古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

村の人総出の草刈り/次の日曜日に燃やします。

2022年01月23日 19時28分18秒 | 古希からの田舎暮らし
 散歩に出た道子さんが帰ってきて「村の人が総出で蛇ガ池の草刈りしてるよ。軽トラが20台ずらっと並んで止まってる」といいます。
カメラをもって出かけました。みなさんは仕事中です。近くに寄るのは遠慮して、遠くから撮りました。

 左のほうと右の道に軽トラが止めてあり、蛇ガ池の堰堤を草刈りしているところです。蛇ガ池/福地池/は隣り村と共同で田んぼの水をもらう池です。草刈りも共同でやります。村をウロウロしているのは老人が多いですが、日曜日は、若い勤め人も出てきます。老人にはむずかしい堰堤の斜面も、若い人なら草を刈れます。背負い式エンジンの草刈り機は音が違います。みるみる草が刈り倒されていきます。
 見とれていたら道子さんが「村は生きている、ってひしひし感じるね」といいます。たしかに老人の野良仕事とパワーがちがいます。
 刈り倒した草は一週間放置して干します。来週の日曜日に、また総出で消防団のポンプを引きながら、草を燃やします。毎年、忘れて見逃しますが、来週はカレンダーに記入して、忘れないように見たいと思います。

 我が家の玄関から70メートルくらい山の方に行くと、写真の茂みがあります。ここは分譲宅地です。5年くらい前に、この区画の所有者が茂みの木を全部伐り倒し、片づけ、草を刈って、更地にしました。75坪160万円と看板も立てました。
 5年で元の茂みに戻りました。細い木がいっぱい生えています。〈元の木阿弥〉ですね。そんな区画が70以上あるそうです。昭和46年頃に宅地分譲で売れたそうです。土地を買った親は亡くなり、いまは子供が相続しているのかな。どうしようもありませんけど。

 バードフィーダーにスズメが帰ってきました。30羽近く群れて飛んできます。地面の粟粒をついばんでいます。するとシロハラがやってきて、ちょっとおどします。スズメたちは、パッと飛び上がり、また下りて、ついばみます。シロハラを恐れてはいません。アオジも2,3羽飛んできます。シロハラはアオジには知らん顔しています。毎日粟を撒くのでなくなりました。餌の切れ目が縁の切れ目にならないように、明日粟を買いにでます。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『独ソ戦』を読みました。

2022年01月23日 03時01分00秒 | 古希からの田舎暮らし
 先日紹介した『独ソ戦』という本には、引用したいところがいっぱいあります。文明国同士の地上戦の残虐さ/ヒットラー/ナチス/スターりン/など。その中で一つだけ。(「共犯者」国家)という項目のところから引用します。


 ドイツ国民は何故、絶望的な情勢になっているにもかかわらず、抗戦を続けたのだろう。第一次世界大戦では、総力戦の負担に耐えかねた国民は、キールの水兵反乱にはじまるドイツ革命を引き起こし、戦争継続を不可能としたではないか。ならば、第二次世界大戦においても、ゼネストや蜂起によって、戦争を拒否することも可能ではなかったか。どうして、1944年7月20日のヒトラー暗殺とクーデターの試みのごとき、国民大衆を代表しているとはいえない抵抗運動しか発生しなかったのであろうか。
 これらの疑問への古典的な回答として、しばしば挙げられるのは、連合国の無条件降伏要求である。周知のごとく、1943年1月のカサブランカにおける、ローズヴェルト米大統領とチャーチル英首相の会談で打ち出された方針で、枢軸国に対しては、和平交渉を通じての条件付降伏を認めないとするものだ。ナチス・ドイツは、無条件降伏など、全面的な屈服と奴隷化を意味することだと喧伝し、それをまぬがれたければ、ひたすら戦い抜くしかないと、国民に対するプロパガンダに努めた。また、体制の統制・動員能力が、秘密警察等により、第一次世界大戦のときよりも飛躍的に高まっていたため、組織的な罷業や反抗など不可能だったとする説明もある。
 けれども、近年の研究は、より醜悪な像を描きだしている。本書でも述べたごとく、ナチ体制は、人種主義などを前面に打ち出し、現実にあった社会的対立を糊塗して、ドイツ人であるだけで他民族に優越しているとのフィクションにより、国民の統合をはかった。しかも、この仮構は、軍備拡張と並行して実行された、高い生活水準の保証と社会的勢威の上昇の可能性で裏打ちされていた。こうした政策が採られた背景には、第一次世界大戦で国民に耐乏生活を強いた結果、革命と敗戦にみちびいた「1918年のトラウマ」がヒトラー以下のナチ指導部にあったからだとする研究者もいる。
 とはいえ、ドイツ一国の限られたリソースでは、利によって国民の支持を保つ政策が行き詰まることはいうまでもない。しかし、1930年代後半から第二次世界大戦前半の拡張性政策の結果、併合・占領された国々からの収奪が、ドイツ国民であるがゆえの特権維持を可能にした。換言すれば、ドイツ国民は、ナチ政権の「共犯者」だったのである。それを意識していたか否かは必ずしも明白でないが、
国民にとって、抗戦を放棄することは、単なる軍事的敗北のみならず、特権の停止、さらには、収奪への報復を意味していた。ゆえに、敗北必至の情勢となろうと、国民は、戦争以外の選択肢を採ることなく、ナチス・ドイツの崩壊まで戦いつづけたというのが、今日の一般的な解釈であろう。
 つまり、ヒトラーに加担し、収奪戦争や絶滅戦争による利益を享受したドイツ国民は、いよいよ戦争の惨禍に直撃される事態となっても、抗戦を放棄するわけにはいかなくなっていたのである。


 読みながら胸に手を当てて日本のことを考えました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする