感動とは、パッと弾けるようなものです。
突然やってくるから困るのです。
我慢しても、こみあげてくるものがあります。
私が誰か分からぬようになっても、母に会いに行きました。
じっと見る目は、昔と変わりません。
私は、話しかけ握る手に力を込めました。
母は握り返してきました。
私は、母の足をさすってあげました。
母は、安心したように眠りにつきました。
何度もそんなことがありました。
そして母は、帰らぬ人になりました。
お葬式の日に多くの人が集まってくれました。
母にゆかりのある方達です。
皆さん、母はこうだったと笑って送ってくれました。
今はもういないのです。会うことは出来ません。
母の暖かい手に触ることは出来ないのです。
しかし、母のことを思い出すことはできます。
感動のタイトルで書き始めました。
何故か母のことが思いだされました。
これまでも多くのことに感動しました。
切羽詰まったことも何度かありました。
その度に誰かに助けていただきました。
辛い思いがこみ上げてくることはありません。思い出せないのです。
誰かが優しい言葉をかけてくださった時に、ふと思い出されるのです。
鮮明に思い出し、よく助けてくれたと密かに感謝するのです。
その人にとっては、道に落ちていたごみを拾うような小さな親切だったのです。
その人は、とっくに忘れているのです。
感動を大事にしたいのです。
感動を形にしたいのです。
感動を伝えたいのです。
私は生きている。
他の人も、みんな生きているのです。
感動を与える人になれなくても良いのです。
感動する人でありたいと思います。
感動は、海の波のように伝わっていくのです。
ある時はさざ波のように。ある時は怒涛のごとく。
涙腺はゆるくなってきました。
多くの辛いことを経験したから解るのです。
泣くことも、笑うことも大っぴらにやってよいのです。
やっと、その資格をもらったような気がします。
私は何処に進もうとしているのか解りません。
ほとんどの道が塞がったような未知の世界です。
ただ言えることは、足らぬことを自覚する限り道は開けてくるのです。
満足とは、遠い世界です。
まず、やってみよう。から始まるのです。
生きるためには、何かをしなければならないのです。
だから始めましょう。何でも良いから。
歯を食いしばって続けていれば、少しだけ光が見えてくるのです。
感動は、その先にあるかもしれません。
吸い取り紙にしみ込むように、線香花火が弾けるように、
感じるのです。
藁帽子 持って行けよと 母がいう
2015年12月1日