人は 間違う。
それは、どんなに勉強した人であっても、あるいは 賢い人であっても、どんな組織に属している人であっても、人である以上、人は間違う。
人とはそういうものなのだから、完璧とか絶対を 求めてはいけない。
民主主義だから、いろんな意見があっていいと思う。
100人いれば100通りの意見があってもいいだろうし、それが当たり前で、社会というものだろう。
私自身だって、今日はこう思うけれど、明日は違うかもしれないのである。
とりとめのない人だと思わないで欲しい。
人はそういう生き物なんだ。
かつて、多くの日本人が間違ったのは、原子力発電所を安全で安心でクリーンなエネルギーだと思ったことだ。
実際は
危険で、不安定で、とっても汚れたエネルギー資源だった。
ここで、考えなければならないのは、私たちはこれからどう生きていくのがいいのかということだ。
今、何かアクションを起こさなければならない。
どこかへ向かって、吼えたい。
そういうふうに 何かをしなければならない気持ちになっている人は 多いと思う。
私だって その一人だ。
だから、こうして毎日ここへ、なにがしかを 書いている。
だけれど、何をしたらいいのか、どこへ向いて吼えればいいのか、私自身 まだ分からないのだ。
間違った人を、責めることは、多分、簡単だと思う。
今、私と反対の意見を持っている人・・・たとえば、今でも原子力は安全で、今後もすすめようと考えている人・・・に対して、何かを 言ったところで 多分 彼は、変わらないだろう。
また、おそらく変わる必要もないのだろう。
それが民主主義なのだから。
ただ、世論の大多数というものは、存在する。
そして、私の観たところ、その大多数はすでに、原発を恐れ 飽き飽きしており、できれば、なくしてしまいたい と思っている。
もちろん、きちんとした統計を取ればもっとはっきりするかもしれないが、もう少し時間がたてば、より 深刻さが伝わり、より、恐ろしい現実が目の前に突きつけられてくるのは、確実である。
それは、誇張ではなく、 様々な形で 向こう5年間の間に 起こりうる話なのだ。
私は、計算としての科学や、広告を通してのプロパガンダは いざ、こういう現実を 目の前に叩きつけられたとき、無力化することを知っている。
その現実は、激しく人々を恐怖に陥れるし、不幸にさせるし、さらに言えば、根っこから萎えさせる力を持つ。
日本人のうち、例えば100人程度の奇形が産まれたとして、それがフクシマの子供だと喧伝されると、すべての日本人はおそらく国際結婚の機会を失うことになるだろう。また、フクシマのほかの地域の子供たちであったとしても、差別を受けることになるかもしれない。
これが、萎えさせる力である。
思想としての平等は、この場合あまり役に立たないだろう。
人は、平等であるという思想を 装飾として持ちたがるが、実際は、そうではないからだ。
それは、どんなに勉強した人であっても、あるいは 賢い人であっても、どんな組織に属している人であっても、人である以上、人は間違う。
人とはそういうものなのだから、完璧とか絶対を 求めてはいけない。
民主主義だから、いろんな意見があっていいと思う。
100人いれば100通りの意見があってもいいだろうし、それが当たり前で、社会というものだろう。
私自身だって、今日はこう思うけれど、明日は違うかもしれないのである。
とりとめのない人だと思わないで欲しい。
人はそういう生き物なんだ。
かつて、多くの日本人が間違ったのは、原子力発電所を安全で安心でクリーンなエネルギーだと思ったことだ。
実際は
危険で、不安定で、とっても汚れたエネルギー資源だった。
ここで、考えなければならないのは、私たちはこれからどう生きていくのがいいのかということだ。
今、何かアクションを起こさなければならない。
どこかへ向かって、吼えたい。
そういうふうに 何かをしなければならない気持ちになっている人は 多いと思う。
私だって その一人だ。
だから、こうして毎日ここへ、なにがしかを 書いている。
だけれど、何をしたらいいのか、どこへ向いて吼えればいいのか、私自身 まだ分からないのだ。
間違った人を、責めることは、多分、簡単だと思う。
今、私と反対の意見を持っている人・・・たとえば、今でも原子力は安全で、今後もすすめようと考えている人・・・に対して、何かを 言ったところで 多分 彼は、変わらないだろう。
また、おそらく変わる必要もないのだろう。
それが民主主義なのだから。
ただ、世論の大多数というものは、存在する。
そして、私の観たところ、その大多数はすでに、原発を恐れ 飽き飽きしており、できれば、なくしてしまいたい と思っている。
もちろん、きちんとした統計を取ればもっとはっきりするかもしれないが、もう少し時間がたてば、より 深刻さが伝わり、より、恐ろしい現実が目の前に突きつけられてくるのは、確実である。
それは、誇張ではなく、 様々な形で 向こう5年間の間に 起こりうる話なのだ。
私は、計算としての科学や、広告を通してのプロパガンダは いざ、こういう現実を 目の前に叩きつけられたとき、無力化することを知っている。
その現実は、激しく人々を恐怖に陥れるし、不幸にさせるし、さらに言えば、根っこから萎えさせる力を持つ。
日本人のうち、例えば100人程度の奇形が産まれたとして、それがフクシマの子供だと喧伝されると、すべての日本人はおそらく国際結婚の機会を失うことになるだろう。また、フクシマのほかの地域の子供たちであったとしても、差別を受けることになるかもしれない。
これが、萎えさせる力である。
思想としての平等は、この場合あまり役に立たないだろう。
人は、平等であるという思想を 装飾として持ちたがるが、実際は、そうではないからだ。