヨーロッパやアメリカの政権担当者は、新型コロナが危険だと中国政府が言わなかった、と中国を非難している。それに煽られて、アメリカの地方都市で中国を非難するデモが起きている。

政権担当者が自分の責任をごまかすため、他国政府に責任を転嫁することは、やっていけない。世界には、いまだ、民族差別者がいる。それに火をつけることになる。トランプ大統領の発言で、どれだけ、アジア系市民が差別の対象になっていくだろうか。

安倍晋三首相は中国を批判していないから、イギリスやアメリカよりマシかもしれない。しかし、台湾や韓国とくらべて、新型コロナ対策にまずってきた。

政権が自民党がバカにしてきた韓国が、PCR検査を徹底して行い、新型コロナを抑え込んでいる。

日本の厚労省がクラスター班を編成して、集団感染(クラスター)対策を行ってきたが、集団感染をつぶすことができなかった。原因はなにかというと、感染者が見つかっても、無症状の濃厚接触者のPCR検査をしていないのである。自宅で2週間待機してくださいと口頭で伝えておしまいだったのである。これは、ヨーロッパやアメリカから帰国者の検疫にも言える。

日本の役所の問題は、間違いに気づいても、それを公表しないことだ。これは、上が下を罰すれば、上が責任を果たしたことになると考えるからだ。事実を明らかにし、行動を変えることが、責任をとることである。

日本では、政府がPCR検査を増やすと言いながら、この1か月増えていない。新型コロナの院内感染がおきるということは、新型コロナウイルス保菌者が、本人が感染者と知らず、外来に訪れたり、入院したり、することになるからだ。

日本医科歯科大や慶応大学の病院では、医療従事者や外来患者や入院患者のPCR検査を自前で始めた。

検体のPCR検査は機械ですることだから、どこでもできる。医学部のある大学病院なら、厚労省や保健所の手をかりずにPCR検査をして、自分で自分を防衛できるのだ。

無能な政府には頼れない。自助自力でいくしかない。しかし、なぜ、こんな無能な政府を入れ替えないのか。政府の役を果たしていないではないか。

きょう4月23日のテレビ報道によれば、入院患者全員にPCR検査を行ったところ、新型コロナ感染が事前にわかっていなかった患者の6%が、感染していたという。これだと、厚労省が発表としている公式感染率の約500倍になる。

厚労省のクラスター対策班の西浦博教授は、いろいろなシミュレーション結果を発表する。このままでは国民の80%が感染するとか、40万人が死亡するとか言う。しかし、ウイルス学者の岡田晴恵や共産党参院議員元医師の小池晃が問うように、西浦は自分の数理モデルやそのパラメータを公表していない。入力データである感染者数や死亡者数がオーダさえ怪しげなのに、そのシミュレーションは信頼できるのか。(「オーダ」とは「数字の桁」のことをいう科学用語である。)

政府が、5月6日に、緊急事態宣言を延長するか、外出自粛を延長するか、休業要請を強化するか、緩和するか、の判断をする信頼するデータを、新型コロナ対策専門会議はもちあわせていないのだ。

単に、政府や東京都は、自分の無力さをごまかすために、国民が自粛をまもらないからと国民のせいにするだけだ。メディアの一部が政府の強権的対応を求めているが、そんな問題ではない。科学にもとづく対策ができていないのが問題だ。

きょう、岡田晴恵は、西浦がシミュレーションの結果報告に「多かれ少なかれ」という言葉をつかったことに怒っていた。それは、科学者として使ってはいけない言葉だからだ。「多かれ少なかれ」は、「前の議論が意味なく、直観では」という言い方である。西浦の数理のモデルは嘘八百だったのか。

専門家会議が、たいした根拠もない話をもったいぶってしてきて、自分たちの誤りや無力さを認めないというのは、政府の太鼓たたきにすぎなかったということだ。
    ☆   ☆

これを書いている今も、「8割の外出自粛」をとテレビが意味もなく叫んでいる。国民が悪いのだと政府が責任を転嫁しているのを、テレビは助けている。

いっぽう、いまだに政府は必要な物資の確保に適切な行動がとれていない。

「あべのマスク」もお粗末である。清潔さに疑問のある不良品が出るとは、どこで生産されたものなのか。商社にマスクの購入を依頼するとは、政権担当者は何を考えているのか。新型コロナで売れ行きに困っている日本の製造メーカがいくらでもある。なぜ、日本メーカに仕事を与えないのか。マスク製造に経験がなくても「あべのマスク」よりマシなものを作るだろう。

医療現場で働く医師や看護士やその他の従事者の防具(マスク、ガウン、フェースシールド)などが、いまだに、不足している。

新型コロナは、もしかしたら、台湾や韓国が示すように、ちゃんとコントロールできるものだったかもしれない。この騒ぎは、政府がつくった不始末なのだ。

国民の自助自力に頼らざるをえないような、政府はいらない。新型コロナ騒ぎがおわったら現在の政権担当者を叩きだそう。自民党に政権担当能力はない。

[追記]
4月23日、長崎に停泊中のクルーズ船の乗員48人が新型コロナに感染していたという。これは、長崎市で新型コロナが蔓延してることを示していると思われる。多分歓楽街は新型コロナの巣になっているのだろう。

新型コロナ感染PCR検査キットを法人に楽天が売ることの問題点

2020-04-22 23:21:38 | 新型コロナウイルス

朝日新聞によると、「新型コロナウイルスの検査キットの販売を楽天が法人向けに始めた」ことを、4月22日、日本医師会が批判し、記者会見で「(検査は)あくまで医師が必要性を認めた場合であるべきだ」と言ったという。

この検査キットは、「ウイルスを増幅して新型コロナに特徴的な遺伝子配列」を検出するから、PCR検査そのものである。

これに類した、医師を経ない、PCR検査はアメリカで行われている。アメリカと日本との違いは、個人の意思によるか、法人の意思によるかの違いである。

日本医師会の「あくまで医師が必要性を認めた場合」というのは、論点がずれている。診断、治療を医師という専門家に委ねようという職業集団の利害を主張しているだけである。

PCR検査をするかしないかは個人の自由である。医師にかかるかどうかも、個人の自由である。自殺も、個人の自由である。個人の自由の制限は、他人の自由をどれだけ侵害するかによって議論されるべきことだ。

日本医師会は、非専門家が検体を適切にとることができるか、どうかの視点で、批判することができる。私も素人には難しいかもと思うが、検体をとること自体は、医師がする必要性はない。医師や看護士のなかに、点滴の針をうまくさせない人が、けっこういる。手先が器用で経験があればだれでも良い。

検体をとった後の「ウイルスを増幅して新型コロナに特徴的な遺伝子配列を検出する」ことは、基本的に機械がすることで、検査会社なら簡単にできることだ。そして、その陽性かの判定の信頼性は高い。陰性を陽性と判定することは、検査前の検体管理がいいかげんでなければ、原理的に起こりえない。

本当の問題は何か。

楽天は、いつまで待っても、出資した検査会社に、医療機関から検体の検査依頼が来ないから、法人にアプローチしたのだと思う。政府の新型コロナ対策のひずみが、いまだにPCR検査数が増加しないという最悪の状況を生んでいる。

楽天のビジネスモデルの問題は、「法人がPCR検査を個人に強要する」ということを前提にしていることだ。出勤するか、自宅待機するかの自由が従業員にないことだ。会社が出勤者を指名するための道具として、検査キットを使ってもらおうとしていることだ。

法人が個人に検査を強要することは人権侵害である。

しかも、PCR検査しても、その時点で新型コロナウイルスをもっているかいないかを判定しているだけで、陰性なら出勤できるというのでは、毎日検査しなければ、ならないことになる。通勤中や近所の買い物や、家でも家族から、いつなんどき、感染するか わからないからだ。

「症状はないが感染している人が、そうと気づかず、周囲に広げてしまうこともある。安心して働く手がかりになれば」という楽天のビジネス・モデルは破綻している。

PCR検査は、新型コロナの感染者が、発熱外来以外の医療機関に訪れないためだ。たとえば歯医者に新型コロナの感染者がそれと知らずに訪れば、歯医者も看護士も受け付けも感染してしまう。そして、別の患者にもうつしてしまう。

ヨーロッパやアメリカには感染して回復した者に、人との接触の多い職場に復帰して働いてもらおうという考えが提唱されている。このためには、新型コロナの免疫をもっているかどうかを判定する抗体検査の信頼性が問題となる。信頼できるとすれば、個人の意思が尊重されるなら、抗体検査が個人に働く自由を与えることになり、個人の権利の侵害にならない。


事実を知ることはよいことだ、新型コロナの抗体検査

2020-04-21 22:49:08 | 新型コロナウイルス

きょう、多くのテレビが新型コロナの抗体検査の結果を報じていた。

アメリカでは、カリフォルニア州のロサンゼルス郡での抗体検査で、調査の成人の約4.1%が感染しており、PCR検査での陽性累積数による感染率の40倍だったという。同じく、サンタクララ郡での抗体検査では、感染率2.5~4.2%で、PCR検査での感染率の50~85倍となった。

ドイツ北部の町Gangeltでは、住民1万2000人のうちの500人に抗体検査をした結果、14%が感染していた。

抗体検査はPCR検査と異なり、新型コロナにかかったことがあるということが抗体からわかるだけだ。患者を隔離する目的では、ウイルスを検出するPCR検査しか使えない。

しかし、疫学では、人口の40%から60%が感染すれば、感染症の流行はおさまると信じられてきた。だから、ニューヨーク州でも、抗体検査を大規模に行い、都市封鎖の解除の判断に使おうとしている。東京都でも抗体検査をこれからするという。

事実を知ることは大事だ。
啓蒙はenlightenment、真実に光をあてて見えるようにすることだ。
抗体検査を世界中で行い、本当の感染率を知ろうとすることは、これまでにない画期的なことだ。

日本では、PCR検査数を制限したまま、厚労省のクラスター班の西浦博教授は、国民の80%が感染するとか40万人が死亡するとか、言っている。バカではないかと思う。数理モデルを作っても、入力データが信頼できなければ、シミュレーション結果は信頼できない。数理モデルは現象論で、入力データから、実効パラメータを決め、将来を予測するものである。

彼は、科学者として、技術者として、とても恥ずかしいことをしている。与えられた数字でものを言うのではなく、厚労省に働きかけて、信頼できる数値を得ようとするのが、真理を求める正しい態度である。

ウイルス学者の北村義浩教授は、日テレで、気温が28度を超えるころには、新型コロナの流行が収まり、インフルエンザのように、毎年、小規模の流行を繰り返すようになるかもしれないと言っていた。これは、予測でなく、祈りである。

しかし、ヨーロッパやアメリカでは、彼の予測が当たるかも知れない。ドイツのPCR検査による感染率は0.17%、アメリカの感染率は0.22%である。WHOはこれを10倍して、本当の感染率は1ないし2%だと推定してきた。これより、新型コロナの感染がずっと広がっていたのだ。40倍から80倍して感染率を受けとったほうが良い。

日本は、岡田晴恵が けさのテレビ朝日モーニングショーでいっていたように、ヨーロッパやアメリカと比べて人口当たりのPCR検査数がずっと少ない。しかも、相変わらず、検査数が伸びていない。したがって、この数から、感染者が増加しているのか どうかはわからない。

日本のPCR検査による感染率は、東京都で0.023%、全国で0.009%である。少なくとも、本当の感染率は100倍、たぶん数百倍であろう。それでも小さい感染率で、ヨーロッパやアメリカより、遅れて流行がおさまることになるだろう。

抗体検査でわかることは、それだけでない。ワクチンや治療薬がないなかの致死率だ。これまで、WHOは感染者の0.5ないし0.6%が死ぬと推定していた。こんどの後退の検査の結果、致死率は約0.1となる。

これは良いことだ。北村教授が、新型コロナはSARSウイルスの弱毒版と言っていたが、これもあたったようだ。

私は研究室の同窓会幹事をやっているが、私が一番若く、90歳近くもいる。新型コロナの流行を予測し、2月に、今年の5月の同窓会をキャンセルし、来年の5月に延期した。新型コロナ流行の収束に希望が見えてきて、来年は同窓会が開けそうと安堵している。

[追記]
4月23日の各社のテレビ報道によれば、慶応大学病院で、新型コロナ感染者として入院している患者以外の、他の患者全員にPCR検査をしたところ、6%の患者が新型コロナに感染していたという。4月22日の東京都のPCR検査による感染率の500倍にあたる。
NHKのキャスターが新型コロナ感染症対策専門会議の副座長の副座長の尾身茂に、このことを問い合わせたところ、否定も肯定せず、実際の感染の広がりをつかめていないことを認めてた。
日本は、韓国や台湾より科学的倫理の劣る人が、専門家会議のもとに、政府の太鼓たたきをやっているのか。疫学者はみんなバカなのか。

[追記]
4月23日の記者会見で、ニューヨーク知事は、3000人の抗体検査の結果を発表した。約17%が新型コロナに感染していた。ニューヨーク州の人口は1945万人でPCR検査の陽性者の累積は85万6209人、すなわち、4.4%である。抗体検査での免疫をもった人数は、PCR検査からの感染数の4倍となる。ニューヨーク州は、他とくらべ、積極的にPCR検査を行ってきたと言える。

猫と老夫婦、新型コロナ騒ぎのなかの老人介護施設の崩壊

2020-04-19 20:22:36 | 新型コロナウイルス
 
妻と話をしていて、猫がかわいいのは小さいからだとなった。猫は、持ち上げて頬ずりができる。
 
村上春樹は『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』(文春新書)で次のように言っている。
 
〈要するに猫というのはわれわれ人間より弱い者であって、イノセントであって、だからそういうものをいじめているやつがいると、感情的にアプセット(動揺)するし、かわいそうだと。それに比べると、人間というのは自分に脅威を与えかねないものであって、そういうものが殺されることに関しては、とくに同情はしないということなのかな。〉
 
村上春樹は、物語の語り手としてうまいが、いつも変な理屈を言い、私に不快な思いを残す。
 
彼が猫を「イノセント」というのは意味不明だが、弱いものをいじめるのを見てかわいそうだと思うのは、それはそれでいいことではないか。
 
外猫は人間を見ておびえる。特に、子どもを見ておびえる。子どもたちの中には、自分が強いことを仲間に見せつけるために、わざわざ、小動物をいたみつけて殺す子どもを、私は見てきた。
 
ところで、弱いのは、別に小動物や人間の子どもだけでない。老人も弱い生き物だ。
 
アメリカでの新型コロナ感染流行で、ニュージャージー州の介護施設が崩壊していると報道された。老人介護施設の4人用の野外の遺体安置所に17人の遺体が積み上げられているとの、匿名の通報が町の役所にあったという。老人介護施設での虐待は日本でもあり、珍しいことではない。
 
このアメリカでの件で注目することは、遺体を17人積み上げて放置することはいけないことだと思う人がいたことである。だから、その人は通報したのである。そして、州知事も、これは人間の尊厳を傷つけることだと介護施設を非難したという。
 
老人の介護施設や知的障害者の介護施設の職員、経営者に、弱いものをいじめるのはいけないことだ、という気持ちがなければ、新型コロナの流行がなくても、モラルが崩壊してしまう。
 
津久井やまゆり園殺傷事件の被告が、施設につとめ始めたとき、重度障害者をかわいいと思ったと裁判で証言している。これは、言葉どおりにとってはいけない。もしかしたら、自分より弱いものを、自分の一存で殺すことができると思ったのかもしれない。
 
「弱いものをいじめるな」は、社会的倫理規範が、義務として個人の心に内在化したものかもしれない。それは、それでいいのだ。
 
介護施設は県立といってもどこかに委託しており、結局、営利団体が経営することになる。そして、介護施設の職員の多くは、ボランティアではなく、職業として、生活費を稼ぐために働くことになる。だから、「かわいい」という発言は、要注意である。
 
老人の一人として率直に言うが、老人は汚らしいのである。私も頻尿で妻に臭いと言われている。老人夫婦が仲良く暮らせるのは歴史を共有しているからだ。現在の姿に過去の記憶をかぶせて相手を見ているからだ。それに、年をとると人間として見てくれる人が まわりから だんだん少なくなるから、ふたりの仲間意識が強くなる。
 
歴史を共有していない人を「他人」という。施設の利用者は、施設の職員からみると、他人という関係から始まる。職員ひとりが多数の利用者を担当すれば、他人から「仲間」へと人間関係を変えることが難しい。
 
人間だけでない。猫も年を取ると引き取り手がなくなる。賃貸の別棟に80歳の老人がいて、連れ添いが死んだとき、猫の飼えないところに引っ越すことになった。8歳の猫の引き取り手を探しているというので、それまで付き合いがなかった私が引き取った。(じつは私のところも猫や犬を飼うことが禁じられている。)
 
猫は、年をとっていると、獲物をめがけてとびかかるという遊びができなくなる。猫じらしに興味を覚えないのだ。また、毛並みが汚くなる。毛が長い猫だったので、毛が汚れで固まってしまう。いつも、毛をすいてやる必要があった。3年後に病気で死んだが、老猫は人に甘えるので、じつは、本当にかわいいのである。死ぬときは、人の膝にしがみつき、抱かれて、すさまじい鳴き声を1つあげて、呼吸を永遠に止めたのだ。
 
しかし、歴史を共有していない老人をかわいいと思って介護できるかどうか、難しいことだ。職員にそれを強要できないと思う。猫ほどは人間は小さくない。強要できることは、「弱いものをいじめるな」という倫理規範までであろう。
 
[追記]
4月18日の朝日新聞によると、オランダで、新型コロナウイルスに感染した高齢者に対する救命措置をめぐる議論が続いているという。一部の高齢者が、かかりつけ医から、感染時 治療をしないと通告されたことがきっかけだという。
4月18日現在、オランダは国民の0.18%がPCR検査で陽性だと判定されており、感染者の11%が死んでいる。どうも、老人は邪魔もので、死ねという社会のようだ。
8月8日現在、オランダは国民の0.33%がPCR検査で陽性だと判定されており、感染者の11%が死んでいる。
 
[追記]
4月23日の朝日新聞によると、老人介護施設の介護崩壊はアメリカだけでなく、フランスでも起きているという。

新型コロナ騒ぎの中で、民主主義がまだ生きている、世界への窓がまだ開いている

2020-04-18 22:12:11 | 新型コロナウイルス

これまで、幾度か、日本に危機が来て、それで社会が変わるのではないか、と期待された。

75年前に日本がアメリカとの戦争に負けた。このとき、日本は軍国主義の国から民主主義の国に代わると期待された。じっさい、日本国憲法が新たに決まり、国民に主権がわたされ、日本の軍隊が解体された。しかし、いつのまにか、日本は軍隊をもち、国民の半分近くが、近代民主主義の基礎である、議員選出のための投票に行かなくなった。

9年前に東日本大震災が起き、お金が一番、お金を設けて何が悪いという価値観が変わるか、と期待された。じっさい、かなりの人たちが、震災地でのボランティアに出かけ、全国の原発がつぎつぎと稼働を止めた。しかし、たった9年で、原発事故があったことが忘れられようとしている。

今回の新型コロナ感染の大流行は、日本や世界に何をもたらすだろうか。一時的な民主主義やグローバル化の後退で済むのだろうか。大流行(パンデミック)が収束したとき、どのような日本や世界になっているのだろうか。

安倍晋三が、「50%減収の世帯に30万円給付」の閣議決定を覆してまで、無条件に国民ひとり10万円給付にしたということは、選挙を意識してのことだ。特別措置法にもとづき緊急事態宣言をせよという大合唱のなかで、経済を心配してかも知れないが、安倍が、法の定める手続きの順守を名目に、緊急事態宣言をためらった。

そう、日本では、民主主義がまだ生きている。

たしかに、現在、日本や世界で緊急事態が宣言され、外出の自由が制限され、休業が要請されている。

しかし、日本では、外出の制限や休業の要請が延長されるとしても、いちおう、5月6日までと期限が切られている。そして、4月17日の朝日新聞のインタビューで石川健治が心配したように、緊急事態を名目に、国会が、誰か一人に権力を集中させようとしているわけでもない。そればかりか、みんなで安倍を笑いものにしている。

そう、一時的な個人の自由の制限があっても、民主主義がまだ生きている。町には戦車が走り回っていない。銃をもった自衛隊が町を闊歩(かっぽ)していない。政治家は選挙を気にしている。自由にものが言える。

グローバル化も後戻りできない。経済が各国を結びつけているからだ。情報はデジタル化され世界をめぐる。

グローバル化とは、地域の伝統的文化が、他の文化と接触し、化学変化することである。日本も、約150年前に開国して、いつの間にかチョンマゲをやめ、ザンギリ頭になった。75年前に、日本は国民主権を憲法で明文化した。姿かたちをまねることから、ヒトの中身も変え始めたのだ。

新型コロナ感染症流行が収まったら、仕事をみんなで共有し、必要以上の金儲けをやめ、弱者にも敬意を払い、みんなが投票に行き、原発を廃止し、増収ねらいのカジノ誘致をきっぱりとやめ、海外とのヒトのつながりを強化するのだ。一時的な民主主義とグローバル化の後退を取り戻すのだ。

だから、この緊急事態宣言のなかでも、言論の自由を守り続け、多様な意見に寛容であり、世界からのニュースに耳を澄ますのだ。