我が家の便所には小さな本棚が壁につくってあり、幾冊か本が置いてあります。そして気が向けば本を手にとって、数ページ読むことがあります。出久根達郎(作家)の『残りのひとくち』という本からエッセイをひとつ写します。
母の手紙
土子隆輝(つちこたかき)は古い友人で、お互いに、毎日中学生新聞に作文を投稿していて知りあった。
中学を卒業すると私は上京した。土子は大学入学で、三年後、東京に出てきた。その時初めて会った。それまで手紙のやりとりだけだった。
彼は筑波山麓の、旧家のひとり息子であった。同い年の私たちはたちまち意気投合し、しょっちゅう往き来していたが、ある日、彼の下宿で雑談中に郵便小包みが届いた。彼の母上が息子に送ってきたのである。衣類であった。
ところが衣類に包まれて、タバコが十数個出てきた。隠すように入れられてあった。
「なんだ。また送ってきた」土子が照れたように言い、いくつか私にお裾分けしてくれた。
私が感動したのは、息子にタバコをすすめる母の愛情であった。息子はまだ未成年なのである。
良い悪いというより、子供の嗜好に理解を示す母の姿が、私にはうらやましかったのだ。
私の母は、およそ息子に関心を持たなかった。十五歳の少年が、ひとりで都会生活をしているというのに、元気か、の手紙さえ寄越さない。つめたい親だ、とうらんでいたのである。そんなだから正月も家に帰りたいと思わなかった。
土子が気の毒がって、わが家で過ごさないか、と誘ってくれた。私は喜んで応じた。
土子の実家は、呉服や洋品や化粧品などを商っていた。手広く商売していて、だから正月は、いわゆる書き入れ時であり、遊びにこられると迷惑に違いなかった。
しかし母堂は、いささかもいやな顔をせず、あたたかく迎えてくれた。店番のあいまをみては、ごちそうをこしらえてくれ、正月は特別だから、と未成年に酒を強い、タバコをふるまってくれた。もっとも私たちはこの二つは、大っぴらにやっていた。
一泊し、私は満足して帰京した。すぐに母堂に礼状を認(したた)めた。折り返し、手紙をいただいた。「何のおもてなしも出来ず、たった一晩でお返(ママ)ししてしまい、誠に恐縮に存しておりましたのに、ご丁重な御礼状をいただき……」とあり、続いて、
「喬輝もご承知の通り一人っ子でわがまま者です。苦労知らずに育ったため全くの世間知らずで、貴兄様から見たらホンの子供で、本当におはずかしい次第です。世の中の甘い、からい、すっぱいの味も何一つ知らず、甘っちょろい世の中のチョッピリしか知らぬ人間です。どうぞ先輩の社会人として、よろしくご指導の程くれぐれもお願い申し上げます。二十五日から来月六日頃まで試験の由、最善をつくしてもらいたいと、親の方は一生懸命ですが、親の心子知らずでまことに困ります。ではまたいらっしゃいね。向寒の折柄、十分お体をお大切に。」
昭和三十八年一月十七日、土子裕子とある。
私は一読、落涙した。世間知らずの、ホンの子供は、私であった。世の中の甘い部分しか見ていない人間は、この私であった。
私は実の母親から言われたように、シュン、となった。心地よい、しょげ方だった。肉親の、このような言葉に飢えていたのである。母堂の手紙は大切に保存した。
確か私の母とおっつかっつの年ではなかったか、と思う。一昨年、亡くなられた。その報を聞いた時、三十数年前の手紙を取り出して、読み返した。手紙のありがたさは、筆跡と文章に故人が生きていることであった。読めば、いつでも故人の声が聞けることであった。
昨年、私の母が天寿をまっとうした。遺品を整理していたら、「タカラハコ」とたどたどしく記された小箱から、十五歳の私が母に宛てた手紙が現われた。上京して、まもないころ書いた手紙である。なぜ手紙をくれぬか、と母をなじっている。
実はその後わかったのだが、私の母は全く文字を知らない人だったのだ。息子に責められて、どんなに、せつなかったろう。
母の手紙
土子隆輝(つちこたかき)は古い友人で、お互いに、毎日中学生新聞に作文を投稿していて知りあった。
中学を卒業すると私は上京した。土子は大学入学で、三年後、東京に出てきた。その時初めて会った。それまで手紙のやりとりだけだった。
彼は筑波山麓の、旧家のひとり息子であった。同い年の私たちはたちまち意気投合し、しょっちゅう往き来していたが、ある日、彼の下宿で雑談中に郵便小包みが届いた。彼の母上が息子に送ってきたのである。衣類であった。
ところが衣類に包まれて、タバコが十数個出てきた。隠すように入れられてあった。
「なんだ。また送ってきた」土子が照れたように言い、いくつか私にお裾分けしてくれた。
私が感動したのは、息子にタバコをすすめる母の愛情であった。息子はまだ未成年なのである。
良い悪いというより、子供の嗜好に理解を示す母の姿が、私にはうらやましかったのだ。
私の母は、およそ息子に関心を持たなかった。十五歳の少年が、ひとりで都会生活をしているというのに、元気か、の手紙さえ寄越さない。つめたい親だ、とうらんでいたのである。そんなだから正月も家に帰りたいと思わなかった。
土子が気の毒がって、わが家で過ごさないか、と誘ってくれた。私は喜んで応じた。
土子の実家は、呉服や洋品や化粧品などを商っていた。手広く商売していて、だから正月は、いわゆる書き入れ時であり、遊びにこられると迷惑に違いなかった。
しかし母堂は、いささかもいやな顔をせず、あたたかく迎えてくれた。店番のあいまをみては、ごちそうをこしらえてくれ、正月は特別だから、と未成年に酒を強い、タバコをふるまってくれた。もっとも私たちはこの二つは、大っぴらにやっていた。
一泊し、私は満足して帰京した。すぐに母堂に礼状を認(したた)めた。折り返し、手紙をいただいた。「何のおもてなしも出来ず、たった一晩でお返(ママ)ししてしまい、誠に恐縮に存しておりましたのに、ご丁重な御礼状をいただき……」とあり、続いて、
「喬輝もご承知の通り一人っ子でわがまま者です。苦労知らずに育ったため全くの世間知らずで、貴兄様から見たらホンの子供で、本当におはずかしい次第です。世の中の甘い、からい、すっぱいの味も何一つ知らず、甘っちょろい世の中のチョッピリしか知らぬ人間です。どうぞ先輩の社会人として、よろしくご指導の程くれぐれもお願い申し上げます。二十五日から来月六日頃まで試験の由、最善をつくしてもらいたいと、親の方は一生懸命ですが、親の心子知らずでまことに困ります。ではまたいらっしゃいね。向寒の折柄、十分お体をお大切に。」
昭和三十八年一月十七日、土子裕子とある。
私は一読、落涙した。世間知らずの、ホンの子供は、私であった。世の中の甘い部分しか見ていない人間は、この私であった。
私は実の母親から言われたように、シュン、となった。心地よい、しょげ方だった。肉親の、このような言葉に飢えていたのである。母堂の手紙は大切に保存した。
確か私の母とおっつかっつの年ではなかったか、と思う。一昨年、亡くなられた。その報を聞いた時、三十数年前の手紙を取り出して、読み返した。手紙のありがたさは、筆跡と文章に故人が生きていることであった。読めば、いつでも故人の声が聞けることであった。
昨年、私の母が天寿をまっとうした。遺品を整理していたら、「タカラハコ」とたどたどしく記された小箱から、十五歳の私が母に宛てた手紙が現われた。上京して、まもないころ書いた手紙である。なぜ手紙をくれぬか、と母をなじっている。
実はその後わかったのだが、私の母は全く文字を知らない人だったのだ。息子に責められて、どんなに、せつなかったろう。