作家という世にも不幸な存在

2018-06-07 03:00:00 | 戯曲塾


 今風のpcとその間に挟まれた、現代風の羽ペン

 結構シュールな画(え)になりました。

 
 前も少し書いたことがあるんですが、凄く好きな作家というのが数人いるんですね。

 その方々の名前はあまり…好きであればあるほど出すことがありません。

 好きは秘すのです。


 というか、マイナー過ぎてどうせ知ってる人が少ない。

 あまり話が通じないというところはあります。



 それでも、私が愛してきた作家という方々は、かなり特徴的なというか、第一線で活躍されても悲しい経験をなさった方が多いです。


 推理小説というのは、昭和50年代、1970代には日本でほぼ出そろう大型は出そろっているんですね。

 そこから先は細分化がが始まる。

 謎解き第一、推理過程第一、その他諸々、好むところが細分化されたものが出てくることになります。

 すでに行き詰まりと言えば、そうなのです。

 だって、紀元前から読み物、演じられえるものはあり、シェークスピアの時代にほとんどの型が完成されたと言われています。

 とすると、もうあとは時代によるアレンジなど、斬新さが生命ということにもなると思います。


 ある方の小説で、ホモ、レズ、台所を牛耳る妻は、夫の生命も操れると中学生の頃に読みました。

 この方は、推理業界として最高の栄誉の賞を受賞なされた恵まれた方の作家でしたが、その実、あとから盗作疑惑が沸き、不遇にもあいました。

 本当に幸と不幸が相半ばしという表現かと思います。


 だから、昭和50年代に作られたこの方の作品で、その疑惑にさらされたものが10年以上経ってからやっと映画化されたときは怒りを覚えたほどです。

 本来、そこまでの出来であれば、もっと高い評価を受けて然るべきでした。

 映画化されればいいってもんじゃないけど、それだけ、注目を浴びるという意味ですね。
 
 小説は映画などの原作のために存在じゃないですから。

 これが戯曲だとまた意味は違います。舞台化されることが前提で書かれたものだからです。

 一口に書くと言っても、いろいろあるのですよ。



 私も目指したものはありました。

 ありましたが…これも理想と現実の狭間に立つと、なんだかな…。

 年齢も理想と現実というものの狭間で揺れる頃になると、かなり変わります。


 これからも変わり続けるのでしょう。

 生きているというのは、そういうことです。

 新しものを生むというのは、そういうことでなければ、存在理由を失います。






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