まさこと には人名がある。その表記も亦、思わぬサイトでの人名紹介がある。清音で読むのは固有名として、ふさわしい。それを、まさごと と造語にして、匡ごと として、中国語に、>匡言的意思 进言匡正 と見えて、史記を引く。《史记·万石张叔列传》﹝ 万石庆 ﹞在位九岁,无能有所匡言。造語であったつもりが、すでに用例が見えるのである。拼音:kuāng yán とあるので、音読みをして、こうげん とすることもできる。それを、あれこれ思いめぐらせて、まさごと となる濁音には、どれほどの説明が可能か。こと 言字よりも、事字になりそうである。くりごと、たわぶれごと、なきごと、わびごと、さらに、うしろごと などというのもあって、ことごとく、意味がよろしくないかと思って、検索を語尾一致で調べたら、そうでもなかった。これはむしろ、かたこと、ひとこと、ふたこと みこと などと、少ない用例を見ていくと、こと ごと との間で使い分けがある。 . . . 本文を読む
建国記念の日は、民族の祭典となるか、民族合一の記念日となるか、分断されるとそれは統一悲願達成である、では、合一となると、日本民族があるか、ないか、どの民族がルーツになるか、ならないか、あるいは国家建設の日だとするなら、民族が国家に忠誠を表す日ともなるところ、紀元節日章旗は提灯行列のイメージで、いまならさしずめ、列島国家の民族がたどってきた自己確認となる日である。建国を祝うことのない、建国そのものを受け入れない民族はそうそう、あるものではない。何をもって日本民族を知るのか、民族の精神、心はどこに求めるか、と言うことである。自分の誕生日を祝えない、祝うことがない、そういう生活をしてきている。その思想生活を、より身に着けてきているのは、やはり、儒学の帝王学を庶民のものとした、これが民族の学びであったからだろうか。階級闘争、イデオロギー戦争、その独立戦争にあったのは、民族の合一であったのであろう。きょうは、日本にもそれがあった歴史を知る日である。 . . . 本文を読む