これも数日前に掲載された、あるネット・コラムへの感想です。
まず、最初に断っておきますが、僕の思想(無論“思想”といえるほど大袈裟なものではない)は、一般的な見方からすれば、かなり左寄りなのだと思います。ネトウヨの人たちから見れば、「アカ」とか「パヨク」とか「売国奴」とかですね。そのような意味では、ここで取り上げる「プロデユーサー氏」と同類かも知れません。その前提で、以下に感じたことを記します。
まずコラム内容の要約。
>ある番組で、外国人(中韓人?)と結婚した日本女性に降りかかった事件を取り上げた。
>視聴者からクレームが付いた。「中韓人などと結婚すれば日本の純性が失われてしまう、日本人としてこの女性を許せない、即刻放送をやめろ、応じねば、担当プロデューサーやその周辺の人々(女性アシスタントなど)を殺害する」、という予告が寄せられた。
>警察に通報し、犯人は逮捕された。その過程で、プロデューサーやアシスタントの住所が犯人に知れてしまった。
>警察は失態を謝罪した。しかし、謝罪で済むようなことではない。大変な問題である。
>犯人にも、弁護士を通じて謝罪を求めた。しかし、彼は拒否をした。
>これは、言論の自由を踏みにじる行為に繋がる。許せることではない。
コラム自体が見つけられなくなってしまったので、僕が把握している範囲で梗概を記しておきました。細部は異なるかもしれませんが、全体としては概ねこんなところだと思います。
無論このプロデューサー氏の言う通りではあるのですが、僕には、どうにも違和感が残ります。2つ。
思想は同じでも、立場が異なる、ということが、その違和感の素かも知れません。
まず、あくまで僕の立場で(一般常識とはかけ離れている感想であろうことは承知の上です)。
住所が知れることが、そんなに重要な問題なのでしょうか? 近年、「個人情報」(を守ること)の大切さが説かれているわけですが、僕には実感としてよく分からない。個人的な意見(感覚)でいえば、情報など皆共有でよいと思っています。なんも知られて困ることなどないですし(笑)。
僕だったら、この犯人と、ゆっくり話し合ってみますね。まあ、「自分たちに危害を与えないこと」は確約して貰わねばなりませんが、「主張自体は間違っているとは思わないので、取り下げること(その発言に対する謝罪)は出来ない」と言うのは、個人の自由でしょうから、受け入れるしかありません。
より気になるのは、「脅迫」を「言論の自由の封鎖」、と捉えていることです。もちろん、(基本的には)その通りです。そんなこと(「脅迫」による「言論の自由」の封鎖がまかり通ること)は、忌々しきことです。絶対にあってはないことです。
でも、僕がこの記事に、何とも言えない「うさん臭さ」のような部分を感じることも事実です。
そりゃ、全ての日本国民、誰にでも「言論(発言)の自由」はありますよ。飲み屋で管を巻いていたり、個人のブログで鬱憤晴らしていたり、駅のプラットホームで独り言言ってたりする限りにおいては。
でも「公け」の場においての「個人の発言」の自由は、実質的にあるのでしょうか?
「エリート」は、「発言の場」を保障されていますね。でも、一般庶民に、その(現実的な)自由(発言を公けに向けて発言する場)があるとは思えない。ましてや、この犯人は、いわゆる「閉じ籠り」の「落ちこぼれ」のようですから、正面から自分の意見を言えるような「場」は、まずないでしょう。
もちろん、それとこれとは全く別の話であって、だからと言って、人に危険を与える行為に及ぶ(それを暗示する)ことなど言語道断です。そのようなことは絶対に禁止されねばならないし、現状、刑罰が軽すぎると思う。「殺害予告」などに対しては、禁固刑数10年の(それ自体を反省しないならば終身刑でも)罰を与えて然るべきだと思っています。
しかし、「思想」(それを訴えたいという想い)に関しては、謝る必要はありません。
繰り返し確認しておきますが、僕は基本的には、このプロデューサー氏の考えに同意しています。
と同時に、上から目線で弱者(この犯人のような人)を押さえつけてしまっては、結果として、巡り巡って、自らの訴える「自由」を、自ら「拒否」してしまうことになるのではないだろうか、と思うのです。
ちなみに、独裁政権の中国には、「自由」はありません。あからさまな監視社会です。でも、僕は平気です。監視されて困ることなど、どこにもないですし。
公安の人たちと一緒に、天安門事件の話題を話していても、大抵は何も起こりません。むろん、不都合なことは日本よりは多いでしょうし、建前的には党の批判はNGなわけですが、あくまで建前ということであって、実際には、大方の日本人が思うほどには、ピリピリはしていません(基本、中国人はアホですから←親愛的表現です)。
一方、日本は(建前上は)自由が完全保障されています。でも現実には、世界にも類を見ないほどの、「相互監視社会」なのですね(一番の問題は、皆そのことに気付いていないこと)。
「無意識強要同調空気」、すなわち「集団的な自己中心思想」が「正論」として客観化されて成り立ってしまっている。
「空気によって形作られた特権としての力」を得ることを、最も大事な要素として、概ね「科学の恩恵」とか宣りつつ、安易な方向、楽な方向にひたすら向かう。
そんな「ご都合民主主義」は、ブタにでも喰わせてやれば、と思っています。