
昨日は、3月11日「東日本大震災」から14年経ちました。私はその時、多賀城市に住んでおり、海に近いと言うわけではなかったのに、2メートルの津波がやってきました。後でわかったことですが、海からだけでなく、川からも津波がやってきて、四方からの津波が多賀城の街を襲ったのです。「都市型津波」と言うらしいです。私の住んでいたマンションは高台にあり、直接の被害はありませんでしたが、街全体が被災しており破壊されておりましたので、日常生活には多大な影響がありました。電気、水道、ガスのインフラがストップして、幹線道路は1週間ほど通行止めでした。遠くにあるはずの仙台新港の石油コンビナートが爆発し、黒い煙と赤い炎が1週間近く見えていました。存命だった父が「石油タンクと言うものは、一旦火がついたら、燃え尽きるまで消すことができない」と教えてくれました。黒い煙は、多賀城の街を灰色の空に染めていました。電気がついたのは、3日目の深夜。家から1歩も出ていなかった。私たちは夜中の突然のテレビの音声に現実を知らされることになるのです。本当の意味でことの重大性を知ったのはその時だったと思います。私は身体障害者で、動けない。父は寝たり起きたりの状態、母は2日位前にぎっくり腰を患って杖をついていました。14日の月曜日、思い切って1階のエントランスに母が出て行って周りの様子を見ようとしました。杖をついている母を見て、日頃付き合いがあった。近所の人が「大変だね、水汲みを手伝うから」と言ってくれました。周りの人も協力してくれることになり、あまり付き合いがなかったマンションですが、その時はたくさん助けられました。買い物もしてくれた方もいます。仙台から自転車で2時間もかけて、1週間にいっぺん買い物をしてくれた介護者には、本当に頭が下がりました。ありがとうございます。その方は、ただ来るのではなく、事前に電話をくれて、私の家に必要なものを聞いてから買い物してくれていました。本当にありがとうございました。買い物の内容もそうですが、人が訪ねてきてくれると言う事がこんなに嬉しかった事はいまだかってありませんでした。この状態は1ヵ月ぐらい続きました。もっとひどい地域の方もいらっしゃるので、このくらいで根を上げてどうするんだと思う方もいらっしゃると思います。でも私にとっては日常を破壊されたことには変わりありません。14年前のことを昨日のことのように話せる自分がいます。こうやって落ち着いてかけるのも、日常を取り戻した幸せな私がいるからです。まだまだ日常を取り戻せていない方々はたくさんいます。その方たちの苦難の道を忘れてはいけないと思います。
昨日のテレビでは、特別番組がいっぱい放送されました。宮城県のテレビなので、石巻や気仙沼が中心でしたが、東日本放送(テレビ朝日系列)だけは、福島の原発、浪江町の現在、東京電力の原発の廃炉の行方などを放送していました。福島の特に浜通りは、まだまだ災難の途中、復興には道半ばなんです。東京電力の社長の記者会見では「廃炉が完成するのは2050年」と言っていました。びっくりです。私が生きている間は、終わらないと言うことです。資源のない日本は原子力発電に頼るしかないということですが、一瞬の爆発で何十年と苦しむわけです。やはり原子力発電と言うのは、人間の手に負えないものなのです。別なエネルギーを開発すると言う考えに、舵を切ってもらえませんかね「原発村」(地域的な村と言う意味でではなく、原子力発電によって利権を得る人々の集団という意味)の人々は、こういう事態になっても懲りないのでしょうか。人の命などどうでもいいのでしょうか。宮城県知事も、仙台にある国立大学の研究所も、原発の推進派です。なんと嘆かわしい。
昨日は「鎮魂」の日でした。申し訳ないのですが、コロナ禍以降、諸事情や体力的なことで、福島には行けなくなりました。自宅で手を合わせる私です。