猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

今野元の『マックス・ヴェーバー』に日本批判をみる

2020-09-06 21:38:00 | 思想


今野元は、『マックス・ヴェーバー』(岩波新書)で、W. J. モムゼンの書を引用して、ヒトラーと類似点を指摘している。

Max Weberは、自由主義、個人主義、合理主義、能力主義を標榜するが、あくまで、自分たちブルジョアしか目のなかにはいっておらず、貧乏人、ポーランド人、アジア人を侮蔑していた。Weberは、ポーランド人がドイツ文化圏に侵入していることに、脅威を感じていた。Weberは、上からの視線でドイツ国民国家防衛を主張しており、優秀者による合理的国家運営を目指していた。民主主義というものが抜け落ちており、強者の世界しか見えていない。したがって、とうぜん、闘う政治学者という立場になる。

ナチス(国民社会主義)は、下からのドイツ国民国家防衛を主張しており、第1次世界大戦で失った領土の回復、スラブ人の住む東方への侵略を唱える。

したがって、ドイツで90年前に起きたことは、アルフレッド・ヒトラーだけが頭がおかしいと言って、済ますことができない。個々人の政治的立場は、理性で決まるものではない。個々人の劣等感、被害者意識が集団の意志となって、政治のなかに展開される。

このように、今野元の『マックス・ヴェーバー』(岩波新書)は、現在の日本の政治状況を批判しているとも読める。

日本の保守には、1941年から1945年の太平洋戦争の敗戦で領土を失い、不当な扱いを受けたとか、日本文化は、西欧と違い、勤勉、従順、滅私奉公を旨として、素晴らしいとか、いう劣等感、被害者意識が根底に流れている。5年前の「戦後70年安倍談話」にそれが流れている。当時、この安倍談話に劣等感、被害者意識が根底にあると指摘するものが少数であったのは気がかりである。

いま、菅義偉は安倍晋三の政治を継承するという。

安倍は、祖父でもある偉大な保守政治家の岸信介が中傷されているという被害者意識をばねとして、政治家の道をばく進した。弱者がかわいそう、なんとかしたい、ということではなかった。ヴェーバーと同じく、闘うことを自己目的とした。安倍には、人間が人間を支配することに何の違和感もなかった。権力の頂点に立つことが目的だった。

菅義偉は職業政治家の子ではない。しかし、権力志向の人である。民主主義と無縁の性格である。こういう人を支持する自民党議員は、やはり権力志向で、勝ち馬にのろうとしているだけである。安倍政治を継承して、愛国主義のもと、言論統制や弱者差別や外国人排除が強まり、相呼応してモラル崩壊がおきることを恐れる。

安倍晋三のあとの菅義偉は、もっと人柄が悪い、災難だ

2020-09-05 11:26:37 | 叩き上げの菅義偉


今年の夏は猛烈に暑い。9月に入っても、朝から冷房をいれている。

こんなに晴天がつづき、暑いのに、今年は給水制限がない。ありがたい。
家にちゃんとクーラーがあり、熱中症で死ぬことを防いでくれる。ありがたい。
こんなに各家庭がクーラーをつけているのに電力不足にならない。ありがたい。

しかし、これは安倍政権のおかげではない。
水不足にならないのは、今年の梅雨が異常に長く、水がめに十分水があったからだ。
クーラーが各家庭に普及しているのは、日本の家電産業やダイキン工業のおかげである。大衆消費財の産業が日本で発達したのは、日本が平和憲法をもっていて、戦争に加担しなかったことである。
原発がなくても電力不足にならないとは、別に原発を再稼働する必要がなかったとのことだ。

この一連のありがたさは、安倍政治のおかげでない。

それなのに、9月4日の朝日新聞は、つぎの首相にふさわしい人のアンケート調査で、菅義偉の支持率が、突然38%に急増したと報道した。自民党支持層では、菅支持が49%になる。しかも自民党支持率も40%に急増、安倍政権の実績を評価するが71%にのぼった。

同じ日の昼に、急遽、このことについて、TBSテレビの『ひるおび』で田崎史郎、伊藤惇夫、龍崎孝、原田曜平がコメントした。

原田は、この自民党支持の急増、安倍政権の実績評価の急増は、安倍晋三が潰瘍性大腸炎でやめることに対する「かわいそう」という感情的なもの、いわゆる、「弔い合戦みたいもの」で、何かのきっかけに急速に冷めるだろうと言った。田崎、伊藤、龍崎も同じ見方で、情緒的なものは一時的なもので、勝てるときに、解散して総選挙となるだろうとの見方であった。

安倍が辞意表明した8月28日の直後の安倍政権の実績評価31%で、9月4日の朝日新聞では71%になったのは、メディアがいっせいに、海外の首脳の安倍に送る言葉を流したことにあると私は思う。病気で辞意を表明した首相には、儀礼で海外首脳は褒めるが、それを各局が何度も流せば、人間の心を操作できることを実証した形になっている。

伊藤は、安倍晋三が辞意を表明したからこの結果になったという。もともと、国民には安倍政権の実績を評価する人たちがいたが、安倍晋三の人柄には不信をもっていた。総理が菅に代わるならと、安心して安倍政権の実績評価を口にできたのだと見る。

そうすると、国民の多くは菅の人柄を買いかぶっていると言える。

伊藤は、菅の人柄を示すエピソードして、伊藤は「菅話法」というものを紹介した。それは、記者会見で質問に対して詳しく答えず、否定して終わることをいう。いつも、「全く問題ない」「仮定の話にはお答えできません」「そのような指摘はあたりません」と言い放って終わるという。

菅義偉の総理としての資質については、田崎、伊藤、龍崎は懐疑的だった。

伊藤は、外交に問題が生じるとの見方をした。田崎は、外交はこれまで安倍晋三の専権事項で、菅が関与していない、経験のなさをあげた。伊藤、龍崎は、菅の「頑な」で目の前のものに専念する性格、つまり、大局的なもの見方ができないことをあげた。

私は、菅の教養のなさが偏狭な外交政策を招くのではと心配する。アメリカの大統領レーガンは、教養がないバカそのものだったが、「頑な」ではなかった。側近の言うことに耳を傾け、無難に職を務めた。菅は劣等感が強く、努力の人だということを誇りにしているので、非常に「頑な」である。

田崎によると、8月29日の二階俊博、森山裕、菅の会合で菅が出馬を決断したと言われているが、菅が持ちかけた会合で、出席者は3人でなく、4人だったという。菅は、すでに出馬を決断しており、二階にそれを伝えたという。二階は自分を主役にしたかったので、自分が出馬を促したという話しに作りかえてメディアに知らせたという。

これまで、首相にしたい人の下位にしかいなかった菅が突然トップに躍り出たのは、好意的なかたちでのメディア露出が急に多くなったからだ、と伊藤は言う。しかし、派閥がなだれを打って、2,3日で菅支持にまわったことは不思議だという。

田崎は4人目が誰か明らかにしなかったが、菅の強力な応援者がいると、みんなが思っているようだ。田崎も伊藤も同じ人を考えているようだが、『ひるおび』では言わなかった。

菅を、地方出身者だ、農家の出だ、庶民だとメディアは煽る。しかし、農業をやりたくないと、故郷を棄て、東京に出てきた男にすぎない。勤め人は嫌だとして、権力を求めて政治家になった男にすぎない。自分が朝5時から働く努力の人を誇りしている。それを秘書にも要求している。彼が「自助、共助、公助」と言うとき、弱者に寄り添う心があるのか、弱者を切り捨てるのではないか、と不安に思う。

菅義偉は日本会議国会議員懇談会の副会長で、超右翼である。ほんとうに憲法改正に猛進するだろう。安倍を継承して、もっと強権的な国家運営をめざすであろう。こんな菅を支持する人たちは困った「いきもの」である。

菅義偉を総裁とする自民党は支持できない、安倍政治の継承はもうけっこう

2020-09-03 22:03:25 | 叩き上げの菅義偉


安倍晋三総理の後継者は菅義偉内閣官房長官で決まりだという。自民党総裁選挙の日程と方法を決める前に、各派閥は菅を自民党総裁に押すことを決めた。菅にすれば各派閥の利害を尊重してくれるという派閥の思惑からだ。党内の民主的手続きを無視した方が、各派閥の利害が尊重されるという不思議な構図になっている。

菅は、9月2日に総裁選出馬の記者会見で安倍政権の道を引き継ぐと、つぎのように言っている。

〈まずは目の前にある危機を乗り越えることに全力を挙げつつ、こうした山積する課題にも引き続き挑戦をしていきたいと思います。〉

ここで「目の前にある危機」とは

〈なんとしてもコロナ感染拡大の防止と社会経済活動の両立を図り、雇用を守り、経済の回復につなげていかなければなりません。ポストコロナを見据えた改革を着実に進めていく必要があると思います。〉

のことである。しかし、今まで、政権を担当していて、「コロナ感染拡大の防止」が的確でなかったことをどのように考えているのか不明である。また、「ポストコロナを見据えた改革」とは何かに不安を感じる。

安倍政権は、専門家会議の議事録公開を拒否し、「コロナウイルス感染対策専門会議」を解散し、分科会組織に組み込み、会議の前に「官邸」の方針がメディアに流されるようになったが、これは外部の専門家たちの適切な利用と言えない。

「改革」が官邸に忖度する形の官僚制の強化であってはならない。政府はあくまで行政サービス機関の中枢である。行政の意思決定過程を透明化しなければならない。
この点で、安倍のやり方を引き継いで欲しくない。

また、「山積する課題」とは

〈その上で少子高齢化問題への対応、戦後外交の総決算をはじめとする外交・安全保障に、その課題、とりわけ拉致問題解決に向けた取り組み、そして憲法改正。〉

のことを言っている。まさに、これが「安倍総裁が全身全霊を傾けて進めてこられた取り組みをしっかり継承」の中身である。

「国の基本というのは自助、共助、公助」と言っているが、そんなことで、「少子高齢化」が解決できるか。問題の本質は「少子化」であるが、本来、家族が増えることは人間にとってうれしいことであるのに、「少子化」が起きるということは、それだけ、経済的にも精神的にも国民が追い込まれているからだ。

「戦後外交の総決算」というのも恐ろしい言葉である。日本の戦後は「対米従属」であり、米軍基地が沖縄に集中している。これに手をつけない「総決算」は、対米従属の下の日本の軍国主義化になってしまう。この文脈で「憲法改正」とは、日本が戦争できる国にすること(自衛隊を軍隊と明記)、戦時体制のための「非常事態条項」を付け加えることになる。

安倍政治の継承という菅義偉を総裁とする自民党を支持するわけにはいかない。

進歩なんてない、あるのは多様化である、マックス・ヴェーバーの誤り

2020-09-02 22:27:56 | 歴史を考える


Max Weberは知の巨人ではない。クソである。単なる権威主義者であり、差別主義者であり、闘争的な保守言論人である。彼をヨイショする人がいるとは、社会学のいかがわしさを裏づける。

Weberが信じる「進歩」に誤りがある。「進歩」という幻想は、弱者が「明日はよくなる」という希望をもち、現在の苦痛に耐えつづけるために、多少は役立つかもしれない。しかし、Weberは「進歩」を「強者の台頭と弱者の退出による社会進化」ととらえる。そうすると、現在の体制を支持する言論人はつねに「進歩」的知識人となる。

時間とともに起きていることは、「進歩」ではなく、「多様化」である。言語というものを通して、過去の人の体験や思いを、人は追体験できる。したがって、人は、この多様な思想のなかから、1つ選択し、あるいは、切り貼りして自分の思想を形づくることができる。しかし、嗅覚がすぐれていなければ、多様性のなかに埋没し、自分を見失う。

Weberは「求道者」ではない。彼のいうキリスト教は捏造である。彼はカトリックやプロテスタントを貶めるために悪口を言っているだけである。彼は、母ヘレーネのように弱者に心を寄せていない。資本主義を持ち上げするために、自分のブルジョア性を無罪放免するために、厳格なカルヴァニズムのAskeseを資本主義の精神とみなしているだけである。

大塚が “Askese”を禁欲と訳したが、日本語の「禁欲」に対応するドイツ語は “Abstinenz”である。Weberは“Askese”を「自己鍛錬」という意味でもちいている。

金儲けに一心不乱になることを“Askese”と解釈するのは、Weberが「進歩」を社会的淘汰と考えるからである。これを正当化するために、“Beruf”に「職業」という意味とともに「召命」という意味があるなどと、クソみたいことを言っている。これを真に受ける大塚の信仰はなんなのか。

上級市民は資本家として一心不乱に金儲けに専念し、優秀な労働者は雇われて工場の幹部として一心不乱に働き、ベルトコンベアーについていけない劣等者は通りに捨てろ、というWeberの理想とする資本主義社会は、キリスト教徒にとって受け入れられるものではない。

キリスト教は、人々を救うことを目指していたはずである。生まれる前に救われる人と救われない人が神によって定まっている(予定説)なら、救済宗教ではないではないか。救いを求めて、キリスト教の扉をたたくことが意味なくなるのではないか。この予定説で満足するのは、ブルジョアに生まれたことを正当化できる上級市民だけでないか。

Weberは救いを求めてキリスト教の扉をたたいていない。Weberは各教派を比較して悪口を言っているだけである。

キリスト教をドグマや神学で理解することがそもそも間違っている。ドグマや神学は、ちょっと頭のまわる悪人が自己正当化のためにでっちあげたもので、多数のキリスト教徒はそれと無縁に暮らしてきた。カルヴァンもルターも極悪人である。

厳格なカルヴァン派は他の教派よりサクラメント(儀礼)を排除する、すなわち、脱呪術(Entzauberung)だから、近代的であるとWeberは言う。じつは、サクラメントをカルヴァン派より拒否する教派もあるが、Weberは熱狂的だからなどといって、劣るという。おかしくないか。

だいたい、三位一体を信じるのはまだ魔法にかかっているのではないか、神を信じるのは魔法にかかっているのではないか。Weberの母ヘレーネがチャニングの書読んでいたが、チャニングはユニテリアンである。イエス・キリストを人とするユニテリアンの方が魔法が解けているのではないか。イエスを人とし、神を否定する聖書研究者の田川建三のほうがもっと魔法が解けているのではないか。

Weberを「求道者」という大塚久雄に遠慮しすぎである。Weberは単なる権威主義者であり、差別主義者であり、闘争的な保守言論人である。

今野元の『マックス・ヴェーバー』、遠藤與一の指摘

2020-09-01 21:45:11 | 思想


今野元は、『マックス・ヴェーバー』(岩波新書)で、1959年のW・J・モムゼンの指摘を紹介している。Max Weberとアドルフ・ヒトラーと比較し、多くの点で共通していて、違いは、Weberが上層市民ブルジョア(Bürger)出身で、いっぽう、ヒトラーは下級官吏の子で「大衆(Volk)」として「市民」を嫌悪していたことである、という。

第1の共通点は、「闘争的政治観」で「社会ダーウィンニズム」に依拠していた。「ダーウィン進化論の適者保存(自然淘汰)説を敷衍(ふえん)して、強者の台頭と弱者の退出による社会進化を」目指していたという。

第2の共通点は、「ドイツ・ナショナリズム」である。
第3の共通点は、「国家を担う強靭な個人への期待」である。
第4の共通点は、「振興の労働者層にドイツ国民国家の将来的基盤を見た」ことである。
第5の共通点は、「カトリック勢力への批判的姿勢」である。
第6の共通点は、「西欧に世界の文化中心を見て、ドイツは西欧とともにあると考えた」ことである。
第7の共通点は、「統一主義を基本方針とした」ことである。
第8の共通点は、「前衛芸術」を受け入れなかったことである。

私は、とくに、第1の共通点に着目する。Weberは弱者に共感をもたない。弱者をきたない、不快な生き物としてしか見ていない。今野元の評伝から、Weberの言葉を引用しよう。

〈分隊のポーランドの不潔な子豚が、明け方になって髭を剃らず、顔を洗わず、ぷんぷん嫌な臭いをさせて勤務に出てきた〉

私の子どもの頃は「内風呂」なんてほとんどの家庭ではなかった。小学校に上がった頃からひとりで風呂屋に行くようになったが、月に1回程度であった。すなわち、垢まみれであった。「不潔」だと差別されてたまるか。

モムゼンの主張はナチスの「国民社会主義」とWeberの「国民国家主義」は「下から」か「上から」の違いで、ともに、人間は平等であるという他人への共感を欠いたものであったということである。

このようなWeberの著作が私の学生の頃、なぜ、まだ読まれていたか、不思議であったが、私の3歳上の遠藤興一が、2018年に、論文『丸山眞男とマックス・ヴェーバー  大塚久雄との比較からみえてくるものとは』のなかで、私の疑問に答えてくれていた。

〈1964四年のヴェーバーシンポジウム(後述)において、……、丸山は「ウェーバーの生き方やエートス論から『求道者精神』をつかみ取るというたぐいのウェーバー研究は、ロマン主義的ないし感傷主義的な『道徳主義』に陥る危険がある」と指摘した〉

大塚は自分の「求道者精神」をWeberに重ねて誤読していると丸山は言っているのだ。

遠藤は、日本でWeberの著作が流行した理由は、戦前の日本では、マルクス主義が禁じられており、それしか、社会学者が安全に論じられるものしかなかったからだという。遠藤は、経済学者の大河内一男(のちの東大総長)の言葉を引用している。

〈満州事変の頃から太平洋戦争にかけての十ヶ年(昭和6年~16年)、マックス・ ウェーバーくらゐ、日本で読まれ、尊重され、直接大きな影響を与へた学者はゐなかったのではあるまいか。ウェーバーは日本の若い層や学生にとって、マルクス主義の著作が焚書同然になって後は、社会科学を標榜するもののただひとつの、そして特に大切なことは、安全な拠り所であった。〉

ところが、大塚の誤読、「求道者としてのWeber」が戦後しばらく流通したのである。これは、私は、多分に、聖書も読んだことがなく、また、キリスト教の多様性への無知な知識人が、大塚や青山の話をそのまま信じたことにあると思う。戦後、日本の国家主義者は、差別主義者 Weberの体臭を正しく嗅ぎつけ、マルクス主義に対抗する思想家としたのだと思う。

大塚と丸山の相違に気づかない戦後の「市民運動」には、今、私はいかがわしさを感じる。この「市民」は上級市民 “Bürger”であったのではないか。