猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

緊急事態宣言はうれしくないが日本社会を見なおすチャンスだ

2020-04-10 22:17:55 | 新型コロナウイルス
 
あす4月11日から図書館が完全に閉じられるという。これまでは、閲覧ができないだけで、図書館で予約した本を受けとることができた。これもできなくなる。近所の本屋までが、デパートやショッピングモールにあるので閉じられる。
 
閉じられるのは図書館だけでなく、美術館や博物館もである。社会の文化機能は、緊急事態ではいらないと政治家が考えているのだろう。これから、ネットが唯一の文化との接触点になる。こういうとき、国会図書館のデジタル化した書籍が無料で読めるといいのだが。また、各学会もデジタル化したジャーナルを公開してくれると、うれしいのだが。
 
新型コロナ感染症対策で、美容院を閉じるか、居酒屋を閉じるか、と日常生活の消費の面ばかりが、メディアで論議されているが、ヒトとヒトとの接触を生む最も大きな要因は、人間が生きるために働くからである。
 
だから、ヒトとヒトとの接触を8割減らすなんて、働くことをやめなければ、到達できないのだ。
 
しかし、社会を維持するために、閉じることのできない業種がいっぱいある。
 
電気やガスが止まったら都市生活が破綻する。スーパなどの棚から食料品がなくなったら、われわれは飢え死にする。インフラの保守、物流、食料生産はどうしても必要である。これらに携わっている人たちの健康を、どうやって政府は保障するのだろうか。集団免疫をおし進めるスウェーデンでも、社会の崩壊を防ぐための業種の人たちのPCR検査を優先させて行ってきた。日本政府はどういう施策を行っているのだろうか。
 
私の引きこもりの息子はアマゾンやヨドバシカメラなどのネット通信販売を利用している。社会システムとしては、ネット通信販売は、店頭販売とくらべ、非効率的で、物流の人たちに負担をかけている。申し訳なく思っている。
 
必要なものを店頭販売で買えるのが望ましい社会である。
 
きょうは、私の糖尿病検診の日である。私は、糖尿病のうえ、冠動脈にステントを3個いれている高齢者である。病院に行くと、ヒトが普段の半分ぐらいである。医療は、別に、新型コロナの感染者だけが必要としているのではない。私は、狭心症でひっくりかえり、救急車で病院に担ぎ込まれるかもしれない。新型コロナに対する恐怖から、緊急医療を拒否されるようになるかもしれない。
 
医療システムも現在の社会を支えるインフラの一部である。
 
いっぽう、いま、オンライン飲み会をNHKテレビで報道している。飲まないと維持できない社会は狂っているのではないか。60歳で会社を退職してから、私は飲むことをやめてる。
 
私は博士号をとった後、日本での職がなくて、カナダに渡った。私を雇った教授は飲むことで人間関係を築くというタイプだったが、大学で、人生の選択として飲むことを拒否する人たちが結構いると知った。アメリカで禁酒法があったのは、別に宗教的な理由でない。男たちが飲んで喧嘩するのを嫌う女たちが、禁酒を社会に求めたからという。
 
私は別に酒が飲めない体質ではない。しかし、生きるために酒は不要である。酒やたばこをやめると生活に使えるお金の額が増える。絶対におすすめする。
 
会社で宴会をする必要はない。飲まなければ本音が言えないというのはウソだ。私が会社にいたとき、私と私の部下がもめているのを見て、上司が飲みにつれていけと言った。酒を一緒に飲むというのは、単に丸めこむ手段にすぎない。酒を一緒に飲むことで安心する人間は個人が確立していないからだ。酒をのまなくても、自分を主張できるべきである。
 
しかし、もっと問題なのは、日本には接待の慣習があることだ。
 
私のいた外資系の会社では、接待はビジネス倫理規定に違反する。してはならない行為である。私の大学時代の同期生が富士通の課長になったとき、使途の問われぬ接待費をもっているから、久しぶりにあったみんなの飲み代を出すと言った。
 
さて、キャバレーやナイトクラブが存続できるのは、会社のお金で利用できるからだ。それは接待という慣習があるからだ。新型コロナの休業補償に、キャバレーやナイトクラブがはいっているが、こんな業種は社会にいらない。つぶれてしまえ。
 
新型コロナ感染症対策専門会議は、ヒトビトの行動変容が必要だという。この際、会社の仕事が本当に必要であるかどうかを考え直したらよいと思う。働いているフリをしているだけの仕事が多いのではないか。営業職だからテレワークはできないというが、営業職は相手の会社に本当の利益を与えているのか、単に相手とつるんで会社のお金を盗んではいないか。
 
私のいた会社は外資系だから、キックバックはビジネス倫理規定に違反する。ところが、日本の会社の従業員はキックバックするし、キックバックを求める。おかしな社会慣習はやめるべきである。

新型コロナ感染症対策にデンマーク方式とスウェーデン方式がある

2020-04-09 21:56:39 | 新型コロナウイルス

きょう、4月9日のBS NHKで見たのだが、新型コロナ感染症対策が国によって大きく異なる、とアメリカの公共テレビPBSが報道していた。

それによればデンマークとスウェーデンがまったく異なった対策をしているという。この両国は隣りあっており、また、宗教は共通、言語もスカンジナビア言語圏に属し、文化的ににている。ところが、感染症対策はまったく異なる。

デンマークは3月11日から非常に厳しい外出禁止、飲食店の閉鎖、企業活動の停止を行った。いっぽう、スウェーデンは規制をかけず、個人の自主性にまかした。

デンマークは、ドイツの対策に似て、ヒトとヒトとの接触をできるだけ抑え込み、感染症の広がりを抑え込み、治療薬の開発のための時間稼ぎをするという戦略である。デンマークは厳しい感染症対策を行い、一時的に感染者の増加を抑え込んだが、そのあと、再び増加しつづけている。

スウェーデンの対策は、集団免疫を期待して、感染症の広がりをムリヤリ抑え込まず、かつ、医療崩壊を招かないため、重症になるリスクをもつ者をのぞき、多くの軽症者は自宅にとどまるという戦略をとった。レストランやカフェは営業し、外出制限もなく、小学生たちは通学している。

PCR検査は、物流や交通などのインフラ従事者に優先しておこなった。国連で温暖化ガス対策を訴えたグレタ・トゥーンベリ(17歳)は3月24日に発熱したが、PCR検査をせず、そのまま2週間の自主隔離を行った。

4月8日現在、スウェーデンの感染率は0.075%、致死率は7.7%、5日間の平均増加率は6.8%、いっぽう、デンマークの感染率は0.087%、致死率は4.0%、5日間の平均増加率は8.3%である。大差がない。

感染率は国民の新型コロナの感染者の割合で、早く国民が感染することを選んだスウェーデンの方が少ない。これは、PCR検査をインフラ従事者やリスク持ちを優先して行っているから、見掛け上、感染者数が小さく出て、感染者の致死率が高く出ているのであろう。

したがって、スカンジナビア文化圏では、政府が強権的な規制を行った方が良いか、それとも、政府は情報を公開するだけで国民の自主性にまかした方が良いか、まだ わからない。
    ☆    ☆

4月8日現在、日本の感染率は0.0034%、致死率は4.7%、5日間の平均増加率は10.4%である。緊急事態宣言の後の感染症対策で、東京都と政府との間に対立が生じている。新型インフルエンザ感染症対策特別措置法では、東京都の権限で外出禁止や大型店の閉鎖の指示ができるはずである。

何が正しい対策か現在のところわからないのであるから、都道府県の長のそれぞれにまかせばよいのではないか。

新型コロナ感染症対策チーム クラスター班の西浦博教授は、東京都の厳しい対策を支持している。

私はスウェーデン方式が好みだが、東京都がデンマーク方式を望むのだから、やらしてみれば良い。都道府県が異なる対策をとって、実験をしてみたらよい。たぶん、どちらでも、感染率が数パーセントに達すれば、自然に感染のピークを迎えるだろう。大事なのは医療体制が維持され、救える命を救うことである。

政治の怨念から安倍晋三が小池百合子に嫌がらせをするのではなく、政府は政府しかできない対策を黙々とすればよい。

[補遺]
いま、NHKテレビをみていると、「かかりつけ医」に自宅待機の感染者を任せば良いというが、日本では「かかりつけ医」というものが機能して来なかった。ただの「町の開業医」で、都会では、流れ作業で大量の患者を診ており、ホームドクターの機能なんてできやしない。地域の人を把握していない。

[補遺]
PCR検査は、検体をとるというプロセスと、検体を機器にかけRNAを増殖させ判定するというプロセスとがある。後者は医師であることを必要とせず、検査技師が行っている。前者も医師という制約を外し、検査技師や看護士にまかせば、大量に検査できる。

『キャッチャー・イン・ザ・ライ』落ち行くことを恐れるサリンジャー

2020-04-08 21:48:49 | こころ

きょう、スーパーとパン屋に出かけた。買い物の人がとても減っている。新型コロナにおびえていた人が、じつは、思っていたより多く、きのうの緊急事態宣言で、それが表に出たのだろう。脅威が迫っているのだから、こわがっていい。引きこもっていい。しかし、あわてふためかなくても良い。
   ☆   ☆

それで、サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ(The Catcher in the Rye)』の話しに戻ると、主人公のホールデンが歌の歌詞の「ミーツ」を「キャッチ」と間違えていたのを、妹のフィービー(old Phoebe)が指摘する場面がある。

この歌のメロディーは、日本では、学校唱歌の『故郷の空』、そう、「夕空晴れて秋風吹き、……」という歌である。ところが、10歳の妹のフィービーが指摘したロバート・バンズの詩は、ライ麦畑で男女が逢引する歌だ。

ロバート・バンズの詩はつぎのようになっている。

 Gin a body meet a body
 Comin thro' the rye,
 Gin a body kiss a body,
 Need a body cry?

ここで “Gin”を “If”に読み替えれば、サリンジャーのテキストと一致する。

ホールデンは “If a body meet a body coming through the rye”を “If a body catch a body comin' through the rye”と間違えたわけだ。

男の子と女の子が追っかけこをしていて、「つかまえて」抱きしめキッスをしたとホールデンが思っていたなら、「ミーツ」を「キャッチ」と間違えても、大きな問題ではない。ところが、ホールデンはまったく違うことをこの歌 “Comin Thro' the Rye”でイメージしていた。

ホールデンは “Gin a body kiss a body”を無視して、子どもが崖から落ちないように、誰かがその子をつかまえることだと思っていた。

ホールデンの頭にあるのは、シュールレアリスムの絵画のように恐ろしい光景だ。私には思いもつかない悪夢のような光景だ。

何千人もの子どもたちがライ麦畑であそんでいる。ライ麦畑には陽の光が いっぱい ふりそそいでいる。しかし、ライ麦畑は急な崖の上にあるのだ。崖の下は、目が眩むほど深いのだ。

ライ麦は背丈が120センチぐらいで、小さい子どもたちには崖っぷちなんて見えない。崖の方へ飛び出してくる子どもも当然いる。

危ない。ホールデンは一日中見張っていて、飛び出してくる子どもを、崖からおちないように、つかまえたいと思う。

性の喜びの歌が、ホールデンの頭では、奈落に落ちる危険におびえる歌になっている。

妹のフィービーに会ったあと、ホールデンは、アントリーニ先生(Mr Antolini)の「すごくしゃれた高層アパートメント」に訪れる。そこで、酔っぱらっている先生に、つぎのように言われる。

「君が今はまりこんでいる落下は、ちょっと普通でない種類の落下だと僕は思うんだ。恐ろしい種類の落下だと。落ちていく人は、自分が底を打つのを感じることも、その音を聞くことも許されない。ただただ落ち続けるだけなんだ。」

そう、ここで、飛び出して崖の下に落ちようとしている子どもはホールデン自身なのだ。そして、つかまえるのもホールデンなのだ。

ここの葛藤は私にはわからない。性行為は、クライマックスのあとの落ちていく感覚もすばらしい快楽なのだ。奈落に落ち続けるのではなく、落ちることで深い満足とやすらぎを得るのだ。

ホールデンは今のプチブル的生活を失うことを恐れている。ところが、いっぽうのホールデンは、プチブル的な生き方がインチキくさくて、いやで、いやで、飛び出したいのだ。

私は飛び出せばよいと思う。人はどうせ死ぬのだ。落下することを恐れる必要はない。

サリンジャーは『キャッチャー・イン・ザ・ライ』が、大ヒットして、そのお金で、ニューハンプシャーの田舎の森に囲まれた約90エーカーの土地を買って、引きこもった。落下することを選んだわけだ。90エーカーというと、36万平方メートルとなる。600メートル × 600メートルの土地だから、アメリカのプチブルの感覚では大きくないが、私の感覚では十分に大きい。

その周りに住む人々は、歯医者に行くことも大学にいくこともない、貧民である。すなわち、周りの人からみると、まだ、落下がたりない。プチブルである。

だから、結局、サリンジャーは自分の望んだ程度の落下を選んだわけだ。しかし、人を愛しつづけられないとは、私のはかり知れない傷をどこかで負っているのだと思う。

象徴天皇に代わって話す安倍晋三の緊急事態宣言後の会見

2020-04-07 21:49:04 | 新型コロナウイルス

4月7日の安倍晋三の緊急事態宣言にともなう会見、国民への談話は、とてもよく練られており、素晴らしいものだった。ただ、はじめの医療従事者への感謝、終わりの終息の希望の部分はもう少し短縮したほうが、より良かったと思う。とくに、安倍固有の情緒的はじめの部分は短くしないと、頭の空っぽな若者はその部分で退屈して、話しを聞かないだろう。

会見で安倍の言っていることは、精神論である。本来、日本国民の象徴たる天皇がこのことを端的に話すべきであり、行政機関の長たる首相は、科学的な事実にもとづいて、新型コロナ感染症「対策」を理知的に説明すべきである。精神論なら、心構えの要請なら、緊急事態宣言をしなくてもよく、安倍はもっと早く談話を出すべきだった。

(これは、隠れている令和天皇を非難しているのですよ。皇居で天皇家の先祖の神々に朝に夕に祈りをささげているのに、新型コロナにおびえる国民の心をいやすことができないで、どうする。役立たずの象徴天皇は不要である。)

今回の会見で情緒的に話す安倍に、本当に状況をどれだけ把握しているのか、私は不安を感じてしまう。自分のやろうとしていることの政治的な意味は理解しているが、科学的な裏付けには無頓着である。

ヒトとヒトの接触を8割へらすとは、どのようなことなのかの説明がない。安倍自身が説明しなくても、厚労省クラスター班の西浦博を引っ張り出して、彼に具体的に説明させるべきである。

疫学者の西浦博は、単に、各自治体の保健所が厚労省の報告する患者数を、統計的モデルに当てはめて解釈しているだけである。入力の感染者数の信頼性も吟味していない。統計学に関わってきた者からみれば、疫学者の統計は子どもだましにすぎない。じっさい、ヒトとヒトの接触に対応するモデル・パラメータを8割小さくすると、感染数の増加が2週間後にピークが来て、減少するといっているだけだ。

私も、コンサル業に興味をもって、人間の行動に数値モデルを当てはめることをやったことがある。しかし、これは自然法則による予測と異なって、単にモデルの世界における架空の物語である。コンサル業では、これをシナリオという。素人の経営者に決断を促すため、コンサルタントは、いろいろな施策にもとづいたシナリオを話す。予測ではない。

1ヵ月すぎても、増加数のピークが見つからず、結果論で8割に接触を減らすことができなかったと、政府は言うのだろう。

しかし、そのほうが、まだましだ。もし、増加数のピークが見えると、それで、感染が抑えられたと国民が誤解する可能性がある。これは最悪のシナリオである。

いままで、厚労省新型コロナ対策課は、ちゃんとPCR検査を進めてこなかった。これは、今回だけでなく、2009年のときの新型インフルエンザ流行のときもそうだった。いまだに、新型インフルエンザの感染者の精確な数は分かっていない。(「精確な」とは科学用語“accurate”であって、どの程度 信頼できるかが わかっている数をいう。)

PCR検査が行われないことに国民が不満をもち、いま、医師の判断によるPCR検査が増加し始めている。すると報告される感染者数が急激に増え始める。これはいずれの国でも見られる現象である。これは、いままで見過ごされていた感染者が数えられるようになり、その分の増加が加っているだけである。PCR検査をするか否かの基準が安定すると、本当の増加数になり、一時的に増加数が減少する。

疫学者の西浦がたぶん気楽な気持ちでシナリオを話ししたら、政治家の安倍がそれに飛びついたのが真相であろう。阿呆と阿呆とが反応したのだ。

ヒトとヒトとの接触を8割に減らすとはなにか、誰も具体的にわかっていない。計測できない数値なのだ。そんなことを、要請するとは、到達できない目標を国民に押し付けたことになる。

このいい加減さは、テレワークとか時差通勤とかで公共交通機関の混雑を解消すると言っていることにも、あてはまる。

どれだけ、テレワークや時差通勤が可能であるかを、経産省や総務省や国交省は調査しないといけない。それと、公共交通機関の混雑との関係を調査しないといけない。じっさい、いまは、公共交通機関の混雑度が何割減少しているのか。調査がなくて、混雑解消を言っても達成できない。こちらは実態調査も目標数値もない、さらに情緒的な話である。
    ☆    ☆

安倍晋三が「緊急事態宣言を発出した」と言っているのに私はびっくりした。「発出」とは役人言葉で、政治家たるものが言う言葉でない。

「発出」とは、国語辞典をみると、「起こること、起こすこと」とある。役人が使ったとき、「天命にしたがって人民に告知する」という意味で、自分の責任を回避しているのだ。

2009年に飯間浩明がネット上に、「発出する」が安倍晋三の口癖であると書いている。私は、悪意があってこの語を安倍が使っている、とは思いたくない。単に天命にしたがって自分は行動していると安倍が思いこんでいるのだろう。
    ☆    ☆

同じ日の朝に、青木理が、テレビ朝日『羽鳥慎モーニングショー』で、メディアがすべて安倍に緊急事態宣言を早くせよ、というのはおかしいと言っていた。緊急事態宣言を「野党やメディアが『早くやれ!やれ!』となったのは健全じゃない」。私もそう思う。

緊急事態宣言は私権や自由の制限をともなうので、それによって何をするのか、政府は明確にすべきである。安倍が国民に心がまえをただ訴えるなら、「新型インフルエンザ感染症対策特別措置法」を適用するための緊急事態宣言をする必要はまったくない。

私権や自由の制限をともなう緊急事態宣言を急いで求めるメディアは何を考えているのか。どの国も国民の1%も感染していない新型コロナにあわてふためくメディアは阿呆のかたまりではないか。日本は公式発表で国民の0.0033%が感染したところである。100倍しても0.33%にしかならない。これでは、悪意のある政治家がでてきたら、感染症流行を唱えて簡単に権力を奪取し、独裁を行える。

安倍政権は、新型コロナ対策のどさくさで、事業者だけを優遇する「経済補償」を発表している。これは、政権維持、選挙対策のためのバラマキにすぎない。新型コロナの「経済補償」は、財産権の制限に対する対価であって、個人や法人が、政府の指示にしたがい、何を放棄したかによってきまるものである。安倍が会見の後にNHKテレビに出たが、「経済補償」と「経済対策」と混同していた。

もし「経済対策」なら、国民すべてに公平な、消費税を期間限定でゼロにするというのが、理にかなっている。

人ごみが恋しくない私には不要不急の外出禁止令がいらない

2020-04-05 20:08:36 | 新型コロナウイルス
 
ずいぶん前のことだが、いじめにあっていた女の子が、「私達は、つるむ事が好きです。一人でいることがとても寂しく感じます。友達の中にいると安心するので、自分のポジションが一番下で、いじめに あったとしても、そのグループの中からは抜けられないのです」と作文に書いていた。
 
「つるむ」とは、集団に同化することである。いじめの発生だけでなく、同調圧力の重苦しさも、「つるもう」とする心から生じる。
 
息子から聞くと、不要不急の外出の自粛要請にもかかわらず、休日の巣鴨の商店街に老人の人出があったという。これは、老人だけの現象でない。
 
糖尿病患者の私は、ほぼ毎日散歩している。ところが、最近、晴れの休日になると、一部の緑道だけに人ごみが生じる。いっぽう、町の道路は人けがまったくない。
町は全体として外出禁止令がかかったように静かなのに、一部の緑道だけに人ごみが集まる。
 
思うに、ヒトがすべて、集団に同化したいという本能をもっているのではない。一部のヒトが、不要不急の外出の自粛が呼びかけられても、群れようとする。
 
私は「つるむ」ことも、「同調する」ことも、「集団に同化する」ことも好きでない。「密集」を防ぐ、ヒトとヒトの間に距離を保つなんて、私にとってあたりまえのことである。人ごみが恋しいなんてことは、起こり得ない。だから、「外出禁止令」なんて不要である。
 
引きこもりのみんなも、私と同じではないか。私が思うに、ヒトとあうの怖いのであって、外出が嫌いなのではない。ヒトとあわなければ、新型コロナに感染する心配もない。新型コロナの感染大爆発が起きても、生き残るのは「引きこもり」である。「引きこもる」ことに自信をもとう。
 
人ごみ好きなヒトと一緒くたにして、「移動の自由」を制限してほしくない。
 
エーリック・フロムは『自由からの逃走』(東京創元社)で、「自由」というものの前提である「個人の確立」に耐えかねて、「自由」から逃げ出すヒトたちの、心の動きを書いている。
 
この「自由からの逃走」の典型的な1つのパタンが集団に同化することだ。つるんだり、群れたりすることだ。確かに、弱者は、イワシやスズメのように、自分の個性を消して集団でいれば、種として、生き延びることができるかもしれない。
 
しかし、私たちはヒトである。ヒトに危害を加えるのは、ふつうはヒトである。社会を変えれば、ヒトがヒトに危害を加えることは起きない。つるんでも、群れても、いじめはなくならない。
 
また、ヒトに危害を加える自然災害、感染症に対しても、つるむことも、群れることも、無力なのである。
 
新型コロナの流行は、つるまない、群れない、生き方を学ぶ絶好のチャンスなのだ。ヒトとヒトとの距離をとる、“social distancing”は、個人を確立する絶好のチャンスなのだ。ライブ・ハウスやカラオケに行かなくても、キャバレーやバーに行かなくても、生きていけるのだ。
 
しかし、社会を変えるには、引きこもっているだけではダメだ。他のヒトに敬意をはらい、助け合うことが必要だ。
 
エーリック・フロムやバートランド・ラッセルは、このことを“solidarity”と言う。ドイツ首相のアンゲラ・メルケルは“Solidarität”と言う。私は「団結」「連帯」に集団主義、軍国主義の匂いを感じるので、「助け合い」と言いたい。