恩師のご著書「講演集」より
講演集、 三
自分の為に相手を「許させていただく」
「あんたは、前にあんなことをした。
私をあんな目に遭わせたではないか」と言って、
いつまでも根に持っている人、
これは、その人の心から過ぎた過去が消えないのですね。
「許し」も愛です。
神は絶対の許しもって私たちを許して下さっているのですから、
許されている自分を知って、私たちも人さまを許さなくてはいけません。
しかし、憎い人を許すのは、これは大事業です。
辛い目に遭わされたり、痛い目に遭わされた人を許すのは、
大変なことです。
しかし、これは、その人が憎いから許すのであり、
この許すというのは相手を許すのとは違います。
私たちは相手を許すと錯覚していますが、許すということは、
許させていただくことによって、
自分自身が怒り、憎しみ、恨み、という苦しみから、許されるのです。
自分が許されるのです。
許させていただくのは、自分の為です。
その許すことを知らない限り、自分が許されませんが、
有難いことに、時間と共に私たちは忘却します。
これも神の愛です。
経験したことが全部頭に詰まっていたら、
コンピューターが爆発しますから、
適当に忘れさせてもらえるのも神の慈愛です。
しかし忘れたと思ってもおりましても、縁に触れた時、
つまり、憎い人の噂が出たり、また誰かが憎い人を褒めたりした時、
「あの人は私をえらい目に遭わせた、あの時はああだった」と、
その時の苦しみがそのまま再現してきて許せないのです。
許させていただくとは、自分が救われることです。
憎しみが大きいほど、その人を許させてもらった時、
自分の安らぎが大きいのです。