6iee.com(出典)
先日、演出家の蜷川幸雄さん(享年80歳)が旅立たれました。
不思議なもので彼は川越から田端の開成高に通っていらしたそうです。
田端といえば、やはり文学の地でそこに縁があったということを考えると、不思議ですね。
どちらかといえば、職人が多い地から、開成に通うということがコンプレックスだったとか…。
演者もそうですが、芝居、文学をする者は1つでも多くの傷がある方がいい。
1度、その世界に入れば、その傷であるものが、何より大きい宝になる。
傷は多く持てば持つ方がいい。
ただ、つか氏とは、やはり芝居の作り方もまるで違うようですね。
なんとなく日本人の考え方だなと思います。
蜷川さんの演出法を古い昔にテレビで見て、非常に驚いたことがあります。
『Wの悲劇』という映画ですが、中で劇中劇を行う場面があって、主役の当時トップアイドルの薬師丸ひろ子さんに劇で芝居をつけていくときに「不感症!」と怒鳴っているシーンがありました。
これは、こういう風に映画を作っていると番組宣伝で流れたものです。
役者に灰皿を投げるというのは有名な話でしたが、そこまで言うのかと思ったものでした。
私は偏愛の極致なので、この人が好きと思えば、それ以外の人は受け入れない。
私にとって、劇作家も演出家もつかこうへいという人しかいません(と言いながら、宮本亜門さんも好きです。デビュー作などつか作品に相通じるものがありますけどね)
という形で、つかさんの話に移ってまいります。
蜷川さんは役者さんにも、劇作家にも演出家にもここはこうしろと自分の気持ちを役者に伝えていた方かもしれません。
つかさんは役者にも芝居を教えるということはなかったのではないかと思います。
晩年につき合わせていただいたので、お若い頃は違ったのかもしれません。
少なからず、劇作家・演出家コースに教えるということはありませんでした。
あくまでご自身の経験を語るのみです。
ご自身の作品で勝負される方は、教えることはできません。
だから1流なのです。
ご自分の仕事を見せるだけです。
役者にはここは、こうしたいからと相談されることはあったと思います。
一時、井上ひさしさんもかかわっていらっしゃいましたが、井上さんも教えるというより、話をして相談をする感じでした。
ただ、井上さんは国語を、言葉の起源から学んでいらしたので、劇作家であれば、ここは守るべきだということを教えてくださいました。
つかさんはご自身の経験で、教えてくださることはありました。
けれどつかさんの稽古は初めて、それを見せていただいたときはからとても鮮烈としか言いようがなく、見事につかマジックで、稽古場に入られた時から、ご自身の芝居そのものという感じでした。
普段から、つか芝居をしているのが、つかさんです。
つかさんは音感が他のどの演出家とも違いました。
だから「つか以前つか以後」という言葉まで生まれたのです。
これを突っ込んで覚えてしまうと、こちらの日本語の「てにをは」が狂ってきます。
つかさんが最後の芝居をしているときにご病気であると、公表されました。
何かで一般の方のご意見で、いちいち、病気だと聞かされて芝居なんて観たくないというようなものがありました。
そのご意見は甘んじて受け入れたいと思ます。
けれどあれが、劇団内公演であれば、そういう形には宣伝を打たなかったと思います。
誰もそれを望んでいません。
あの時の公演は外部公演で、主催者が別におりました。
そうであれば、そういう話も絶好の宣伝材料になるのが、この世界です。
それを右から左に当たり前のように受け流されなければ、この世界ではやってはいけません。
私が、つかさんのことで泣かなくなったのは、実の父を亡くした後です。
実の父とも深いんだか浅いんだか因縁があり、今の私を作ったのは間違いなく父でした。
亡くしたからこそ、半分この世での縁が切れたからこそ、素直になれる関係でした。
いつか、私も自分で演出をしたいと思っています。
その時は、日本ではないような気だけが、今はしていますが…。