大学の選択体育で空手を習いました。
その時の先生が実習の時
次のようなことをおっしゃいました。
「相手に触れずに"気"の力で人を倒したりするのは、
不思議とその"仲間"同士でないとかからないんだ」
私はその言葉にとても共感しました。
別に"インチキ"だとか"やらせ"だとかいう
意味ではありません。
ただ「奇跡」はそれを信じる者にしか、
「奇跡」として姿を現さないということです。
どのような集団であれ、結束が強くなる過程で
「思想」や「哲学」が生まれます。
あるいは、同じ「思想」や「哲学」を持った者達が
強い結束で結ばれるというか。
芸術集団の場合も同じだと思います。
ただ、その「思想」や「哲学」が
創作の原動力となる分には構いませんが、
「思想」や「哲学」そのものを舞台上で表現されても、
それが芸術的に価値があるとは思いません。
それを別の形に昇華させることが重要ではないでしょうか。
「難解」というのではなく「理解不能」です。
何か意味有り気な振り付けや仕草も、
私にとっては全くの無意味です。
閉じた、内向的な世界を見せられたようで、
「発散」されるものは何も感じ取れませんでした。
(仲間内だけで分かり合っている世界というか)
何かを表現するということは、
究極的には「自己満足」だと思います。
「作者の自慰行為が見たいのではない」
と言った人がいますが、
それを見せることが創作表現だとも言えます。
ただ、お互い自慰行為を見せ合い、
それを見て自慰を行っている姿をまた見せる・・・
それは最早、
「自己満足としての表現」ですらないと思います。
DVD(『ファーズ』)は素晴らしかったですが、
この作品に関しては、
コンテンポラリー・アート(現代音楽等を含む)の
嫌な一例だと感じました。
身体表現力が飛び抜けて素晴らしいとも思えませんし。
休憩無しで2時間弱の舞台を創り上げたことだけは
評価すべきと思いますが。
<注>
文中で"意味"という単語を使っていますが
話したり書いたりする段階では
「言葉」(=意味)に変換せざるを得ないからであって、
作品が「ダンス」という身体表現である以上、
本来そこに"意味"や"言葉"は必要ないということは
追記しておきます。
その時の先生が実習の時
次のようなことをおっしゃいました。
「相手に触れずに"気"の力で人を倒したりするのは、
不思議とその"仲間"同士でないとかからないんだ」
私はその言葉にとても共感しました。
別に"インチキ"だとか"やらせ"だとかいう
意味ではありません。
ただ「奇跡」はそれを信じる者にしか、
「奇跡」として姿を現さないということです。
どのような集団であれ、結束が強くなる過程で
「思想」や「哲学」が生まれます。
あるいは、同じ「思想」や「哲学」を持った者達が
強い結束で結ばれるというか。
芸術集団の場合も同じだと思います。
ただ、その「思想」や「哲学」が
創作の原動力となる分には構いませんが、
「思想」や「哲学」そのものを舞台上で表現されても、
それが芸術的に価値があるとは思いません。
それを別の形に昇華させることが重要ではないでしょうか。
「難解」というのではなく「理解不能」です。
何か意味有り気な振り付けや仕草も、
私にとっては全くの無意味です。
閉じた、内向的な世界を見せられたようで、
「発散」されるものは何も感じ取れませんでした。
(仲間内だけで分かり合っている世界というか)
何かを表現するということは、
究極的には「自己満足」だと思います。
「作者の自慰行為が見たいのではない」
と言った人がいますが、
それを見せることが創作表現だとも言えます。
ただ、お互い自慰行為を見せ合い、
それを見て自慰を行っている姿をまた見せる・・・
それは最早、
「自己満足としての表現」ですらないと思います。
DVD(『ファーズ』)は素晴らしかったですが、
この作品に関しては、
コンテンポラリー・アート(現代音楽等を含む)の
嫌な一例だと感じました。
身体表現力が飛び抜けて素晴らしいとも思えませんし。
休憩無しで2時間弱の舞台を創り上げたことだけは
評価すべきと思いますが。
<注>
文中で"意味"という単語を使っていますが
話したり書いたりする段階では
「言葉」(=意味)に変換せざるを得ないからであって、
作品が「ダンス」という身体表現である以上、
本来そこに"意味"や"言葉"は必要ないということは
追記しておきます。