ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸のお面(2)

2021-11-20 20:25:29 | 水戸

 拝殿以外でもときどきお面を見かけます。今回は神社拝殿で見たお面とともに並べてみます。水戸のお面(1)で、鼻が長いので天狗と書きましたが、たぶん、猿田彦がほとんどなのでしょう。猿田彦は、天津神(あまつかみ)である瓊瓊杵命(ににぎのみこと)が降臨したときに、国津神(くにつかみ)で道案内をした、鼻が七咫(ななあた)、目が八咫鏡(やたのかがみ)のようで、赤酸醤(あかかがち ほおずき)のようという異形の神だったようです。

 

東照宮行列(写真は水戸第一高校(三の丸1-5-38)入口付近)
 東照宮創建400年の記念に行われたという行列の先導をしたのは猿田彦のようです。鼻のそり上がった猿田彦は、旗の下がった鉾を持っているようです。

 

能面(偕楽園公園センター 見川1-1251)
 偕楽園公園センターで能面展が開催されていました。写真は、この能面展出品者の講師である青木二郎の作品で、令和1年に金沢能楽美術館で行われた第11回現代能面美術展で入選した小面(こおもて)という能面だそうです。小面は、16,7歳の少女の顔だそうで、若い女性の顔を表現した面のうちで一番若いものだそうです。ただ若いだけでないのが能面のすごさなのでしょう。

 

山車のお面
 山車(だし)ではいろいろなお面を見ることができます。水戸の山車での多くは、きつね、おかめ、ひょっとこのようですが、それぞれにいろいろなパターンがあるようです。写真は紺屋町の山車のおかめの踊りです。

 

拝殿内部(須賀神社 鯉渕町36°20'22.3"N 140°22'13.9"Eあたり)
 グーグルマップにない神社です。鼻はとれかかり、そうとう劣化しているようですが、見たところ、かなり古形を残しているお面のように見えます。

 

拝殿内部(鷲神社 千波町1945-1)
 これも猿田彦なのでしょうが、このお面に高い鼻はないようです。かつては祭事に使われていたのでしょう。

水戸のお面(1)

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水戸藩主・徳川斉昭の話あれこれ(10)

2021-11-19 19:49:55 | 水戸

写真は、横山大観が描いた「少年読本 水戸烈公」挿絵の斉昭像です。

 

 交易では、輸入するものは無駄で害ばかりある奢侈品が多く、それに対して、わが国は地中から掘り出す有限の金銀を渡してるという考え方が中心にあったようです。そして、異国は日本が交易を拒否することが無法だというが、交易などで関係をもって日本を奪おうとすることこそ無法であると考えていたようです。天保10年(1839)の将軍徳川家慶への建白書にあるそうです。

 

 大名や幕臣で志ある人が江戸の水戸藩邸に来ると、御座所に屏風などで仮の茶席をつくり、日常の大根の汁掛け飯と、卵の白身を月の輪形に切って野菜を加えたお吸い物を出し、相伴(しょうばん)には、水戸から新たに来た茶の知識のない文武の話を好む人を召して、我が家の茶人はこのようですといっていたそうです。

 

 斉昭が大子町で宿泊した家へ、その礼として、旅沢と名のれといって名字を与えたそうです。他にも起原説はあるようですが、極めて稀少な名字のようです。

 

 幕末の激動期をとりしきった老中・阿部正弘は、晩年は健康を害し、正視がはばかられるほどだったそうです。「15歳の新しい妾ができたから」とか「登城前には酒を2升くらい飲んでいる」などと茶坊主の噂話が流れていたそうですが、まじめな斉昭は、「交わりを減らせば」とか「牛乳を飲ませれば」などといっていたそうです。肝臓癌という説が有力なようですが、いろいろな説もあるようです。

 

 偕楽園の梅は、軍用の梅干しとして1,000樽が目標だったようですが、結局300樽ぐらいしかできなかったようです。しかも、その梅干しは、水戸藩幕末の内戦で、改革派の天狗党ではなく、諸生派などが手に入れて、斉昭の思いとは全く違う方向で使われたようです。

水戸藩主・徳川斉昭の話あれこれ(9) 

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水戸の方言(14)

2021-11-18 20:20:21 | 水戸

 今回も名詞です。「水戸案内」という明治時代の本からの言葉(ぢゃんか)も入っています。

 

あいまこうま
 仕事の間の断続的なひま(合間小間という、合間を強調した古語のようです。) 

 

おけいはく
 お世辞(宮城・福島・茨城・群馬・山梨で使われ、単にけいはくともいうように、全国方言辞典にあります。)

 

おへっしょ
 干塩(しょが塩なのでしょう)

 

かづま
 かど(つまは、すみの意味のようです。角つまがつまったのでしょうか。新潟でもすみをかずまというそうです。)

 

かみごと
 休日(神事でしょう。祭礼という使われ方から、その日が休みになるので、休日となったのでしょう。)

 

きどこね
 こたつなどへのごろ寝、うたたね(青森・秋田・宮城・福島・千葉県夷隅郡と全国方言辞典にはあります。きどころねともいうようです。)

 

きりばん
 まないた(駿河上総(物類称呼)・宮城・福島・関東以西(四国以外)と全国方言辞典にあります。切盤と日葡辞書(慶長8年(1603))にありますので、古い言葉のようです。)

 

だんま
 牝馬(駄馬がだんまになったようです。広く使われていた方言のようです。)

 

ぢゃんか
 痘痕(あばた)(全国方言辞典には、じゃんかのところに、まず、常州水戸(常陸方言)とあって、その後に、秋田・新潟などの県名が並んでいます。江戸時代にじゃんことも書かれたようです。)

 

のう、のー
 わら束をたくさん積み重ねたもの、藁積(わらづみ)(藁を積んだものをわらにお、にょうというようで、その言葉と関連があるのでしょうか。)

水戸の方言(13)

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水戸の源義家伝説(4)

2021-11-17 19:59:17 | 水戸

鹿島神社(鯉渕町2924)
 前九年の役で、天喜年間(1053-58)に奥州に向かった義家が、鯉渕を通ったとき、戦勝を祈願してここに鹿島神社を祀ったという社伝があるそうです。ただ、伝承によると、創建は天喜年間(1616)だそうです。

 

蔵田長者(鯉淵町)
 鯉渕には官道が通っていてにぎわっていたそうですが、蔵田長者(清水長者、中台長者ともいわれたそうです)と呼ばれた富家があったそうです。義家が奥州でおこった後三年の役で鯉渕を通ったとき、長者の家に3日間休息したそうです。義家は、役の平定後帰るとき、長者に50石の軍用米を要求したそうですが、46石しか集められなかったそうです。それを受けとって鯉渕を出発した義家は、戻ってきて長者の家を焼き払い、一家を清水沼近くで殺したそうです。その地を地獄谷といい、供出した米の田んぼを四十六石(しじゅうろっこく)というそうです。一盛長者をはじめ、似たような伝説は各地にあるようです。写真は、桜の清水沼です。そういえば、「桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる」と梶井基次郎が書いていましたっけ。

 

御旗(元石川町 36°19'29.8"N 140°29'59.6"Eあたり)
 元石川町・手子后神社の近くに御旗(おはた)という地名があるそうです。ここは、義家が兵をとどめて旗を立てたことからついた名前だそうです。「下畑遺跡御旗塚」という石碑がたっています。

 

武具池(杉崎町 36°23'09.4"N 140°20'13.9"Eあたり)
 義家が東征のときに、この池で武具を洗ったとか、武運長久を祈って武具を捧げたともいわれているそうです。写真左は「平成の内原十景 野鳥のさえずる武具池」と彫られた石碑です。

 

岩根の船渡
 岩根町の根本と、対岸の那珂市戸を結ぶ、岩根の船渡(ふなど)という渡しがあったそうです。義家の奥州出兵のとき、初手の軍勢が川に戸板を集めていかだとして渡ったことから、「初手の渡し」といったそうです。対岸の戸という地名も、使った戸板からいわれるようになったそうです。写真は那珂西大橋ですが、渡しはたぶんこの近くだったのでしょう。

水戸の源義家伝説(3)

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ぶらっと歩きの風景in水戸(86)

2021-11-16 20:31:08 | 水戸

梅園の手入れ(偕楽園 常盤町1-3-3)
 冬の前に行われる梅の手入れが偕楽園で行われていました。梅の木は3千本あるということなので、さぞかし忙しいことでしょう。徳川斉昭時代には1万本あったそうです。(撮影10/30)

 

菊花展(水戸八幡宮 八幡町8-54)
 この時期恒例の菊花展が行われていました。第一中学校という表示の三本立ての菊も展示されていました。きっと、授業か部活で生徒が育てた菊なのでしょう。神社は七五三で賑わっていました。(撮影11/7)

 

古紙リサイクルポイントシステム エコモ(JR東日本の多目的広場・MITO SKY PARK 三の丸 1-4-47)
 国際紙パルプ商事㈱が展開している、タウン向けの古紙リサイクルの仕組みのようです。いつでも処分できて、ポイントが付加されるという特徴があるようです。いろいろ出てくるなと感心しました。(撮影 11/13)

 

水戸御祭禮行列(水戸第一高等学校 三の丸1-5-38)
 14日に創建400年を記念して、大正時代以来100年ぶりという東照宮の祭礼行列が行われていました。総数300人という大行列で、騎馬の神主、武士等(市長もいました)あり、人力車に乗った神主あり、甲冑(かっちゅう)姿で歩行する武士あり、東武館のちびっ子剣士あり、梅大使あり、雅楽奏者あり、ご神体を納めた神輿あり、等々といった、バラエティーに富んだものでした。途中で東照宮に行ってみましたが、皆出払っていることもあるのでしょうか、境内は閑散としていました。写真は、水戸一高構内の出発点で、神主が出発の号令を発しているところです。(撮影 11/14)

 

水戸城御城印(北澤売店で購入 三の丸1-6-29)
 ドラゴンクエストウォークの「この城わが旅!日本100名城®キャンペーン」という企画の一環で発売された水戸城の御城印だそうです。イベントは12日に行われたようですが、これ(写真)は弘道館内にある、北澤売店にありました。帰ってネットで見るとすでに完売だそうで、メルカリに出品されているようでした。これで、水戸城の御城印は5枚目になるようです。(撮影11/14)

ぶらっと歩きの風景in水戸(85)

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