国について考えてみたい。
国とは、ひとつのファミリーである。
そこには、父がおり、母がおり、子供たちがおり、兄弟 姉妹がいて、そして従弟やおじいちゃん おばあちゃんもいる。
この、全体としての大きな大きな、家族が、国だ。
今回のフクシマを、家族の問題として考えてみたい。
家族のなかで、フクシマの子供たちを、どうやって守っていくかと、考えてみたい。
そして、いつ、どんなふうに 日本が間違ってしまったのかも、考えてみたい。
キザな言い方をするが、他に、言い方もないので、この言葉を使う。
愛
おそらく、日本人は愛をすべて失ってしまってはいなかったかもしれないが、相当量の愛を どこかで失ってしまったのではなかっただろうか?
愛がないために、人に優しくなれなかったし、ぬくもりを与えてあげることもできなかったのでは ないだろうか?
一体 どのくらいの人が、家に帰ると、お母さんが「おかえり」と出迎えてくれる経験を持つだろうか?
この国は、こう、考えた。
経済成長が著しいとき、とても人手が不足した。
そこで、プッと目を付けたのが、家庭にいる主婦だ。
彼女たちを働かせれば いい。
そのために、社会インフラ・・・(これが社会インフラと言っていいのかどうか)である保育所や託児所を作る。
そうやれば、主婦は働くであろう。
昔、かぎっ子 という言葉があった。
家に帰ると誰も居らず、鍵を自分で開けて家に入るという子供たちのことだ。
私と同じ世代には、そういう人が多い。
そしてそれが、いつのまにか平均的な家庭となり、当たり前のように 家に帰ると誰もいない家庭が増えた。
それで、また、もとの言葉に戻る。
愛
子供たちは、十分な環境とか高い学資とか、あるいは、かっこいい洋服や、さまざまなおもちゃや、習い事をすることが当たり前になり、あるいは、それに追いかけられるようになった。
だが、そのなかにあるのは、すべて商業主義で、愛は無かった。
古い木の机よりもスチールデスクが与えられ、エアコンの部屋で、勉強できるようになり、進学校に高い学費を払って入り、制服以外にも様々なアイテムを雑誌から探しては多くの小遣いを使って買い、そして、親の金でバイクを買い、あるいは、車を買ってもらう。英語塾、数学塾、ピアノ、バイオリン、そろばん、習字 などなど何がしかの習い事をし、そして、時間はなくなり気がついたら学校を卒業し 社会人になっていた。
私は、この可哀想な子供たちが、大人になって、人とコミュニケーションの取れないことで悩んでいることに、あるいは、ぎこちない形の愛情表現しかできなくなっていることに、あるいは、とてもいびつな愛情表現をして自分で自分を傷つけていることに、悲しみを 覚える。
愛を取り戻すためには、様々なもの・・・見栄であったり 欲望であったり 嫉妬であったり、を本当は捨て去ることが大事なんだ。
本当は、どうでもいいことなのに、多くの人間は、毎日 兢々としながら、自分のつまらない仮の姿である社会の中のなにがしかを、人生をかけて、子供たちの未来をも顧みず プライドと勘違いしてそれを まるで すべてであるかのように思っている。
例えば、駅前の屋台で焼き鳥を焼いて、それだけで生活をしている人間を、見下すことはできるけれど、アメリカからフランチャイズでやってきたケンタッキーーフライドチキンのカーネルサンダースの自叙伝を、ありがたく読んでいる人間ができあがったりするのである。
愛が無ければ、ビジネスも分からないし、家族もうまくいかないし、どんな成功も できるわけがない。
国とは、ひとつのファミリーである。
そこには、父がおり、母がおり、子供たちがおり、兄弟 姉妹がいて、そして従弟やおじいちゃん おばあちゃんもいる。
この、全体としての大きな大きな、家族が、国だ。
今回のフクシマを、家族の問題として考えてみたい。
家族のなかで、フクシマの子供たちを、どうやって守っていくかと、考えてみたい。
そして、いつ、どんなふうに 日本が間違ってしまったのかも、考えてみたい。
キザな言い方をするが、他に、言い方もないので、この言葉を使う。
愛
おそらく、日本人は愛をすべて失ってしまってはいなかったかもしれないが、相当量の愛を どこかで失ってしまったのではなかっただろうか?
愛がないために、人に優しくなれなかったし、ぬくもりを与えてあげることもできなかったのでは ないだろうか?
一体 どのくらいの人が、家に帰ると、お母さんが「おかえり」と出迎えてくれる経験を持つだろうか?
この国は、こう、考えた。
経済成長が著しいとき、とても人手が不足した。
そこで、プッと目を付けたのが、家庭にいる主婦だ。
彼女たちを働かせれば いい。
そのために、社会インフラ・・・(これが社会インフラと言っていいのかどうか)である保育所や託児所を作る。
そうやれば、主婦は働くであろう。
昔、かぎっ子 という言葉があった。
家に帰ると誰も居らず、鍵を自分で開けて家に入るという子供たちのことだ。
私と同じ世代には、そういう人が多い。
そしてそれが、いつのまにか平均的な家庭となり、当たり前のように 家に帰ると誰もいない家庭が増えた。
それで、また、もとの言葉に戻る。
愛
子供たちは、十分な環境とか高い学資とか、あるいは、かっこいい洋服や、さまざまなおもちゃや、習い事をすることが当たり前になり、あるいは、それに追いかけられるようになった。
だが、そのなかにあるのは、すべて商業主義で、愛は無かった。
古い木の机よりもスチールデスクが与えられ、エアコンの部屋で、勉強できるようになり、進学校に高い学費を払って入り、制服以外にも様々なアイテムを雑誌から探しては多くの小遣いを使って買い、そして、親の金でバイクを買い、あるいは、車を買ってもらう。英語塾、数学塾、ピアノ、バイオリン、そろばん、習字 などなど何がしかの習い事をし、そして、時間はなくなり気がついたら学校を卒業し 社会人になっていた。
私は、この可哀想な子供たちが、大人になって、人とコミュニケーションの取れないことで悩んでいることに、あるいは、ぎこちない形の愛情表現しかできなくなっていることに、あるいは、とてもいびつな愛情表現をして自分で自分を傷つけていることに、悲しみを 覚える。
愛を取り戻すためには、様々なもの・・・見栄であったり 欲望であったり 嫉妬であったり、を本当は捨て去ることが大事なんだ。
本当は、どうでもいいことなのに、多くの人間は、毎日 兢々としながら、自分のつまらない仮の姿である社会の中のなにがしかを、人生をかけて、子供たちの未来をも顧みず プライドと勘違いしてそれを まるで すべてであるかのように思っている。
例えば、駅前の屋台で焼き鳥を焼いて、それだけで生活をしている人間を、見下すことはできるけれど、アメリカからフランチャイズでやってきたケンタッキーーフライドチキンのカーネルサンダースの自叙伝を、ありがたく読んでいる人間ができあがったりするのである。
愛が無ければ、ビジネスも分からないし、家族もうまくいかないし、どんな成功も できるわけがない。