この2カ月間、テレビをつけると、笹川平和団体幹部とか防衛庁の防衛研究所幹部とか元自衛隊幹部とが、ロシア軍のウクライナ侵攻を解説をしている。聞いていて私は何か不快に感じる。なぜ、ロシアは、先に空爆をしてから、地上部隊を送らなかったのか、となど、ロシアの戦争のやり方が非効率的だとをのべ、自分たちが軍事専門家として優秀だと暗に自慢している。
戦争とは人を殺すことではないか。そんなに効率的に戦争することが、そんなにいいことだろうか。まったく おかしい。それなのに、効率的な戦争が、今のアメリカ軍のうたい文句になっている。テレビ出てくる日本人の彼らはそれを代弁し、暗にアメリカを称賛している。
大多数のアメリカ人は、戦争で不具や死人になりたくないから、自分は戦争に行きたくないと思っている。だからこそ、アメリカ政府は、戦争をゲームのように見せ、自分たちは効率的に戦争を遂行できると、国民に思わせているのだ。
日本にもう少し知的な人間はいないのだろうか。笹川平和団体や防衛研究所や元自衛隊よりマシな人間はいないのだろうか。
そう思っていたところ、きょう、朝日新聞の考論オンライン『〈侵略〉と〈戦争〉を考える――歴史・憲法・政治の現在地』があった。さっそく、オンラインに参加した。討論者は憲法学の長谷部恭男(65歳)、政治学の杉田敦(63歳)と日本近代史の加藤陽子(61歳)である。
戦争はしてもよいのか、という話しから始まった。杉田は、戦争犯罪を行わなければ、戦争しても良いという考えはオカシイと言った。ウクラナイでは18歳から60歳までの男は出国禁止だということは、総力戦である。戦闘員と非戦闘員との区別はなくなる。長谷部も、戦争というものは始まったら地獄であると述べた。「地獄」ということに私も同意する。
戦争をなぜするのか。それは、古代や中世では略奪が目的であったが、現代では、自分の意見に相手を従わせるためであると私は思っている。
杉田は戦争にホッブスの考え方とルソーの考え方があるという。ホッブスは、国と国が安全のために戦うが、国の安全よりも自分自身の生命のほうが大事であるから、国が自分の安全を保障しないなら、戦争を拒否できる自由がある、という。いっぽう、ルソーは、共同体を守るため、共同体の構成員は死を決して戦うべきだという。
長谷部は、ロシアはホッブスの立場で、ウクライナはルソーの立場だと述べた。聞いていて、これは政府の立場をいうのか、国民のタテマエなのか、国民の本音なのか、私にはわからない。ロシアは徴兵制ではなく、今回のウクライナ侵攻にあたっても、兵の補充のための募集広告が地下鉄にぶら下がっている。また、戦争に加担したくない若者は国外に逃げているし、国内も広いのでどこかに隠れて暮らせるという。
私自身は、国が「共同体」であるはずがないから、ホッブスの言うとおり、自分の生命を守るのが当然だと思う。
杉田は、戦争の目的は、ルソーのいうように憲法体制をめぐる争いなのか、加藤のいうように歴史観をめぐる争いなのか、と問うた。この質問の意図は良くわからないが、前者は長谷部の持論である。加藤も著作の中では長谷部の主張に賛意を示していた。
しかし、「略奪」型の戦争と違い、どちらにしても、相手とを倒さないと戦争が終結しない。したがって、「決闘」型の戦争となることは、長谷部も杉田も同意していたと思う。アメリカが西側の価値「自由」と「民主主義」の守る戦争をウクライナに押しつける限り、妥協点がみいだせない。加藤もその点に疑問を提示し、ロシアが侵略戦争を仕掛けた点の犯罪性を意識すべきと言っていたような気がする。
杉田は、「決闘」型の戦争でも、「冷戦」のように、相手を閉じ込めることで、ミサイルや戦車が出てくる「戦争」にならないで済むと言っている気がした。長谷部は「冷戦」も危険な状態であることは変わりがない、とした。長谷部は、ロシアはまっとうな議会制民主主義の国でないとした。
私は人を殺すという状態から抜け出るためには、「決闘」型では妥協できなくなると思う。
加藤は、ウクライナ侵攻の初めの段階でアメリカが強く出るという選択は、核戦争を引き起こすリスクがあったと言った。私は、アメリカはロシアとチキンレースをすべきだと思っている。核の使用は望まなくとも、全世界で廃棄しない限り、いずれ使われると思っている。
関連して、杉田は、敵基地攻撃能力よりも、専守防衛なら、原発の全廃、地下壕の建設が必要と言った。杉田は、また、ロシアのメンツを立てても、戦争状態は変わらないと言った。杉田の現実認識を私は支持する。
話の順は前後するが、ウクライナがロシアの軍事侵攻にすぐ下らなかったのは、加藤は、ウクライナがロシアの侵攻を予測して準備していたからではないか、と問題提起していたが、他の二人から言及がなかった。加藤の事実認識を支持する。
軍事専門家の技術論より、意味がある討論であった。今後の議論の発展を期待する。