「2E」という奇妙な言葉がある。Twice Exceptionalのことである。日本語英語ではない。Wikipediaの英語版にものっている。単純化していうと、能力の凸凹が激しく、ある一面でとても才能に恵まれているが、他面では社会生活が困難な子どものことを言う。「子供」と言ったのは、Twice Exceptionalは教育家の立場からの言葉で、伸ばすべき才能があるが、支えるべき問題があるということである。
私はNPOでいろいろなタイプのいわゆる「発達障害児」を担当してきたが、能力の凸凹があるのは普通で、驚くことではないと思っている。
問題は「2E」とか「ギフテッド+発達障害」ということが、「金儲け」の対象にされていないか、ということである。金儲けの対象とされるのは、現在、私たちの社会が不公平のはびこる資本主義社会で、「特別教育」がその社会を有利に生き抜く唯一の手段であるかのように、親には見えてしまうことに原因があると思う。もし、私たちが平等を是とした中世の社会に生きていたら、「2E」なんてなんの問題を生まない。
親たちが現代社会の不公平を認めてしまうから、信じられないほど高い授業料の「特別教育」私立学校がでてくる。正札付き賄賂の道が公開されているようなものだ。これらの学校はテレビで宣伝したり、本を出版したりして、親たちを「2E」教の信者に囲いこむ。
これから、このブログで、私がNPOで担当してきた5人の子どもたちを順に紹介したいと思う。能力の凸凹がある子どもたち、何か才能があっても社会生活ができない子どもたちについて考える材料になることを願ってである。
今回紹介する子どもは、もはや、子どもでない。35歳である。はじめて会ったときは20代半ばをすぎていた。
パソコンで絵を描くのを指導してほしいということであった。アドビのIllustratorを使ってと、ソフト名を指定しての話しだったので、NPOで誰も引き受け手がいなかった。私は、外資系ITの研究所にいたからという理由だけで、押しつけられた。当日、私の前に現れたのはマスクをつけた青年である。なにもしゃべらない青年である。その青年の描く絵に魅せられて、いまや10年近くつきあってきた。絵にテースト(味わい)がある。ギフテッドである。
引き受けたとき、彼は、アニメのような絵を書いていたが、すぐに対象が、庭やテレビでみる花や生き物(昆虫、鳥、動物、家畜)になった。本人が選んだのである。
親から感謝されたことは、絵が上手になったことではなく、その青年が家で暴れなくなったことである。その青年は私から認められたことで、自分の立ち位置を見つけたのだろう。自尊心を得たのであろう。私は絵の指導をしていない。
父親は3年ほど前に退職した。暇になったらしく、ぶらっと話しにくる。それで、家庭での青年の生活ぶりがわかってきた。
不思議なのは、自宅では絵を描いていないことである。ソフトをもってきたのは父親であり、家にはパソコンもソフトもある。家で描くことができるのに描かないのである。私に見てもらうために描いているようである。
彼は、家では毎朝キチンと起きて、母親のために朝食をつくるのである。ご飯とお味噌汁とおかず(卵焼き、焼き魚、もやし炒めなど)をつくるのだ。
彼は、数独が得意である。
彼の問題は、人とうまく会話できないことである。言葉のキャッチボールができないのである。
数独ができるということは、無駄なく試行錯誤ができるということである。一時記憶に問題がないということだ。
会話ができないというのは、長期記憶の呼び出しがゆっくりとしか働かないことである。これに気づいたのオックスフォード小学校教科書の英語を読む指導をしてである。綴りから読みを思い出すのにすごく時間がかかるのである。忍耐をもって待ってやれば、読みを思い出し、声を出して読めるのである。
会話でもそうである。ゆっくりと時間をかけると意味を理解できる。返す言葉を見いだせる。しかし、急がすと定型の返事「そんなことはありません」が返ってくる。
したがって会ったときに話すことを定型にしておけば、まず、彼から話し出せるのである。現在、彼が私に声をかける定型文は「朝、何を食べましたか」である。それから、ゆっくりと会話の範囲を広げていけばよい。
さて、「特別教育」が彼に必要だったのだろうか。彼は発達障害の子どもたちを対象にした有名私立学校に通っていた。ストレスで学校で裸になって寝ころんだという。いじめも あったのではないかと思う。
特別な教育はないよりある方がよいだろう。しかし、大事なのは、社会が、その子の特性を理解し、受け入れ、その子の自尊心を育てることではないか。
彼の絵は素晴らしいから、アクセサリとか、文具の絵とか、ハンカチの絵とか、に採用してくれる会社があれば、彼の自尊心はますます安定して、家庭も円満になると思う。美大の卒業生の製作したデザイン画のほうが、彼の作品よりいいとは限らない。学校が教えるのは技術であって絵心ではない。