曽野綾子氏の著によるエッセイ『夫の後始末』を読んでて自分の無知を恥じた、現実の話。それは、例えばアフリカには「後期高齢者の介護」という概念自体が存在しないこと。(余程の富裕層は別として)
なぜなら、そんな年齢まで達する前にみんな死んじゃうから。救急車を使う費用が異様に高く設定されており、その場で全額支払えなければ患者が苦痛でのたうち回ってようが救急車は見捨てて帰っちゃうそうです。
救急車なんてまだ存在しない時代や、未開地の話なら人の寿命が短いのも想像つくけど、現代のそれなりに進歩した地域でもそんな事情があるとは知りませんでした。
けど、人間本来の寿命はそんなもんで、90歳とか100歳まで生き延びる事こそが不自然。いまNHKで放映されてる手塚治虫原作のアニメ『火の鳥』もまさにそれ(人が不老不死を求める愚かさ)がテーマですよね。
私は母の穏やかな最期、つまり出来るだけ苦しまず、眠るように息を引き取る理想的な死を心から願ってるし、そのために頑張って来たつもりだけど、それこそが「マンガみたい!」と言われても仕方ないほど、現実は甘くない。救急搬送されたときの母の苦悶する姿を見て、つくづく思い知りました。
けれど曽野綾子さんがおっしゃる通り、それも神に与えられた運命だと受け止めれば(見守る側としては)まだ気がラクです。
正解なんて無いんですよね。神を信仰するしないに関係なく、死ぬときは苦しむのが当たり前と覚悟すべし。見送る家族も、延命処置を選ぼうが治療中止を選ぼうが、どっちにしたって罪悪感からは逃れられない。
だから親の介護は、恵まれた国に生まれた我々が持つ特権であると同時に、とてつもない試練でもあるんです。
PS. 今回の記事は何日も前に書いたもので、実はボツにするつもりでした。が、今日、私が下した重大な決断へと繫がる伏線に(結果的に)なったので、載せておきます。
今日、私がどんな決断をしたかについては、明日書くつもりです。
« 「悔いを残さない為に。」 | トップ |
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます