生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアの眼シリーズ(38)古代のインドーヤマト文化圏(その9)

2017年07月22日 08時48分24秒 | メタエンジニアの眼
その場考学研究所 メタエンジニアの眼シリーズ(38)         

このシリーズはメタエンジニアリングで「優れた文化の文明化へのプロセス」を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
                                                
TITLE: インドの時代   KMB3359
書籍名;「インドの時代」[2006] 
著者;中島岳志  発行所;新潮社  発行日;2006.7.25
初回作成年月日;H29.7.14 最終改定日;H29.7.22 
引用先;文化の文明化のプロセス  Converging 

 現役の若い日本人とインド人が、どのような見方をしているかを知るための著書がある。在日のインド人、サワジーヴ・スインバ「インドと日本は最強コンビ」講談社α新書[2016]は、題名の通りの中身なので、詳細は省略する。ここでは、外語大学でヒンドウー語を専攻し、アジア・アフリカ研究が専門の日本人の著書を紹介する。少し古いが、現代のインドから絶対的真理を模索している。





 冒頭では、『以上のような急激な都市社会の変化は、』(pp.50)に続けて、インドにおける急激な経済的な発展の結果生じた様々な社会問題について、詳細に述べている。特に、高学歴の若者の数が急激に増えたが、その能力に見合う職業が不足して、深刻な社会問題化しているのだが、インド特有の問題は、その人数の多さで数千万人に上っているということで、そのことは人口減少の日本にとっては、羨ましい話だ。

『経済発展を至上命題としてきた1990年代以降のインドは、経済の自由化によって多くのものを手に入れてきた。しかし、その反面で、多くの大切なものを失ってしまったのではないかという喪失感と虚脱感が多くの人の間で共有されている。そして、彼らの多くが、経済的豊かさの獲得を至上命題とするような生き方を見つめなおし、「如何に生きるべきか」「私の存在とは何か」といった根源的なアイデンティティーを問い始めている。』(pp.56)

この辺りまでは、いかにも東洋的で日本にも当てはまるのだが、その後の展開が大いに異なってくる。
その結果が、「ヒンドウー・ナショナリズム」として現れて、さまざまな形に分裂をして活動されている具体的な内容が示されている。穏健なもの、過激なもの様々である。

やや過激な例としては、『インド固有の科学こそが、世界の最先端の知や技術を生み出してきたことを強調する。(中略)英語の起源はサンスクリット語であるとするシャルマの著書、(中略)ヒンドウー・ナシナリストは、「サンスクリット語を使用するアーリア人によって担われた古代のインド」を至上の価値と措定し、サンスクリット的ヒンドウー教こそがインドの問題をすべて解決すると主張する。』(pp.62)などである。

・新しいヒンドウー教

ここでは、インドの先端社会の変化の速さが強調されている。それは、宗教の世界でも例外ではなく、拙速を忌み嫌う日本とは好対照に思える。しかし、どちらにも長所と欠点があるのだから、両者のハイブリッド化ができれば、有力な力となり得る。
新しいヒンドウー教では、「デザイン化される神々、電飾寺院、ハイテク寺院」などが紹介されているが、どれも相当な規模であるところが日本とは異なる。

『このような寺院のハイテク化は、一見、反伝統的で歪な現象のように見えるが、彼らは概ねそのようなシステムの導入を、伝統的な寺院のありかたと矛盾しないものとして捉えている。多くの寺院の壁には「ラーマーヤナ」をはじめとした神話の場面が描かれ、僧侶が人々に絵解きをしながらダルマのあり方などを語ってきた伝統がある。このような宗教伝統が電化され、ヒンドウーの宇宙観や神話世界をよりリアルに体験できるように工夫されたのが、ハイテク寺院の姿なのである。』(pp.122)

 日本各地にも同様なものが多々あるが、それらはいずれもハイテクではない。そこがインドと異なる。

・単一論的宗教復興の問題

 ここではS・ハンチントンの「文明の衝突」を引き合いに出して、文明の構成原理を各種キリスト教、イスラーム教、儒教、ヒンドウー教などのベースで成り立っている現代文明が、必然的に衝突をするという論理を紹介し、現在はそのような流れの中にあることを認めている。
しかし、『インドにおけるヒンドウー・ナショナリズムとイスラーム過激派の対立も同様の見方をすることができよう。しかし、ここでハンチントンが言うように、現代世界における宗教復興運動は、必然的に宗教対立を生み出してしまうのであろうか。私は断じて「否」と言いたい。』(pp.198)と述べている。

・多一論的宗教復興の可能性

『多一論とは、地球世界という相対レベルにおける多様な個物は、絶対レベルにおいてはすべて同一同根のものであり、地球世界における「多なるもの」は、その「一なるもの」の形をかえた具体的現れであるという概念である。つまり、真理は絶対的で唯一のものであるが、地球世界における現れ方は、各宗教によってそれぞれ異なるという考え方である。』(pp.198)

『地球世界における個別的な宗教体系やそれぞれの差異は、あくまでも言語や物質を伴った相対的なもので、超越的な真理そのものだはない。それぞれの宗教は、あくまでも真理に至るための「道」であるに過ぎず、その「道」自体が真理なのではない。しかし、相対世界に現れた「多なる宗教」は、「一なる真理」へと誘う確かな道である。宗教の違いは、歩む道の違いに過ぎず、すべての道は「一なる真理」へと向かっている。このような絶対レベルにおける唯一性と、相対レベルにおける多様性を認め、世界に存在する宗教的差異を、「一なる真理に至るためのアプローチの違い」と認識することが多一論である。』(pp.199)

『このような多一論はなにも現代社会の宗教対立を乗り越えるために編み出された新しい考え方ではない。これまで、世界中の歴史的な宗教思想家たちが、言語や表現方法を変えつつ主張してきた宗教哲学である。』(pp.199)

その事例として、般若心教の言葉や、西田幾多郎、鈴木大拙和はじめとして、各国の有名宗教家の例を挙げている。このことは、確かなことではあるが、メタエンジニアリング的に考えると、ひどく単純である。つまり、「手段の目的化」がここでも起こっているということに過ぎない。手段の目的化は、通常の社会で頻繁に起こる。そして、一旦起こると、本来の目的を忘れて、手段の達成を目的として突っ走る。つまり、部分最適の世界に入り込む。そして、部分最適は、進めば進むほど、全体最適とは矛盾する結果を引き起こす確率が高くなる。

多一論は、観念論としては正しい。しかし、歴史から考えると、多くの高名な学者が主張してきた有名な理論であっても、グローバル化された世界での実現は、ますます実現が困難な方向に進んでいると思っている。