猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

新型コロナでオンライン指導、疲れ果てる私

2021-01-25 22:33:07 | 新型コロナウイルス


新型コロナが流行しだしてから、はや1年がたつ。NPOでの活動も大きく変わった。

放デイ活動では、対人関係に問題を生じる子どもたち、学習障害の子どもたち、不登校の子どもたちを受け入れている。1年前は、対面教育と子どもたち同士で遊ぶことが中心であった。ところが、三密をさけるということで、現在は、対面教育だけになっている。

しかし、教室の近所の子どもたちと親が自家用車で送り迎えする子どもたちは教室にやってくるが、そうでない子どもたちの親は公共交通機関を使うことを恐れ、二度目の緊急事態宣言以降、半数がオンライン学習となっている。

オンライン学習用の教材を作るのには慣れてきた。無理に学習させるという気持ちを捨てることで、教材作りは楽になった。新型コロナウイルスとはどんなものか、「魔」という漢字の成り立ちはどうだったのか、紙芝居を作るノリで教材を作れるようになった。

しかし、対面教育のだいじなポイントは、対話をすることである。ここで私は自分の歳を感じてしまう。子どもの声を聞き取るに私はとっても苦労する。1つは、もともと、ぼそぼそと話す子どもたちである。もう1つは、ZoomでもSkypeでも、子どもたちの声が細いデジタル・ラインを通じて運ばれてくるので、音質がすごくおかしくなっている。

私も教材をすばやく作れるようになったが、きょうもオンライン指導でとても疲れはてた。年寄りにはオンライン指導はきつい。

「自由」と「平等」との共存を支えるもの

2021-01-24 22:53:44 | 自由を考える
 
加藤陽子の『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(新潮文庫)を読むと、戦前の日本人にファシズムやスターリニズムへの憧れがみられる。当時のドイツ、ソ連で自由が抑え込まれているということは問題とされず、貧困から解放してくれる、学歴によらない平等な社会を実現してくれる、という期待を当時の日本人が少なからず抱いている。
 
このことを考えるとき、アドルフ・ヒトラー個人の頭がおかしいとすますだけではいかない。
 
エーリッヒ・フロムは『自由からの逃走』(東京創元社)は、集団として見ると、人間は「自由」の重荷にたえられず、それから逃げようとする傾向があるいう。この見方には、独裁者個人だけに問題があるというより、その独裁者を受け入れる国民にも責任があるという考えが潜んでいるといっている。特定の個人だけでなく人間全体の頭がおかしいというのは、それなりにあたっているが、そういってしまうと、救いがない。
 
とにもかくにも、集団による「自由の抑圧」に反撃をしなければならない。そのためには、自由と平等は同じ源から生まれており、相反しないのだという認識がまずいる。
 
当時のドイツとソ連とを和解させることができるとした戦前の陸軍の理由を、加藤陽子はつぎのようにまとめている。
 
〈ソ連は社会主義国であって資本主義国とは違う、とくに経済政策の点では国家による計画経済体制をとっているのだから、反自由主義、反資本主義ということで、日本やドイツと一致点があるのだ〉403頁
 
戦前の日本人のほうが、「反資本主義」という言葉を平気でいう。それに対し、今は、誰かと議論すると、「資本主義社会だから自分の利益を優先せざるをえない」という言い訳を私はよく聞く。この場合、否定的な形だが、戦前の陸軍の「資本主義」「自由主義」の理解が、自由主義=利己主義として、日本人のなかで残っている。
 
「自由」も「平等」も、誰かが誰かを支配することの否定からくる。ただ、「自由」と「平等」を共存させるためには、人が他の人と共感する能力を高めないといけない。この共感する心は、何かの運動に熱狂する心ではない。また、他人に共感する心は、決して生まれながらあるのではない。
 
古代ヘブライ語に「友」にぴったりくる言葉はない。「友」に一番近いのは “רע”(レア)で、聖書『レビ記』19章に出てくる“רע”を、日本語聖書では「隣人」と訳している。あの有名な「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という言葉のなかである。
 
昔のひとびとには「友」という対等の人間関係はなかったのだ。
 
人が他の人に共感できるのは学習によるものだと思う。「発達障害児」の育てることで一番だいじなのは「他人を信頼する心を育てる」ことだと言われている。小さいときからのほうが効果があるといわれる。私の経験からもそう思う。
 
「共感する心」も育てる必要がある。
 
「自由」と「平等」とが共存できなくなるのは、人が小さいときから「競争」のなかに叩き込まれるからだと思う。
 
20世紀前後に活動した共産主義者カール・カウツキーは『中世の共産主義』(叢書・ウニベルシタス)のなかで、つぎのように当時のドイツ社会を嘆いている。
 
〈現代の生産様式は自然科学と機械工学との応用を基盤としているが、この生産様式と現代社会のひときわ目につく特徴の1つは、休みなく新発明と新発見にむけて急ぐことである。〉
 
すなわち、資本主義社会では、ひとびとは、資本家も労働者も、たえず競争させられるとカウツキーは言っているのだ。
 
「競争」が資本主義固有のものとは思わないが、「共感する心」を奪っていると思う。だから、「叩き上げ」を自称する人間を私は信用できない。「競争」に勝ち残ってきたと自慢しているにすぎない。
 
「共感する心」を持っていれば、熱狂におちいらず、「連帯」あるいは「団結」することができると思う。

文系の思考法と理系の思考法

2021-01-23 23:41:12 | 脳とニューロンとコンピュータ
 
理系の私には、加藤陽子の本を読むのに、ずいぶん忍耐が必要だった。それは、思考の過程が理系と文系とは根本的に違うからではないか、と思う。
 
私が思うに、加藤陽子の場合は、たくさんの事実が脳内に記憶として蓄えられ、何か問題が投げつけられたとき、それぞれの記憶がいろいろな思いを活性化し、それらの思いの多数決から、なにかしらの判断が出てくるのだと思う。そのために、彼女の本や講義では、一見、関連がないような多数の歴史的事柄や色々の人の考えが、のべられる。それによって、読み手や聞き手が、多くの知識を彼女と共有することで、彼女の結論する判断を共有できる。
 
加藤陽子は、『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(新潮文庫)で、面白い例を挙げていた。それは、日米開戦の直前に、東条英機がつくらせた、日米戦争はどのように終了するか、というシナリオである。
 
(1)戦争していたドイツとソ連の間を日本が仲介して独ソ和平を実現させる。
(2)ソ連との戦争を中止したドイツの戦力をイギリス戦に集中させる。
(3)ドイツの集中した戦力でイギリスを屈服させる。
(4)イギリスが屈服することで、アメリカ国民の戦争を続けるの意欲が薄れる。
(5)戦争を続ける意欲が薄れると、戦争が終わる。
 
筋道を立てて論じているが、論理ではない。あくまで希望的なシナリオである。それぞれのステップが妥当である確率を例えば1%とすれば、戦争が終わる確率は0.00000001%となる。戦争が終わる可能性はほとんどないといってよい。いっぽう、私は、終わらない戦争を見たことも聞いたこともない。
 
辞書的に言えば、筋道を立てて考えることが「論理」であるが、各ステップが信頼できるものでなければ、筋道を立てても、結論は信用できない。逆に論理的でなくても、多数の起きた事柄や事実や多数の人の意見をごっちゃまぜにし、なんとなく出てきた判断のほうが、信頼できる場合が多いように思う。
 
これは、数学の論証とまったく異なる。そして、政治的決断には加藤陽子のような脳内多数決思考法の方が向いているように思う。
 
ただ理系の人間にとって、そうすることの負担は大きい。一言で言えば、理系の人間は記憶力が弱いので、加藤陽子が挙げる雑多な知識は、目から入ってきても、次々と忘れてしまう。脳内にとどまらない。
 
数学では、論じていることを記号列として紙に書く。紙に書かれた記号列に操作を加える。ここで試行錯誤を繰り返し、望ましい記号列にたどり着く。すなわち、情報を、脳の外にとりだし、具体的で操作可能なものとすることで、脳の負担を減らしている。
 
理系の人間が扱っている対象は、文系より単純だから、これができる。アインシュタインの脳は、普通の人より小さかったが、理系の学問に向かったから、成功できた。
 
加藤陽子のような思考方法の重要性を認めるが、正直言って、記憶力の悪い私がそれをまねるのは容易ではない。
 
[追記]
よく考えてみると、加藤陽子のような多数決型の思考法は、他者から見ると思考の結果が正しいかどうかの判断がむずかしくなる。論理的な思考法、筋道を立てた話には、間違いを見つけやすく、反論もできる。
これは、コンピューターのAIによる判断に通じる問題である。AIの判断は、学習の結果、そうなったというだけで、それ以外、どうして、そう判断するのかを説明しようがない。
筋道を立てて話すことも大事なのではないか。

大正時代に日蓮主義の熱狂があった、島田裕已の『八紘一宇』

2021-01-23 22:58:01 | 歴史を考える


加藤陽子の『戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗』 (朝日出版社)に、「石原莞爾」「最終戦争論」「八紘一宇」「田中智学」「国柱会」という言葉が出てきた。

じつは、私が子どものとき、両親の部屋に石原莞爾の本『最終戦争論』があった。その本をのぞいて、戦前は「国」を「國」と書いたことを知った。

また、母が日蓮宗の信者で、母のいとこを講師として母の兄弟が集まって「講」を開いていた。母のいとこは、田中智学の国柱会の信奉者で、地球ができてから20億年、宇宙が誕生して40億年と言っていた。現在の科学では地球ができてから44億年、宇宙が誕生してから138億年だそうである。私が大学院生のときは、宇宙が誕生してから200億年だった。

とにかく、加藤陽子によって、これら冒頭の謎の言葉が日蓮宗によってつながることがわかった。

そして、ふつか前に、図書館で島田裕已の『八紘一宇 日本全体を突き動かした宗教思想の正体』(幻冬舎新書)を偶然見つけた。

島田裕已がのべていることは、明治の終わりから昭和の初めまで、「日蓮主義」運動の熱狂があったということである。そのなかで、もっとも強い影響力を社会に与えたのが田中智学であるという。「八紘一宇」という言葉は田中智学の造語で、石原莞爾が「満州国建設」のときの理想としたという。

「八紘」とは「世界のはてまで」という意味で、「一宇」とは「ひとつの家」という意味で、世界が一体となるということらしい。

田中智学は江戸の庶民の出である。父が死んで10歳で日蓮宗の寺に入門し、19歳で還俗した。それ以降、在家の日蓮宗の運動家になった。組織力と経営力があり、「国柱会」を育て、著作、講演、文化活動を通して、信者を増やしていった。国柱会の会員には、石原莞爾、宮澤賢治、小菅丹治、近衛篤麿、高山樗牛、武見太郎などがいたという。

日蓮宗は「南無妙法蓮華経」という題目を唱える。浄土宗や浄土真宗は「南無阿弥陀仏」という念仏を唱える。唱える声の調子は、前者は煽動的で、後者は心をしずめる効果がある。

日蓮宗は他宗派に対して攻撃的な傾向がある。じっさい、開祖の日蓮は、他の宗派を邪教だから取り締まれと当時の鎌倉幕府に訴え、逆に、取り締まりの対象になっている。

島田裕已は、日蓮は、国というものを意識した最初の僧侶で、また、国や他宗派から迫害を受けることを「法難」とし、被害者意識をヒロイズムにかえたとみる。

田中智学は、さらに論理を飛躍して、天皇に日蓮宗が認められ、それにもとづいた善政が行われることを、運動の目標とする。田中智学は日蓮宗と天皇を中心とする国家主義とを結びつけた。

田中智学の講演や著作物は戦前の右翼や国家主義者や農本主義者に影響を与えたという、島田裕已はいう。「法難」からくるヒロイズムは「テロ」による弾圧突破につながる。

例えば、2.26事件で死刑になった北一輝は、田中智学の思想に影響を受けたという。ただし、島田裕已は、北一輝が神憑りの男だったという松本清張の説を紹介している。島田裕已は、私と同じく、非合理な考え方(神秘主義)をすることが嫌いで、北一輝を神格化する風潮に我慢がならないのだと思う。

このように、島田裕已は、田中智学の国柱会は、大正時代を最盛期とする「日蓮主義」の熱狂的運動だ、とする。私は、さらに、その背景は、明治維新で始まった欧米文化の怒涛のような流入に対して、江戸文化で育った庶民の反撃、自己肯定の運動ではないか、と思う。そして、自分は正しいのに、なぜ、貧しいままなのか、政治が間違っている、という思いにいたる。

しかし、政治の誤りを正すのに、彼が日蓮や天皇を持ち出したことが、あらぬ方向に日本を導いたのではないか、と思う。

戦前の右翼的思想や日蓮主義は、戦後も隠れた形で生き続けていると思う。私は、それを掘り出して対決する歴史家、宗教家、思想家が必要だと思う。

[補遺]
「八紘一宇」の田中智学による説明を島田裕已が引用しているが、田中智学の説明があまりにも意味不明なのに驚く。熱狂的運動とは、ひとびとの劣等感につけこんで、自己肯定感を催す意味不明の言葉、呪文を与えることで、引き起こされるのかもしれない。
〈世界人類を還元して整一する目安として忠孝を世界的に宣伝する、あらゆる片々道学を一蹴して、人類を忠孝化する使命が日本国民の天職である、その源頭は堂々たる人類一如の正観から発して光輝燦爛たる大文明である、これでやりとげようといふ世界統一だ、故に之を「八紘一宇」と宣言されて、忠孝の拡充を予想されての結論が、世界は1つの家だといふ意義に帰する。〉(田中智学)

損得からくる「不公平感」は解決つかない、困窮者救済を優先すべき

2021-01-21 22:24:31 | 新型コロナウイルス

新型コロナ対策で、時短要請で協力金の払い方をめぐって、不公平だという声が、テレビなどで取り上げられている。しかし、なんのために協力金を払うのか、何が不公平か、じっくりと考える必要がある。

不公平だという声は、どうも、新型コロナ対策で、本来儲けることができた分の損失を弁償するのが、当然だという考えからくるのだと思われる。しかし、これは、対策に直接協力して、労働時間が長くなったから、その労働時間の増加に合わせて賃金を上積みせよというのとは、本質的に異なる。

新型コロナのため、みんな、大なり小なり収入が減っている。新型コロナ「対策」による損失を正確に評価することはむずかしい。

新型コロナ対策では、ワクチン接種が行き渡らない限り、人と人との接触を抑えないと、感染の広がりを防げない。したがって、爆発的感染拡大の危険があるとき、不要不急の外出をしない、飲食店で会食をしない、という要請を個人にせざるを得ない。日々の新規感染者数が小さければ、そのような要請は不要だが、新規感染者数が医療体制を圧迫し、治療方法の確立している他の病気の患者の命を脅かすようになれば、新規感染者数を抑えるための行動規制をせざるを得ない。

そのために緊急事態宣言がある。

新型コロナ対策で本来儲けることができた分を公平に保障することは、もともと無理な要求ではないか。
すると、「協力金」というよりも、新型コロナ感染で経済的に困窮している人たちを救済するのが、まず最初にすべきことではないか。

緊急事態の新型コロナ対策は、私有財産を増やすという「自由」に一定の制約をかけるのはやむを得ない。この要請では、お金儲けをしていけないとまでは言っていない。商売の仕方を変えても良いわけだ、テイクアウトをやってもよいし、弁当を配達しても良いわけだ。

したがって、経済的困窮者が優先され、大規模事業者があと回しになったことは政治的には間違いでない。緊急の困窮者救済では、一律支給はやむを得ないと思う。大規模事業者は、「協力金」ではなく、別に、事業継続のための貸し付けという形で救済していくしかない。

「損得」という観点から叫ばれる「不公平」の解消は、いま、生きていけないという「困窮」の救済のあとに回しにすべきだし、「損得」からくる「不公平」を「公平」に裁くことはもともと無理である。

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