ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸の地名の由来(6)

2019-08-22 21:25:45 | 水戸
 
榎本(えのきもと)
 今の茨城県立歴史館南側を通る県道30号線の坂道あたりのようです。一本榎という古木があったそうで、多分それから付いた地名なのでしょう。小字でも榎本があったそうです。佐竹氏のころには刑場があったそうで、車丹波守が反乱を起こしたときに一族の馬場信介が処刑された地でもあるそうです。写真右が茨城県立歴史館です。
 
 
 
 
折居(おりい)
 日本武尊(やまとたけるのみこと)が塩崎に来て舟を着け、膝を折るようにして上陸したので付いた地名で、折井神社はその神を祀っているという地名伝説があるそうです。ただし、寄居神社の祭神は武甕槌命(たけみかづちのみこと)だそうです。写真は折居神社です。
 
 
 
 
新屋敷(しんやしき)
 今の新荘3丁目あたりの地で、家老・中山備前守(びぜんのかみ)が寛文6年(1666)に藩から支給されたそうです。そこに新たに屋敷地を開いて家臣を移住させたので、新屋敷と呼ばれるようになったそうです。その後、中山氏は寛政年中に今の高萩市に移ったため、陸田になっていたそうですが、徳川斉昭の時、改革で江戸住まいの家臣を水戸に戻すために、この地を造成して武士屋敷地にしたそうです。写真は梅小路の石碑です。こうした小路がたくさん作られたようです。
 
 
 
 
東台(ひがしだい)
 現在の東台1丁目の一部のようで、江戸氏の時代に武熊城がある高台だったそうです。佐竹氏の時代には廃城になり、その一族の東義久の居館があったそうです。東氏は当時「御東殿」と呼ばれたそうで、「おひがし台」という言い方は最近まであったようです。たぶんそうしたことからの名前でしょう。写真は武熊城趾の石柱ですが、柳町の竹隈市民センター(
 
 
 
八王寺町
 今の五軒町2町目あたりのようです。武蔵国八王子の城主北条氏照の家臣17人が、水戸藩に仕え、八王子の十七与力といわれて、水戸城浄光寺門あたりを守護したそうですが、その屋敷のあった地だそうです。写真は、左が八王寺町あたり、右が大成女子高等学校(です。
 
コメント
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