ドヴォルザークは多数の美しい旋律を残した稀代のメロディ・メーカーですが、
私達に馴染み深い旋律の多くは、明るく牧歌的なものではないでしょうか。
ドヴォルザークの『スターバト・マーテル』は80分を超える大曲ですので
正直、全曲通して聴くことはありませんが、
第1曲「悲しみに沈める聖母は (Stabat Mater dolorosa)」はその嘆きが胸に迫る、大変美しい曲です。
ドヴォルザークは相次いでこの世を去った子供達の追悼のために、この曲を書かれたとされています。
芸術家が、愛する人を失った悲しみや辛さを作品に「昇華」させる例は多数あります。
芸術家でなくとも、例えば事故や犯罪などで家族を失った方々が、
事故や犯罪の撲滅のために社会的運動を起こすのも、同じく「昇華」だと思います。
その時「"愛する人の死"を利用している」という罪悪感が一瞬でも頭をよぎることはないのでしょうか?
私はあるのだと思います。
でもその「死」を何かに昇華させなければ、立ち上がることも前に進むこともできないほど、
愛する人を失った悲しみは深く大きいのでしょう。
死を嘆き悲しみ佇んでいても、亡くなった人は決して喜ばない
残された人達が力強く生きてくれることを、亡くなった人も望んでいる
それが本当かどうかは私にはわかりません。
でも、悲しみの中から立ち上がり歩き出す、歩き続けるために、その死を「昇華」させるのであれば
それは絶対的に正しい、そう思います。
私達に馴染み深い旋律の多くは、明るく牧歌的なものではないでしょうか。
ドヴォルザークの『スターバト・マーテル』は80分を超える大曲ですので
正直、全曲通して聴くことはありませんが、
第1曲「悲しみに沈める聖母は (Stabat Mater dolorosa)」はその嘆きが胸に迫る、大変美しい曲です。
ドヴォルザークは相次いでこの世を去った子供達の追悼のために、この曲を書かれたとされています。
芸術家が、愛する人を失った悲しみや辛さを作品に「昇華」させる例は多数あります。
芸術家でなくとも、例えば事故や犯罪などで家族を失った方々が、
事故や犯罪の撲滅のために社会的運動を起こすのも、同じく「昇華」だと思います。
その時「"愛する人の死"を利用している」という罪悪感が一瞬でも頭をよぎることはないのでしょうか?
私はあるのだと思います。
でもその「死」を何かに昇華させなければ、立ち上がることも前に進むこともできないほど、
愛する人を失った悲しみは深く大きいのでしょう。
死を嘆き悲しみ佇んでいても、亡くなった人は決して喜ばない
残された人達が力強く生きてくれることを、亡くなった人も望んでいる
それが本当かどうかは私にはわかりません。
でも、悲しみの中から立ち上がり歩き出す、歩き続けるために、その死を「昇華」させるのであれば
それは絶対的に正しい、そう思います。