ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸の車丹波遺跡

2016-08-20 22:48:12 | 水戸

 車丹波守斯忠(くるまたんばのかみつなただ)は、佐竹氏の家臣で、佐竹氏秋田移封後も残って水戸城奪還をはかったものの、捕らえられて磔(はりつけ)になったそうです。徳川家康はその死を惜しんだそうです。判官(ほうがん)びいき伝説の一つなのでしょう。(写真は稲荷塚)

常照寺
 元吉田町2723 029-247-7172
 この地は馬場氏(大掾氏)の一族吉田氏の居館があった所で、佐竹氏の水戸支配とともに、その家臣の武将、車丹波の居城となったそうです。水戸城を守る南方のとりでの役割を果たしていたようで、堀跡などが残っています。

車塚
 元吉田町2461付近
 一本松があったところだそうで、車丹波の死骸を埋めたところとして信仰されていたようです。一本松のケイ(咳)さんといわれ、青竹の筒に入れた甘酒を供える習慣があったそうです。車丹波守憤恨の地と表示されています。

磔の地
 元吉田町2316-13付近
 高台にあるきつね塚ともいわれる稲荷(とうか)塚は、車丹波が磔(はりつけ)にされた地だそうです。磔の地は、青柳という説もあるようです。

咳(せき)の神さま
 元吉田町2461付近
 一本松の陰に隠れていた車丹波守が咳(せき)をしたために捕まったということから、咳の神様になっているそうです。常照寺の屋形から台町の車塚に通じる穴の中で咳をして、という話もあるそうです。

吉田松陰
 元吉田町2461付近
 幕末に水戸を訪れた吉田松陰が「千波湖の西を過ぎ高陵に登る、平原あり、蓋(けだ)し操場(磔の地という意味でしょう)なり。車丹波の祠を拝す。車は佐竹氏の臣なり。佐竹氏の徒封(しほう)の時、壁(とりで)を要(まも)り戦死すと云ふ」と東北遊日記にあります。あとから追って来た安芸五蔵の母は丹波の末裔だそうですから、それで行ったのでしょう。


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