私を褒めてくださった恩師は3人です。
叱られたことは、数多くあったと思います。
しかし、すべて忘れてしまいました。
60歳を過ぎるとそんなことは、どうでも良いことなのです。
若い時は、叱られたことばかりを覚えていたような気がします。
小学校の時、母も父も私が起きるとすでに畑でした。
私が寝る時も、何か仕事をして家にはいませんでした。
おばあちゃんが作るご飯を毎日食べていました。
ある時、先生が派手な格好でくる子を注意したように思います。
私は、よせばよいのに、自分で服を繕う話をしました。
先生は、模範の生徒のように私を褒めました。
私は、褒められても嬉しくなかったのです。
何故か涙が出てきて止まりませんでした。
先生は、授業が終わった後、何故泣くのか私に問いかけました。
私は、自分の気持ちがよく解らず、説明できませんでした。
50年後に集まった同窓会で、順番に何か話をすることになりました。
私は、恩師に50年ぶりに応えることにしました。
「何故泣くの」に答えたのです。
本当は、母に繕って欲しかった。それが言えなかったのです。
派手な服の子も、半年に一度帰ってくる親なのです。
親は、街で流行っている服を着せてやることしかできなかったのです。
中学生の時、私は上手でもないのにバレーボールの選手に選ばれました。
担任の先生が、私のことを買っていてくれたのです。
私は、バレーボール部の落ちこぼれを集めて、試験前に出るところを一緒に研究していたのです。
皆からは、なぜあいつが出るのと疑問がありましたが、誰もそれを言いませんでした。
高校生の時、広島の学校に行くと劣等感を覚えるほど街の子達は勉強ができたし、スマートでした。
成績は、後ろから数えるほどでした。
サッカー部に入り、終便のフェリーで帰りました。勉強するのはその船の中だけでした。
私は、生物が好きでした。自然の中で育ってきたからだと思います。
どうして成長するのか教えてもらいました。興味は膨らみ地学も好きになりました。
どうして、地球は成り立っているのか、教えてもらいました。
二学期のテストの成績がとても良かったのです。
先生は、答案用紙を返してくれる時、「頑張ったね」とそっと言ってくれました。
感受性が強い若い頃、褒められたことで勇気をもらいました。
信号もない島で育ち、都会に憧れて、なにしろ劣等感の塊でした。
褒める。
こんなに素晴らしいことはないのです。
人は、褒められたことだけを覚えています。
叱られたことは、忘れたいのでしょう。
3人の恩師以外にも、素晴らしい恩師はたくさんおられました。
記憶に残っているのが、たまたま3人だったのです。
今となっては、多いくらいです。
人の親になり、爺になり子供が大好きになりました。
どこの子供も好きです。
どうしてでしょう。
無邪気だからでしょうか。自分の姿を見出して愛しいからでしょうか。
褒めることは難しいのです。
何でも迎合する太鼓持ちがプロフェッショナルとすると、
私達は、その日の自分の気分で褒めたり叱ったりします。
その人が、自分の中で最も好きなところを褒めてあげたいのです。
それが、その人を知るうえで一番の近道だからです。
小学校の恩師に久しぶりに再会できます。
母の三回忌に故郷に帰ります。妻と一緒です。
メダカみて 先生はどれ 胸つまり
2015年12月14日