先日、『在宅ひとり死のススメ』という本(上野千鶴子著、文春新書)を買って読みました。
もちろん自殺を勧める本じゃなくて、メディアによってさんざんネガティブなイメージを植付けられた「孤独死」を、もうちょい聞こえが良くなるよう著者が発案された呼び名が「在宅ひとり死」であり、これまで無視されて来たそのメリットを我々に教えてくれる本。
そりゃあ無論、ひっそり死んで何日も経ってから発見されちゃ悲惨だけど、そうならないよう準備さえしとけば心配ご無用ってワケです。
著者の上野さんは前期高齢者となった現在まで独身を貫き、すでに“おひとりさま”の生きざまをポジティブに語った本を何冊も出されてます。で、生きざまについてはもう語り尽くしたもんで、今度は死後のことを考えてみようと。
「ホンネをいうと、わたしは生きてるあいだのことしか、関心がありません。死後の世界などまっぴら。葬式やお墓などの“終活”にも、何の関心もありません。葬儀は密葬で、遺骨は散骨してほしい、と遺言状には書いてありますし、遺言執行人も指名してあります。散骨場所は国内某所、たいしてめんどうな場所ではありません。そのくらいのことを頼める友人もいますし、少々の迷惑をかけてもいいでしょう。」(“はじめに”より抜粋)
私は大賛成、大共感です。
ちょっと話が逸れますが明日、自宅でお彼岸の法要があるけど、それは信仰深い父が生前に墓や神棚を自分で用意してたから“親孝行”としてやってるだけのこと。
信仰心がほとんど無い私としては、けっこう頻繁にある法要(宗教の人から『何日に伺いましょうか?』と電話がかかってくる)でけっこうな金額を支払い、そのたびに「これっていつまで続くの?」「いいカモにされてない?」と疑問が沸くばかり。
先月はお盆、今月お彼岸、さらに来月は命日もあるし、3ヶ月で10万近くも取られちゃう(父が亡くなったのは一昨年です)。そんなのが続いたら生活が破綻しかねないから、明日「もう今回限りで結構です」って言うつもりだけど、それって非常識なんでしょうか?
ちなみに参加する親類縁者はいつも私1人だけ。母は父の死を認識してないし、今やメール1つよこさない兄もわざわざ呼んだりしません。
だからこの先、私が兄より先に死ぬことになっても、彼に看取って欲しいとはツユとも思わない。数少ない友人にも痩せ細った死に顔なんか見せたくない。本当に“ひとり死”が一番! それも自宅死!
最悪なのは病院死で、患者が担ぎ込まれたら医者は職務として延命措置するしかない。ほぼ意識が無い状態でも治療費や入院費がどんどんかさんじゃう。
よっぽど苦しい症状に見舞われた場合は別として、老衰なら介護施設でそのまま看取ってもらう方が絶対いい(父がそうでした)し、可能なら住み慣れた自宅でモデルガンやフィギュアに囲まれて死にたいもんです。
現在は訪問による介護や看護、看取り、葬儀までプロに任せる選択肢もあるってことを、この本で学びました。究極の理想じゃないですか? パートナーがいても心中しない限りは片方が先に逝く。最期はどうせ独りです。
死ぬ時だけふだん付き合いの無い親類縁者に囲まれて、それが果たして幸せなのか私には解んない。病室で幼い孫に泣きつかれた爺さんが、最期に遺した言葉が「うるさい!💢」だったというw、ホントにあった逸話もこの本で紹介されてます。
まあ、賑やかなのが好きな人は賑やかに見送って欲しいのかも知れないし、これも十人十色でしょう。私は静かな環境で死にたいし、誰かに見送って欲しいとも思わない。だから父の葬儀も家族葬にしたし、母か兄が私より先に死んでもそうするつもり。
誰だっていつかは必ず死ぬんだから、早めに考えておくに越したことはありません。
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