浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

恩師の歌集「愛」より

我れ食べず人に施す母の愛
幼き我に布施教えらる

「講演集」より。

2015-03-16 00:23:52 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

          恩師のご著書「講演集」より


              講演集、 三


        癌を克服し、悟って死を迎えた方の話


不思議なものでして、私は今この世にあって、しかも全く別の次元にいる
自分を自覚することができるのです。
あの世この世ともに生き通しているという自覚ですね。
このことがはっきり分かった時、もうこの世の肉体への執着など何も無くなります。
一切の恐怖もありません。
常に心は安らかです。

人として生まれた者は、どうしても死の恐怖、いつの日か死ななくてはいけない、
死んだらどうなるのか、恐いのと違うだろうかと思いますが、この恐怖を
持ちますと、必ず苦しいです。
次の話を聞いて、ノイローゼが治ったり、病気が治ったという例がたくさんありますので、
もう一度その話をいたします。

九十二歳になる私の母にいつもここで聞いてもらうのですね。
「今日の話は結構やった」と、良かったら褒めてくれますし、同じ話を繰返しますと、
同じ話を二度聞くのは長いものや、気いつけや」と言われますけど、
「皆様からのアンコールでもう一度聞かせほしいと
言われますので、辛抱して下さい」と言ったのです。
別にネタ切れではありません。
話は無限に出てきますが、そういう病気で苦しいお方もおいでになっているかと思いますので、
少しでも参考になさっていただければ有難いと思いまして、
敢えてそのお話をさせていただきます。


             ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2015-03-15 00:35:42 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「講演集」より


             講演集、 三


         「癌」も心の持ち方で治る


この間、大阪駅前の第四ビルでのお話会の際、
すばらしいお話を聞かせていただきました。
今、お越しになっていたら、ちょっと手を挙げて下さい。
はい、ありがとうございます。
私が会場の入口の所でタバコを吸っておりましたら、
その方が「先生もタバコですか」と言って側にこられて、
私とは初めてお会いしたその方と話をさせていただいた時に、
「ああ、この教えこそほんものだと感じ入りました」と、
おっしゃって下さったのですね。

その方はあらゆる宗教を勉強なさったそうです。
二十年前に胃癌の末期で、あと一週間も持たないという状態の時に、
たまたまいろいろな方の話しを聞かれて、肉体と魂とは別だということを
悟られたそうです。
その瞬間から御飯が食べられたと言われます。
この肉体は神様にゆだねさせてもらったらいいと、
そのことを心の底から悟られた時、
今まで喉を通らなかった御飯がたべられるようになり、どんどん
回復して二十年経った今、大変元気に活躍なさっています。

その後、医師のレントゲン検査の結果、完全に癌がなくなっているのだそうです。
或るお方が、これは乳癌の方ですが、又手術をしなくてはいけないかと、
ひどく悲観なさっておられましたから、ぜひその方に会っていただいて、
体験ほど強いものはないので、あなたのお話を聞かせていただけますようにと、
お願いしました。
私は癌の経験はないのです。
だから、癌にかかっておられる方の苦しい心は理解することができません。
私が、いくら「あなたの心は分かります」と言っても、
相手の方には通じません。

それよりも、癌にかかってそれを克服され、
今健全なお方の口からお話を聞かせてもらったら、大変参考になると思います。
是非会って相手の話を聞いてあげ、
又お話を聞かせてあげていただけますようにと頼みました。
思いによって、癌のような嫌な病気でも治ってしまうのです。
ですから、心と肉体とは別のものだということを知るだけでは駄目ですね。
知識として知ったら、今度はそれを心の中の知恵として分からせていただくように
精進することが大事かと思います。


               ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2015-03-14 00:16:35 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        恩師のご著書「講演集」より


            講演集、 三


      高橋信次先生のお導き、「心行」朗読


先の続き・・・

―― 「心行」の朗読 ――

ありがとうございました。
こんな素晴らしい言霊を不要だと言いながら、
先生の教えを伝えている方がありますが、これはとんでもない間違いですね。
師を師として仰がない者にどうして師がその方のことを思いますか。
師をないがしろにする者を、どうして師が喜んで下さいますか。
師を称え師に報い、その師を乗り越えた時、その師は心から喜んで下さるはずです。
イエス様もおっしゃいました。
「私の如く行った者は私以上の奇跡を現わすであろう」と。
高橋信次先生も同じですね。
信次先生のように行った時、先生以上の力が頂けるはずです。


           ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2015-03-13 00:32:59 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        恩師のご著書「講演集」より


            講演集、 三


      高橋信次先生のお導き、「心行」朗読


私の師匠であります高橋信次先生が書いて下さった「心行」を、
今いろいろに書き改めて、似た本を出していられる先生があります。
自分が学んだお師匠様の悪口を言う先生方、又、
御家族の悪口を言う先生方もおられるようです。
しかし、それは許されません。
縁あって師として学ばせていただき、
その師又は御家族をくさしたり排撃したりするのは、
人の道として外れる行為であると思います。
私は死ぬまで高橋信次先生の教えを守っていきたいと
常に思わせていただいております。

今の私が存在を許されているには、先生のお陰です。
先生にご縁を頂きませんでしたら、今の私の存在は絶対に無いのです。
と申しますのは、私は今こうして皆様の前でお話させていただいておりますけれど、
以前は、目の前に二、三人いられてもお話をようしないような人間だったのです。
初めて、「今日はあなたがお話しなさい」と言われまして、
「どうぞ許して下さい、私はとても話ができません」と辞退しました。
「では、次にしなさい」と言われて、
三回、四回目になってもまだそういうこを言っておりますと、
「それでは、あなたは一生、話をすることはできません。
五分間でいいから話をしてみなさい」と言われまして、
初めて人の前に坐らせていただきました。
すると、膝はガクガク震えますし、身体は硬くなって、
お話をする声は上ずってきて、そのうち泣き声になって、
五分間が無限に長い時間のような思いをしたことがあります。

今日、私が皆様の前でお話をさせていただきますのも、
信次先生にご縁があったればこそです。
ですから、このご恩は一生忘れることができません。
その上、お話をさせていただくだけとは違うのですね。
その話を聞いていただいて大勢の方が救われて下さいます。
東京で或る先生の所でお話させていただきましたが、
その時のテープでほんとうに多くの方が心救われて下さいました。
そして、又お便りを頂戴したり、電話を頂いたりして、
その喜びを頂いております。

こんな未熟な私がお喋りさせていただきましたことによって、
人さまの心が変わって下さいます。
私は知識として学んだものはほとんどありませんが、行いを通して、
自ら行った結果をお話させていただきます。
そうしますと、皆様の心の中に素直に入っていただけるのですね。
作りごともございません。
実際にあったことばかりでございます。
毎回、お話に先立って「心行」の朗読をさせていただいております。
こんな「心行」は駄目だとか、もうそんなものを読む時代は過ぎたとか、
おっしゃる方がありますが、私はそんなことは絶対にないと思います。
その証拠に自分の心が安まります。


          ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2015-03-12 00:23:50 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師のご著書「講演集」より


         講演集、 三


     自分の為に祈ってはならない


私はその行いによっていろいろなことを体験させいただき、
その中から正法、神理を体得させていただきます。
お釈迦様或いはイエス様がお説きになり、
今生、高橋信次先生がお説き下さいましたその法を、
自ら行った時に必ず結果が出ます。

自分自身が心を正すことなく、どれほど祈りましても、
お参りしましても、功徳は一切ありません。
「祈り」というのは、自分の為に祈ってはなりません。
祈って許されるのは、「光をお与え下さい」
「未熟な私をどうぞ間違いなくご指導下さい」そして、
あとは「感謝」です。
これは祈りとして許されます。

しかし、金儲けさせて下さい、商売繁盛させて下さい、
病気を治して下さい、という祈りは、無理というものです。
理に合いません。
こういう無理は、神様はお聞き届けにならないのです。
他の方の幸せを願う祈りは聞き入れられます。

「心行」に書かれているように、
「祈りとは神仏の心と己の心との対話であると同時に、
感謝の心が祈りでもある」のです。
「神理に叶うた祈りの心で実践に移る時、
神仏の光はわが心身に燦然と輝き、
安らぎと調和を与えずにはおかない」―――
これは正に神理だと思います。
そして行った時、これは間違いなく神理だということを
自ら納得させてもらいます。


        ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2015-03-11 00:49:27 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「講演集」より


講演集、 三


    「ふるさと」の歌にある「志を果たす」とは


前々回からですが、西宮のUちゃんにバイオリンを弾いていただいています。
音楽といいますのは、音律の調和があり、私たちの心に調和を与えてくれます。
ふるさとの歌二曲を弾いていただきます。

「ふるさと」といいますのは、私たちが生まれたこの世でのふるさと以外に、
この世に生まれさせていただく以前の「魂のふるさと」があります。
そのふるさとを思い出しながら、共に合唱していただいたら結構かと思います。
ではお願いします(拍手)。

―――バイオリン演奏―――

ありがとうございました。
上手に弾いていただいて、ほんとうにありがとう。
音楽というのは心に響きます。
「志を果たしていつの日にか帰らん」と歌われています。
私たちがこの現象の世界で「志を果たす」とは、一体何でしょうか。
高橋信次先生の「心行」の中に、
「人々と互いに手を取り合って、調和を目的として互いに助け合い、
補い合いながら、この地上で幸せな仏国土、ユートピアをつくらんがため」
と書かれてあります。
地上にその世界をつくる為に実践することが、私たちの志を果たすことです。
「行うこと」は、学問が無くても、才能が無くても、
誰でも行うことはできるはずです。


          ~ 感謝・合掌 ~




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「講演集」より。

2015-03-10 00:44:43 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

          恩師のご著書「講演集」より


              講演集、 三


各地より集う喜び


こうしてたくさんの皆様に集うていただきまして、心からお礼を申し上げます。
ありがとうございます。
特に今日は東京からも、九州の鹿児島、大分からも、そして静岡、富山、京都、
和歌山、奈良など各府県から、私のような未熟者の話しの為に日本の各地から
集うて下さいまして、この喜びはほんとうに言葉に表すことができません。
心からお礼を申し上げます。
ありがとうございました。

今日来ていただきました福井のおばあちゃんは、足腰が立たなくて若い者が
止めておけと言うのに、どうしても連れていってほしいと言われて、
命がけで来て下さいました。
ありがとうございます。
また東京から昨夜十二時半頃に辿り着かれて、表から入ってこられますものを、
夜遅く入ったら悪いと思って朝まで表に立っていただいた方があります。
お仕事は、もう日本では少なくなりましたが、
ハンセン病の患者さんのお世話をなさっているそうです。
すばらしいご縁で、夜中から朝まで表に立って待っていただきました。
ほんとう申し訳ないことでした。


              ~ 感謝・合掌 ~




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「講演集」より。

2015-03-09 00:55:08 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    恩師のご著書「講演集」より


        講演集、 三


神の御心


いとしき我が子よ、いとしき我が子よ

そなた達は幸せに生きよ、健やかに生きよ

己自身を苦しめることなかれ

己を愛し、己を愛するが如く他を愛せよ

汝らの喜びは我が喜びなり

汝らの苦しみは我が苦しみなり

いとし子よ、自らを苦しむることなかれ

汝らは我がいとし子であることに目覚めよ

自らの神我に目覚めよ

我は愛故にそなた達を

形として現わせし厳しき現象界に旅立たせし者なり

いとおしきが故に旅立たせし者なり

いとし子よ、そなた達がこの地上に肉の身を持ち

旅立ちし日より今日までをよく振り返り見よ

我が心と汝らの心と想念行為を照らし合わせよ

もし我が心と離れし箇所に気付かば

それを悔い改めよ

その時、汝らの魂は清まれり

我が与えし、その肉の身を持ち我が思いを

この地上に示し現わせよ

我が心を地上に具現せよ

汝らは我がいとし子なるが故に我は汝らの父なり

父はただ、子の幸せを願う

自らを浄め、自らを高め、自らの神我に目覚め

我が胸の中に帰るべし

我はただ、汝らの帰りを待ち望むものなり


       ~ 感謝・合掌 ~




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「講演集」より。

2015-03-08 00:36:22 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        恩師のご著書「講演集」より


            講演集、 三

神の御姿

我は 姿あって姿なし

姿あっては 天地自然 万生万物の中に 我が姿を見よ

姿なくては 生きとし生けるものを生かさん その生命を 見よ

汝らを 姿あるものとして この地上に生じせしめ

姿なき 汝らの 神我となりて 我は証しせん


          ~ 感謝・合掌 ~





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「講演集」より。

2015-03-07 00:51:18 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「講演集」より


            講演集、 三


     はじめに


この講演集は縁あるお方のご好意とご尽力により、
お話会のテープを文字に起こしていただきましたものを、
何回分かまとめて一冊の書として世に著わしたものです。
幼い頃より「神様とは一体どのようなお方だろうか、人間とは何者だろうか、
心とはどういうものだろうか」常にこのような思いから離れることはできませんでした。
昭和四十九年十一月、私は故高橋信次先生のご講演に縁をいただき、
反省することによって己の心を知るこを学びました。
そして人間を幸せにするもの、或いは不幸にするものは、
すべて自分の心の作用によって現れていることが理解できました。
その結果、今の私はこの世の中の誰よりも幸せ者であると自認しております。

人さまは、私の毎日の生活が、一年中ただ一日の休みもなく、
自分自身の時間が皆無に等しいのをご覧になると、可哀そうな奴だ、
自分のことは何もできないで馬鹿な奴だ、と思われるかもしれません。
しかし、そう思うのは思う方の心であって、私の心ではありません。
自分に与えられた環境の中で足ることを知り、
常に感謝に心を切り替える練習を積み重ねた時、
たとえどのような環境の中にあっても私の心の中は幸せいっぱいになります。
この幸せを一人でも多くの方々にお伝えしたい、喜びに満たされてほしい、
苦しみから救われていただきたい、
ただこの一念で私の命の尽きるまで人さまにお伝えさせていただきたいと思っております。
浅学非才無学文盲の愚か者ですが、日々の生活実践と自分の体験談を通して
喜びに至る道をお話をさせていただいております。

『愚か者の独り言』第一集、第二集はお陰様で大変好評を頂き、
身に余る幸せと心から感謝申し上げます。
不思議なお手紙やお電話を無数に頂きました。
この講演集を読んで医師から不治と言われた病気が治ってしまった、家庭内が
調和された、離婚寸前のご夫婦が離婚を取り止め仲むつまじく暮らせるように
なった、商売がうまくいくようになった、本が現実に光り輝いているのを見た、
嫁姑の間が良くなった、子供が良い子になってくれたなどと、うれしいことで
ございます。

幸甚と、申す以外に言葉もありません。
この不思議な出来事の数々は、全く無償でご奉仕して下さいました皆様の愛が、
神の愛として現象化して現れたものと確信致しました。
ただ感謝あるのみです。
この書の編集にご尽力いただいている方々に、
刊行が大変遅くなりご迷惑をおかけしたことを心よりお詫び申し上げます。
原稿に目を通す時間がなく、地方講演の道中、新幹線の中や船の中で、
少しずつ手を入れさせていただきました。
本書を通しまして、一人でも多くの方々の幸福を祈念してやみません。
                       合掌
平成二年九月
長尾 弘


              ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2015-03-06 01:16:20 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

           恩師のご著書「講演集」より


              講演集、 二


           老人の呆けと憑依現象


先の続き・・・

こんなことを言うと、お医者さんに叱られますが、現実にはそういうことですね。
ですから、医者では治りません。
老人呆けを、医学上は老人性脳軟化症と言っていますが、呆けが進みますと、
最終的には毒を食べても病気にはなりません。
それは、自分に意識がないからです。
私たちが食べ物に当たったり病気をするのは、「ああ、これを食べたら恐い、
それは毒かと違うか、あれが悪かったのかなあ」などと思うからです。
呆けたら、そういうことが分からなくなりますから、いくら食べても腹痛は起こらないし、
腐った水を飲んでも大丈夫です。
現在は、衛生をやかましくいう時代ですから、ボウフラの湧いた水を飲んだら、
皆腹痛を起こします。
さきに話したおじいちゃんなんか健全なものです。
普通だったら、六人分七人分の御飯を食べたらお腹がパンクしますが、
それも起きません。

不思議な憑依現象の例があります。
これは泉大津の方の話しですが、お譲ちゃんが四国の松山の方と結婚されるので、
両親が四国へ行かれて道後温泉で一泊され、又お婿さんの家でも泊めてもらって、
二、三日して帰ってこられました。
それから、そのお父さんは食べるわ食べるわ、
お茶碗に八杯食べてもまだお腹がいっぱいにならないので、お寿司を三人前買ってきて、
家族にも恥ずかしいからお茶だけ持って自分の部屋で食べるというのですね。
お菓子を一箱もらったら、誰にもやらないで一人で食べる。
その方が私のところに来てそんな話をされるから、「それはおかしい、
もう食べないようにしてあげましょう」と言って、ちょっとお祈りをして、
「今晩食事をされたら電話して下さい」とお願いしておきました。

夜八時頃電話がありまして、
「先生、今食事をしましたら一膳の御飯でやっとでした。どういうことでしょうか」と言われるので、
「あなたに大きな伊予狸が憑いていましたよ」と言うと、びっくりしておられました。
あれは狸が食べていたのですね。
そういうこともあるのです。
泉大津駅の前にジャンボどら焼きといって大きいのを売っています。
私はあんな大きいのは一個もよう食べませんが、それを四つも五つも食べていたと言うのです。
考えられないことが起きますが、そういうのは簡単にとれます。

憑依現象の中にはこういうのもあります。
そこら辺りに坐っていた方に「来なさい」と言いますと、ピューンと六メート
ほど飛んで来たので、憑いていたものをとり除きますと、
「いったい僕、何してますのや」とおっしゃるから、
「あなた、あそこからここまで飛んで来ました」と言うと、
「ほんまですか!」とびっくりされました。
オリンピックの選手でもそんなに飛べませんね。

そして、悪かった肝臓もいっぺんに治ってしまって、
これから帰って野球がしたいと言っておられました。
まあ、こういう不思議なことがいろいろありますので、
私たちは日々の生活の中でいかに心を正しく生きていくかということが大事なことです。
過った想念、行為に陥りますと、
目に見えない世界の闇のエネルギーの支配を受ける危険が常にあるのです。
だから常に心を光に満たしていきたいと思います。
長い時間ご静聴いただき、どうもありがとうございました(拍手)。
                              合掌


               ~ 感謝・合掌 ~




※ 講演集二はこれで終了です。
   次回からは講演集三です、御期待下さい。



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「講演集」より。

2015-03-05 01:28:13 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

          恩師のご著書「講演集」より


                講演集、 二


          老人の呆けと憑依現象


ほかにも、何人かの老人呆けが治った例があります。
これは統計的に見まして、一種の憑依現象が起きているのです。
だから、憑依している方を救わせてもらったら、呆けが治る場合がよくあります。
呆けると、自分の家が分からなくなって、夜中に飛び出したまま迷子になるのですね。
外に出て行くのはいいのですが、帰り道が分からなくなる。
それで家族中で探さねばならなくなるのです。
そういう状態の方が何人も治っておられます。
それはどういうことかと言いますと、この世とあの世との間に境界があります。
生と死の境界線です。

人間は健康な時、幼い時など生命力が溢れている時は、
この死の境界線が遠のいているのです。
若くても病気をしてだんだん進行して生命力が弱まってくると、
死の境界線に近づいてきます。
病気が最悪の状態になると、死の境界の中に入って行くわけです。
そうしますと、死がおとずれます。
また年をとって次第に生命力が弱まりますと、やはり死の境界線に近づいていきます。
若い時は神も仏もあるものかと思っている仏心の無い人が、年をとったら、
しきりにお寺参りをするようになるね。
死が近づくから知らない間にあの世が恋しくなって、お寺参りをするのです。
そして、やがては死の境界に入ります。
もう全部入ります。

だんだん年をとって七十代、早い人は六十代半ばで呆けている人があります。
七十代を越えて死に近づいていき、死んだことを知らないでこの地上に思いや
執着を残した人が、肉体は無いのに意識となって境界線をうろうろしています。
その境界線をうろついている人がたまたま近づいてきた人と心の通じた場合、
その人にとりついてしまいます。
すると、他の人格ができあがります。

死後の世界、つまりこの境界線を越えた時は、いつも言うのですが、もう尻を
向けたら一目散にさんに走っていくことです。
境界線からいっときも早く遠のくことです。
この世への執着の思いを持てば、境界線の辺りをうろついてしまいます。
これが、迷える霊です。
いつまで経ってもこの世から離れないで、生命力の弱い人、或いは自分の
思いと一致した人の中にポッと憑依するわけで、取り憑かれたということに
なります。
老人にはそういう場合が多いように思います。


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「講演集」より。

2015-03-04 00:30:26 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「講演集」より


             講演集、 二


  尽くせば相手も自分も救われる―――お年寄りへの愛


先の続き・・・

「私はこうしてあんたがあの世に行くのをちゃんと見送るから安心しなはれ、
何も恐いことはない。
この世は自分の魂の修行をさせてもらう仮の宿であり、
私たちはあの世へ帰った時、ほんとうのふるさとに帰ることができるのや。
ふるさと、ほんとうの家に帰るのだから恐いことはない。
この世の一切の思いを離しなはれ。
誰に対しても思いを持ってはいけない。

そして、この世に生きさせてもらった間のことをよくふり返ってみなはれ」
と言っておりますと、頷いて握っていた私の耳を離してくれました。
息が止まる前に、「いよいよこの世にさようならをしなくてはいけないのやでー」
と、まあ、おじいちゃんに話すのですから、それぐらいしか話せないのですけど、
幸いおじいちゃんはもう家族のことはみな忘れてしまって誰のことも分からないから、
「あの世にちゃんと帰るまで見ててあげるから安心して行きなはれ」
と言って話させていただき、家に戻りました。

すると一時間くらいして、今亡くなりましたと知らせがありました。
死にかけた人が今生の力をふりしぼって愛を求めたのです。
あの世に帰る方法を伝えさせてもらって、「分かったかー」と言いますと、
「おおきに」と言われましたね。
この体験をさせてもらったことで、現在老人の呆け問題がやかましく言われておりますけど、
そういう呆けたお方でも、世話する人がほんとうに心からお世話なさった場合には、
治る可能性が高いということを教えていただきました。


            ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2015-03-03 00:28:51 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        恩師のご著書「講演集」より


             講演集、 二


    尽くせば相手も自分も救われる―――お年寄りへの愛


先の続き・・・

その頃、一度腕が抜けたことがあったのですね。
おばあさんにドンドンたたかれて、腕が抜けてしまい、
医者が一番嫌いだったのに、痛いものだから医者に連れてって呉と泣き出されたのです。
呼ばれて私が行きますと、腕はポッとすぐはまって、動くようになりましたので、
それ以来、おじいさんが私をよけい好きになってくれました。
私の顔を見たら、幼児が喜んだ時のように何とも言えない笑顔でうれしそうにされるのです。
しかし私のおばあちゃんが声を掛けたら、「ウォーッ」と言って怒るのです。
「お前の顔を見たらあんなに嬉しそうにして、私が声をかけたらえらくこわい顔をされる」と、
おばあちゃんは言いますが、
それは、自分のおばあさんに腕を抜かれたものだから、
自分のおばあちゃんと同じ老人と思うのでしょうね。
(大笑い)。

いよいよ亡くなる時がきて、その二時間ぐらい前に家の人が私を呼びにこられたのですね。
おじいちゃんは髭を剃っても怒るものだから、髭はボウボウで、
しかもその髭に飯粒がいっぱい付いているのです。
死にかけているのに、そんな恰好で寝ているのですね。
私が「おじい、分かるか」と言いますと、目を開けて私を見て、
「おう、織屋の兄さん」と言いました。
ところが、自分のつれあいも、息子さんも、息子さんのお嫁さんも、
Sちゃんの為にためるのだと言って貯金をしてやっていた孫のSちゃんの顔も、
分からないようになっています。
死ぬ間際に、他人の私に「ああ、織屋の兄さん」と言うのに、
家族の顔は誰一人分からなくなっていました。
愛だけがそれを超えます。

常日頃の愛だけは、呆けた方にも通じます。
「おじい、分かったか、私やで」と話しかけますと、
満足そうに何回も、うなずいておられました。
それから、おじいちゃんの顔を上からのぞき込むようにして引導を渡しました。
「人間は遅いか早いか必ず死ななくてはいけない。おじいが先か私が先か、
そんなことは分からない。今こうして話しをしていても、
その角で車に当たると私のほうがポンと先にいくかも分からない。
しかし順番からいったら、おじいが先に死ななくてはいけない。
死ぬのは何も怖いことはないのやで」と話していますと、ウオーと叫んで両手をのばしました。
おじいちゃんが今世の力をふりしぼって引き付けましたから、もう逃げられません。
私の耳を引っ張って自分の頬っぺに私の頬をくっつけて離してくれないのです。
まあ汚い髭づらに私、頬ずりしてもらいましてね(笑い)。


             ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2015-03-02 02:19:31 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        恩師のご著書「講演集」より


            講演集、 二


   尽くせば相手も自分も救われる―――お年寄りへの愛


尽くすことによって、尽くされた相手の方が救われます。
そして自分自身も救われます。
こんな年寄りは早く死んでしまったらいいのにと思ったら、よけい長生きされます。
そうなっているのです。
ついには、呆けて何も分からなくなっても、まだ生きていられます。
だから、尽くさせてもらったら、その時がきてサッと引き取ってもらえます。
年寄りに物を惜しんだらいけません。
人間は、食べるだけ食べなくては死にません。
もし呆けでもきますと、六人分、八人分の御飯はいっぺんに食べてしまいます。
おかずでも、じゃがいもの煮っころがしを家族七人分を大鍋に作っていても、
おじいさん一人でいっぺんに食べてしまって、知らん顔しておられるのですね。
現実にはそんなに食べられるはずがないのに、食べられるのです。
これは私の家から三軒向こうのおじいさんのことです。
もう亡くなられましたが、呆けてよく迷子になられました。
お嫁さんが私の家で働いておられましたので、私が車で探し回って見付けては
連れ戻しておりました。

度々なので、
「これではかなわないから、名札と電話番号を服に縫い付けあげて下さい」と頼みました。
すると、思いもかけない遠い所から電話が掛かってくるのですね。
だんだんと呆けが進みますと、もう遠い所へは行けなくなって、
近所をうろうろしておられました。
冬の寒い時には、「おじいちゃん、家の中にお入りなはれ、
こんな寒い外をうろうろしないで、一服してストーブの側に坐りなはれ」と言って、
タバコに火をつけてあげますと、喜んで吸っておられました。
夏になっても、冬のオーバーを着て歩いておられるのですね。
「この暑い中を、どうぞ中に入ってタバコでも一服しなはれ」と、
又タバコに火をつけて一服してもらいました。
こうしておじいちゃんが、目につけば、必ず家の中へ入ってもらっていました。
呆けの進行の最中におじいちゃんがおっしゃるのですね。
「お前ら偉そうに言うてもな、織屋の兄さんにものが言えるか、言えるのは
俺だけやぞ」と。

おじいちゃんにしてみたら、織屋の兄さんをすごく偉い人のように思っているのですね。
だんだんと呆けが進行して、あの火事のあった家に雨垂れをためるかめがあったのですが、
夏のことですから水が真っ青になって腐って、ボウフラが湧いているのを、
オーバーを着たままで、その水を手ですくってガブガブと飲まれるのです。
そこのお宅の人がびっくりして飛んできて、「おじいさん、あんな水を飲んでる、
腹痛が起きるよ」と心配されましたが、腹痛は起きないです。
当時家族七人分のおかずと御飯をいっぺんにぺロと食べてしまわれるのですから。


             ~ 感謝・合掌 ~



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