NHK『トップランナー 画家 松井冬子』を観ました。
松井冬子さんの作品はまだ実物を観たことはありませんが、
以前、やはりNHKのETV特集を観たりして大変興味がありました。
今回の放送を観て、以前から疑問に思っていたことへのある種の「解答」が得られたような気がしました。
(そして新たな「疑問」も・・・)
一つは、松井さんに対するものではなく、
写真家・やなぎみわさんの『マイ・グランドマザーズ』展を観た際に思ったことです。
『マイ・グランドマザーズ』は応募してきた一般女性をモデルに
「50年後の自分、理想のおばあさん像」を写真にするという作品ですが、
その時「女性にしか創れない作品だと感じた」と書きました。
その感覚を自分でも不思議に感じていたのですが、今回トップランナーを観て、
女性(芸術家)は『"女性"と"女性としての自分自身"のみで完結する世界を創造することができる』
ということに気づきました。
先日観たタマラ・ド・レンピッカも「表現」は異なりますが、同様に作品世界を構築していたように感じます。
松井さんの今までの作品に登場する人物は全て女性で、男性は登場しません。
やなぎさんの写真も主人公は女性です("添え物"として男性が写っていることはありますが)。
タマラは男性の絵も描いていますが、やはり題材の中心は女性です(自分自身も含めて)。
一方、男性(芸術家)で
『"男性"と"男性としての自分自身"のみで完結する世界』を創り上げている方(作品)を、
私は今まで観たことがありません。
作品の中に自分を投影することはあっても、もっと対象物を客観視して(というか距離をとって)
作品世界を構築しているのではないでしょうか?
だからこそ、普通に作品世界に「女性」を登場させられるのではないでしょうか?
(松井さんは、男性が普通に女性のヌードを描くことに"カチン"とくる、とおっしゃっていました。)
もちろん、芸術家一人ひとり"別の人間"ですから、一概に「男性・女性」で分けることは無意味かもしれませんが、
「男性にとって女性は永遠の謎である」という以上に、ラカン的な「女性性」の不可思議さを感じずにはいられません。
もう一つは、松井さんに対するもの、というか誰かに問うてもらいたい、と思っていたことです。
それは(誤解を恐れずにいえば)
松井さんが「自分自身の(外見的な)美しさをどう受け止めそれが作品にどう反映しているのか」
ということです。
(美醜について)人の感じ方は千差万別ですが、松井さんを「美しき女流画家」と評することに異論はないと思います。
もちろん、作者の外見と作品とは別物ですし、
「作品に対する評価」の前に「作者自身に対する評価」をすることは、馬鹿げたことだと十分理解しています。
少なくとも「美術」に携わる方でしたら、決してそんな質問はしないし、できないでしょう。
でも、松井さんの作品内容を考える(あるいは「理解」する)には、その点が非常に重要なのではと感じていました。
(作者が自作について語っているのを聴く・読むのは好きではないので、
評論雑誌や対談なども読んではいませんが、もしかしたらどこかで語っていたのかもしれません。)
図らずも、この点については司会の一人、女優の田中麗奈さんの質問によってある「解答」が得られました。
番組最後に、田中麗奈さんは松井さんに対して、
「もし男性だったらどうなっていたか?」と質問し、「格闘家になりたかった」という言葉を引き出しました。
田中さん自身もそう考えていたらしく、その答えに納得していました。
この答えは
「(生物学的に)女性よりも優れていると思われる能力(筋力や体力)を最大限に活かしたい」
という意味です。
であるならば、今は
「(一般的に)男性よりも優れていると思われる能力(美しさ)を最大限に活かして作品を創造している」
ということの証左ではないでしょうか。
田中麗奈さんのこの質問と洞察力には驚きました。
そして、新たな「疑問」です。それは、
「彼女が観ている世界」は「私が観ている世界」と違うのだろうか?
とういことです。
確かに松井さんの作品世界は、私が観ている世界とは異なります。ですが彼女自身「その世界」を観ているのでしょうか?
今のところ、そうは思いません。観ている世界は同じだと思います。
作品世界は、松井さん自身がそうありたいと願う世界、観たいと切望している世界ではないか、と感じます。
(表面的な美の世界の向こう側にある「本当の」美の世界を観たいという願望が表現されているのでは?)
でも、この点は実際に作品を観てからでないと、なんともいえませんが・・・。
美術でも音楽でも、(今までは)「女性芸術家」よりも「男性芸術家」の方が圧倒的に多いです。
もちろん、その原因の一つとして、長い歴史における男性と女性の「地位の差」も大きく影響しているでしょう。
でも、作品世界と自分自身との関係性、
『"女性"と"女性としての自分自身"のみで完結する世界を創造できる/創造してしまう』
("男性"と"男性としての自分自身"のみで完結する世界を創造できない)
という点も、優れた芸術家の性差に影響していたのかもしれない、と考えてしまいます。
だからこそ、女性がそのような「完結する世界」で優れた作品を創り上げたときは、
松井さんの作品のように、男性など到底及ばない遥かな高みへと到達するのでしょう。
(追記)
過去に何度も書いていますが、「私」が芸術作品を観る(聴く・読む)際に最も重要視しているのが、
「私が観ている世界」と「作者が観ている世界」が違うか、「作者だけが観ている世界」を観せてくれているか、
という点です。
但し、ここでいう「私」とは、このブログを書いている「"この"私」(ウィトゲンシュタイン的「私」)です。
他の方が作品を観る際の「手械・足枷」にする意図はありませんし、作品の「価値」が変化するわけでもありません。
あくまでも「私」の問題です。
(追記2)
『"男性"と"男性としての自分自身"のみで完結する世界』を創り上げている方(作品)を観たことがない、
と書きましたが、「三島由紀夫」がそれに近いかもしれません。
(あまり作品を読んでいませんがイメージとして・・・)
松井冬子さんの作品はまだ実物を観たことはありませんが、
以前、やはりNHKのETV特集を観たりして大変興味がありました。
今回の放送を観て、以前から疑問に思っていたことへのある種の「解答」が得られたような気がしました。
(そして新たな「疑問」も・・・)
一つは、松井さんに対するものではなく、
写真家・やなぎみわさんの『マイ・グランドマザーズ』展を観た際に思ったことです。
『マイ・グランドマザーズ』は応募してきた一般女性をモデルに
「50年後の自分、理想のおばあさん像」を写真にするという作品ですが、
その時「女性にしか創れない作品だと感じた」と書きました。
その感覚を自分でも不思議に感じていたのですが、今回トップランナーを観て、
女性(芸術家)は『"女性"と"女性としての自分自身"のみで完結する世界を創造することができる』
ということに気づきました。
先日観たタマラ・ド・レンピッカも「表現」は異なりますが、同様に作品世界を構築していたように感じます。
松井さんの今までの作品に登場する人物は全て女性で、男性は登場しません。
やなぎさんの写真も主人公は女性です("添え物"として男性が写っていることはありますが)。
タマラは男性の絵も描いていますが、やはり題材の中心は女性です(自分自身も含めて)。
一方、男性(芸術家)で
『"男性"と"男性としての自分自身"のみで完結する世界』を創り上げている方(作品)を、
私は今まで観たことがありません。
作品の中に自分を投影することはあっても、もっと対象物を客観視して(というか距離をとって)
作品世界を構築しているのではないでしょうか?
だからこそ、普通に作品世界に「女性」を登場させられるのではないでしょうか?
(松井さんは、男性が普通に女性のヌードを描くことに"カチン"とくる、とおっしゃっていました。)
もちろん、芸術家一人ひとり"別の人間"ですから、一概に「男性・女性」で分けることは無意味かもしれませんが、
「男性にとって女性は永遠の謎である」という以上に、ラカン的な「女性性」の不可思議さを感じずにはいられません。
もう一つは、松井さんに対するもの、というか誰かに問うてもらいたい、と思っていたことです。
それは(誤解を恐れずにいえば)
松井さんが「自分自身の(外見的な)美しさをどう受け止めそれが作品にどう反映しているのか」
ということです。
(美醜について)人の感じ方は千差万別ですが、松井さんを「美しき女流画家」と評することに異論はないと思います。
もちろん、作者の外見と作品とは別物ですし、
「作品に対する評価」の前に「作者自身に対する評価」をすることは、馬鹿げたことだと十分理解しています。
少なくとも「美術」に携わる方でしたら、決してそんな質問はしないし、できないでしょう。
でも、松井さんの作品内容を考える(あるいは「理解」する)には、その点が非常に重要なのではと感じていました。
(作者が自作について語っているのを聴く・読むのは好きではないので、
評論雑誌や対談なども読んではいませんが、もしかしたらどこかで語っていたのかもしれません。)
図らずも、この点については司会の一人、女優の田中麗奈さんの質問によってある「解答」が得られました。
番組最後に、田中麗奈さんは松井さんに対して、
「もし男性だったらどうなっていたか?」と質問し、「格闘家になりたかった」という言葉を引き出しました。
田中さん自身もそう考えていたらしく、その答えに納得していました。
この答えは
「(生物学的に)女性よりも優れていると思われる能力(筋力や体力)を最大限に活かしたい」
という意味です。
であるならば、今は
「(一般的に)男性よりも優れていると思われる能力(美しさ)を最大限に活かして作品を創造している」
ということの証左ではないでしょうか。
田中麗奈さんのこの質問と洞察力には驚きました。
そして、新たな「疑問」です。それは、
「彼女が観ている世界」は「私が観ている世界」と違うのだろうか?
とういことです。
確かに松井さんの作品世界は、私が観ている世界とは異なります。ですが彼女自身「その世界」を観ているのでしょうか?
今のところ、そうは思いません。観ている世界は同じだと思います。
作品世界は、松井さん自身がそうありたいと願う世界、観たいと切望している世界ではないか、と感じます。
(表面的な美の世界の向こう側にある「本当の」美の世界を観たいという願望が表現されているのでは?)
でも、この点は実際に作品を観てからでないと、なんともいえませんが・・・。
美術でも音楽でも、(今までは)「女性芸術家」よりも「男性芸術家」の方が圧倒的に多いです。
もちろん、その原因の一つとして、長い歴史における男性と女性の「地位の差」も大きく影響しているでしょう。
でも、作品世界と自分自身との関係性、
『"女性"と"女性としての自分自身"のみで完結する世界を創造できる/創造してしまう』
("男性"と"男性としての自分自身"のみで完結する世界を創造できない)
という点も、優れた芸術家の性差に影響していたのかもしれない、と考えてしまいます。
だからこそ、女性がそのような「完結する世界」で優れた作品を創り上げたときは、
松井さんの作品のように、男性など到底及ばない遥かな高みへと到達するのでしょう。
(追記)
過去に何度も書いていますが、「私」が芸術作品を観る(聴く・読む)際に最も重要視しているのが、
「私が観ている世界」と「作者が観ている世界」が違うか、「作者だけが観ている世界」を観せてくれているか、
という点です。
但し、ここでいう「私」とは、このブログを書いている「"この"私」(ウィトゲンシュタイン的「私」)です。
他の方が作品を観る際の「手械・足枷」にする意図はありませんし、作品の「価値」が変化するわけでもありません。
あくまでも「私」の問題です。
(追記2)
『"男性"と"男性としての自分自身"のみで完結する世界』を創り上げている方(作品)を観たことがない、
と書きましたが、「三島由紀夫」がそれに近いかもしれません。
(あまり作品を読んでいませんがイメージとして・・・)