大村正次の「春を呼ぶ朝」詩集題名は、最初「真珠」であったようだ。日本海詩人2-4号(昭和2年4月号)の発行予告は「真珠」となっているが、2-6号では「春を呼ぶ朝」にかわっていた。
壺制作:宝塚M夫人
晩年の大村正次については、「シベリア横断の嵯峨寿安(注1)、日本史綱の嵯峨正作(注2) 兄弟と大村屋とは姻戚関係にあり、…廃絶した嵯峨家のため、お盆になると嵯峨家のお墓またい(掃除)に懸命であったときく。」とある。(道正弘著 「日本海詩人」主宰者 抒情詩人大村正次)
「大村屋」とは如何なる家であったのか、調べた結果以下の通り推測する。
大村屋とは、加賀藩における交通制度整備の折、(寛文二年、1662年)伝馬機能(参勤交代、領内要所間の交通のために人馬を供した。)を東岩瀬に集約、公用伝馬の継立を行う宿駅を置いた。安永年間(1772-81年)は大村屋半兵衛家、天保年間(1830-44年)以後は大村屋与右衛門・同真次郎家が知られるという。(富山県姓氏家系大辞典より抜粋。)交通手段が北陸線の全面開通(大正2年、1913年)により鉄道に取って代られるとしても、「大村屋」の一族と考えられるなら、繁栄振りも最後の頃になっていたのでは、と思うが、大正初期に師範学校への進学も経済的にもまだまだ十分可能であったかと思う。「正次」もその妻「キク」同様、恵まれた家庭環境に育ったものと言ってもよいものと思う。このことは、「当たらずとも遠からず」と思っているが、如何であろうか。
壺制作:宝塚M夫人
晩年の大村正次については、「シベリア横断の嵯峨寿安(注1)、日本史綱の嵯峨正作(注2) 兄弟と大村屋とは姻戚関係にあり、…廃絶した嵯峨家のため、お盆になると嵯峨家のお墓またい(掃除)に懸命であったときく。」とある。(道正弘著 「日本海詩人」主宰者 抒情詩人大村正次)
「大村屋」とは如何なる家であったのか、調べた結果以下の通り推測する。
大村屋とは、加賀藩における交通制度整備の折、(寛文二年、1662年)伝馬機能(参勤交代、領内要所間の交通のために人馬を供した。)を東岩瀬に集約、公用伝馬の継立を行う宿駅を置いた。安永年間(1772-81年)は大村屋半兵衛家、天保年間(1830-44年)以後は大村屋与右衛門・同真次郎家が知られるという。(富山県姓氏家系大辞典より抜粋。)交通手段が北陸線の全面開通(大正2年、1913年)により鉄道に取って代られるとしても、「大村屋」の一族と考えられるなら、繁栄振りも最後の頃になっていたのでは、と思うが、大正初期に師範学校への進学も経済的にもまだまだ十分可能であったかと思う。「正次」もその妻「キク」同様、恵まれた家庭環境に育ったものと言ってもよいものと思う。このことは、「当たらずとも遠からず」と思っているが、如何であろうか。
摂津国の怪人
(注1):嵯峨寿安(1840-98) 日本人として初めてシベリアを横断した人物、新川郡東岩瀬(富山市)の大村屋の出身。家は代々伝馬問屋を営み、父健寿は医者となり金沢で開業、安静四年江戸の村田蔵六(大村益次郎)の蘭学塾に入り、二代目塾頭となる。その後金沢壮猶館教授となり、明治二年加賀藩よりロシア留学を許され、翌三年横浜から函館を経て、ウラジオストックからシベリアを横断して、ぺテルブルクに赴いた。明治七年帰国。北海道開拓使を命じられる。後に失意のうちに岩瀬に帰り医者を開業するが、明治三十一年(1898年)広島で客死(富山県姓氏家系大辞典より)。大村正次二才時に亡くなったことになる。(後日改めて触れる予定だが、「正次」の北海道行きの理由の一因を成したとも考えられるので、記憶願い度し。)
(注2):嵯峨正作(1853-90)史学者であり東岩瀬村(富山市)の医師嵯峨健寿の四男。兄に寿安が
いる。明治25年上京、東京経済雑誌で「大日本人名辞書」の編纂にあたる。同二十一年独学の成果「日本史綱」を著す。菩提寺は東岩瀬の養源寺。(富山県姓氏家系大辞典より)
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