なんだりかんだり

ごく私的な日常雑記です。

徒然なるままに

2016年08月31日 14時56分10秒 | 日記

最近は、台風の心配ばかりしていました。あまりの風の強さに眠れない夜もありました。幸い私のところには被害もなく、出かける用事もなかったからTVを見ながら気をもんでいた程度でした。停電が心配でしたので、電池、ロウソクの備蓄の確認をしたりしました。それにしても今回は上陸?の数が多いですね。10号なんかは、観測史上初のコースだったとか。被害に遭われた方にお見舞いを申し上げます。

某チャリティ番組、なんとなく見てました。病気と闘う幼気な少年少女の姿に涙がこぼれました。その一方で「よくもこれだけ探し出したもんだわ」と不快にも思いました。被写体のひたむきな姿と制作サイドの姿勢のズレに違和感も感じました。いわゆる「お涙頂戴路線」です。この番組で、歩行困難な男の子が、家族と富士山に登るという企画、台風が近づいていた悪天候の時に、平地でも足を引きずるように歩行しているその子に富士登山をさせるのは、ある意味虐待なんじゃないかと思いました。その子もテンション高いレポーターの横でずっと不機嫌でしたし。

27日に父の納骨を済ませました。合同供養塔の横にある事務所に石の工作があり、可愛くって写真を撮りました。石収集が趣味だった父は、これらに囲まれて喜んでいることでしょう。

納涼(ビール大会)

2016年08月24日 15時09分59秒 | 日記

21日に地区介の月例会は、恒例の納涼、ビール大会でした。OBのU君が贈ってくれた世界のビールがメインで、ドイツ、チェコ、チリ、メキシコ?などを飲み比べまして、個人的にはチリのビールが一番好きですね。ツマミは鉄板焼きで、エビ、イカ、肉、野菜、塩焼きそば、を焼きながら楽しく飲みました。U君ありがとうございました。事前にネットで調べた天気は「嵐」台風でしたが、実際は晴天で暑い日になりましてまさに納涼日和になりました。ただ、仙石線は運転見合わせで、スワッ、行けないかなと、朝に肝を冷やしたことを除けばね。前の日の強風で木が倒れ、線路を塞いだのが原因らしいです。怖いです。

22日にオリンピックが終わりました。9月からは、パラリンピックが始まります。こちらも語注目下さい。

新盆(決断)

2016年08月17日 12時51分32秒 | 日記

父の新盆が終わりました。和尚さんも通夜や葬式な時に来てくださった方にお願いしました。自宅に来てくれて丁寧なお経をあげて頂き感謝しています。というのもお寺の檀家になっている方でも自宅に来て仏壇の前でお経をあげて下さる和尚さんは少ないらしいと拝みに来てくれた父の同僚の方が言っていたから。私のところは、檀家になったわけでもなく、その場限りの何かあればお願いする「レンタル和尚さん」みたいなもので、葬儀屋さんの紹介だから期待していなかったんだけれど良い方に当たりました。

新盆といえども、付き合いが広くなかった父は、拝みに来る方も少ないのですが、来られた方は中味の濃い話をされて行き、父を偲んでくださいました。家に待機している格好の私は正直退屈だったんですが、仕方ないです。「3人で居られればそれで幸せ」と言っていた父は、私が家にいて安心していたことでしょう。父の現役時代は、私は養護学校の寄宿舎生活、父は巡視船、母は自宅と三人三様の生活の場がありました。私が高等部を卒業して家に帰って暮らせるようになった時、涙を流して喜んでくれたのは父でした、

父の同僚で、福島の小名浜の官舎に住んでいた時、家族ぐるみで付き合ったご夫婦が居まして、今回も拝みに来てくださいました。このご夫婦は現在、智恵子抄の故郷に移住して、畑などをして「人生の楽園」的な生活をなさっており、お土産にキュウリやナス、さやえんどうなどをどっさり持ってきてくれました。すぐ食べられるようにと、キュウリを「漬物」「酢の物」「煮物」と調理してきてくれて、新鮮な野菜をみんなで食べました。美味しかったです。

お盆に来てくださった和尚さんと納骨の日程を決めました、墓地は求めてあったんですが、私が死んじゃえば、墓を守る人がいなくなります。なので、永代供養と管理費を払い、合同供養塔に三人で入ることにしました。無縁仏にならないために。昔気質の親戚には納得いかないでしょうが、だからって「うちの墓に入れ」と言ってくれませんからね。苦渋の決断です。

わかっちゃいたけど

2016年08月10日 09時58分55秒 | 日記

今年も仙台七夕が終わりました。前夜祭の花火を見 含め、5日から8日までは仙台のメインストリートには近づかないようにしてます。それでも7日には会議があり、仙台駅には行かねばなりませんでした。電車を降りるときも仙台駅ではなく、終点のあおば通りで降りたりして混雑を避ける努力をしました。

それでもペデストリアンデッキに着いた時に小規模ながら出店が出ていて、私の好きな「石巻焼きそば」があり、昼メシ代わりに買うことにしました。そして祭り気分を仲間にもあじわってほしくって、隣のイカの姿焼きをお土産に買いました。しかしこれが大失敗、高いし不味いし、かえって恥をかきました。祭りの出店は不味いし高いとわかっていても、想像を絶するものでしたね。その場にいた方すみませんでした。
毎年、わかっちゃいるけどやめられない祭りの失敗です。


帰郷(女川町)

2016年08月03日 10時21分45秒 | 日記

7月30日から8月1日迄、父方の親戚の家に行ってきました。女川町なんですが、津波で自宅が流され、避難所⇒仮設⇒自宅建設⇒取り壊し⇒貸家⇒自宅新築と、震災以降に引越しを繰り返した叔母達。というのも100歳を超えるおばあさんが同居していて、仮設暮らしが難しかったからです。なかなか進まない地域計画にしびれを切らして、自分の土地に最初の家を建てましたが、かさ上げの途中だからと、町役場からクレームが入り取り壊して借家暮らしに戻りました。そして今年の6月にめでたく新居が完成し、引越しました。それで私と母を招待してくれたというわけです。従姉妹の車で送り迎えをしてもらいました。

女川町は道路は立派になってましたが、まだまだ工事中のところが多かった。若者を呼び戻そうと小洒落た個人商店がポツポツあるが、常日頃の買い物はコンビニで、週末の買い物は、石巻の巨大なイオンモールでという感じでした。従姉妹は車があるから大丈夫でしょうが、高齢者や障害者はどうしているのでしょう?昔からのコミニティーは崩壊しているから、新たな関係作りが課題みたいです。叔母や従姉妹の話から地元の人しかからない貴重な話が聞けました。震災は5年も前なのにまるで昨日のことのように話してました。

従姉妹の好意で、父の実家があった女川町竹浦(たけのうら)にも行ってきました。昔の面影はどこにもありません。整備された岸壁と船と青い海があり、工事用の重機とダイバーがいました。ダイバーは何かを捜索してるのかと感心していたら、竹浦は今、絶好のダイバースポットらしく、この人たちはレジャーのダイバー達らしいです。

震災前はホヤ貝を韓国に輸出していた女川の町、現在も若手を中心にホヤ貝の養殖をはじめているんですが、大口の取引先である韓国が輸入を禁止しているので、せっかく育てたものを破棄してるらしいです。悲しいですね。