古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

田園調布古墳群・野毛古墳群

2020年06月10日 | 遺跡・古墳
2020年6月6日、約2カ月のステイホーム生活から少しずつ脱却しようと思って、以前より訪ねようと決めていた多摩川沿いの古墳群を見学してきました。出発時の考えでは自宅から五反田まで歩いて浅草線に乗り、西馬込駅で降りて大田区立郷土博物館を見学、そこから徒歩で久ケ原遺跡を通り抜けて下丸子駅から東急多摩川線で多摩川駅へ行く予定にしていました。ところが、五反田に着いたときに、東急に乗って途中で乗り換えればそのまま多摩川へ行けるではないか、と気がついた。ということで、予定変更して東京池上線に乗車。



まずは多摩川台公園にある古墳展示室を見学。








受付横に貼ってあった古墳散策マップ。

これに従って歩こうと決めました。少し遠いけど、ゴールは野毛大塚古墳だ。では順に紹介します。

浅間神社古墳。5世紀末から6世紀初頭の前方後円墳。



浅間神社は後円部墳丘上に建つ神社。前方部は社殿の裏ですが、東急東横線の工事で破壊されました。

境内からの眺望。晴れていれば富士山が見えます。

古墳築造時の眺望も大きな違いはなかったでしょう。

亀甲山古墳。4世紀後半の前方後円墳。






亀甲山古墳から北に向かって並ぶ8基の古墳は多摩川台古墳群と呼ばれ、6世紀前半から7世紀中頃にかけて築かれました。


1号墳。


2号墳。


3号墳。


4号墳。


5号墳。


6号墳。


7号墳。


8号墳。


8号墳から少し離れた公園の北端に宝莱山古墳。4世紀前半の前方後円墳。

宅地造成に伴って後円部の大半が破壊されました。

前方部への階段。


後円部はこの向こうで途切れています。


ここからは公園を出て田園調布古墳群を歩きます。ただし、この古墳群はほとんどすべてが破壊されて高級住宅地に生まれ変わっていました。多摩川沿いの台地の縁に並ぶ豪邸の隙間や急坂から見える多摩川の眺望は何とも贅沢なものでした。




次に目指したのは5世紀末の帆立貝式古墳である八幡塚古墳。しばらく歩くと現れたのは宇佐神社。八幡塚古墳はこの神社の境内にあるはず、と思って境内に足を踏み入れました。

全国の神社の半数を占めるとも言われる八幡宮。そうです、普通は八幡神社とか八幡宮とか呼ばれるのに、そのものズバリの宇佐神社はあまり見ないですね。


社殿の右奥が墳丘です。

社殿左手にある墳丘に通じていそうな道は立入禁止。反対側の社務所右手に道があったので行ってみるとここからも立入禁止。

奥の方に墳丘に登る階段が見えます。

墳丘にはどうしても行けそうにないので、ぐるっとまわって裏の駐車場に出てみると墳丘はすぐそこに。

でも、柵に囲まれて入れません。残念。

宇佐神社からさらに歩いて狐塚古墳に到着。5世紀後半の円墳です。

祠が建っていた名残りがあります。




高台の上のさらに高い墳丘からの眺めは最高です。

そのまま西へ進んで御岳山古墳へ向かいます。ここまでの道中で写真に収めたくなる豪邸がたくさんあったのだけど、きりがないと思って一枚も撮っていませんでした。でも、こちらのお宅は思わずパシャッと。


御岳山古墳はこのお宅のすぐそばで、5世紀後半の帆立貝式古墳。



残念ながらここも入れず。

さて、残すは野毛大塚古墳のみですが、目黒通りの反対側にある等々力不動尊に寄ってみました。

山門の横に立つ説明で初めて知った等々力渓谷の存在。東京23区にこんなところがあるなんて。ここを歩いて行けばいいやん。







少し進むと7世紀に造られたとされる等々力渓谷横穴墓群がありました。3号墓が保存されています。




そしてついに野毛大塚古墳。5世紀初頭の帆立貝式古墳で、きれいに復元整備されています。







帆立貝式特有の短い前方部の左側に大きな造り出し部がある珍しい構造。




埋葬施設が4基も見つかりました。

八幡塚古墳からこの野毛大塚古墳までの野毛古墳群は首長墓と考えられる大きな古墳は帆立貝式古墳が主流でした。一方の田園調布古墳群の大型古墳は前方後円墳がメインです。これはふたつの古墳群が別々の一族による墓域ということの表れかもしれない。

以上で本日の見学は終了です。ここから等々力駅まで歩いて東急大井町線で大井町へ出て、北品川の自宅まで歩いて帰ってきました。iPhoneの計測で全部で約21,000歩と少し、もっと歩いたように感じるのですが、いずれにしてもよく歩きました。


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味美古墳群

2019年10月20日 | 遺跡・古墳
2019年9月に訪ねた愛知県春日井市にある味美古墳群は、二子山公園に集まる味美二子山古墳、白山神社古墳、御旅所古墳の3つの古墳と、県道102号を挟んだ西側に位置する味美春日山古墳から構成されています。かつてはドンドン塚と呼ばれた前方後円墳のほか、6基の円墳がありましたが開発によって滅失したとのことです。

春日井市の公式サイトから転載させていただきます。

右下が二子山古墳、その上が白山神社古墳、左側が御旅所古墳です。その真ん中にある小さな青い丸は「ハニワの館」です。

名鉄の味鋺駅で下車、線路沿いに北に歩いていくと数分で到着、国史跡の石碑が建っています。

後ろに見えるのが味美古墳群最大の味美二子山古墳。全長96mで盾型の周濠を持つ前方後円墳です。周濠に沿ってぐるりと一周することができます。



後円部の先端。


南側。前方部から見ると右手。


前方部の右隅。


前方部の縁。


北側。前方部から見ると左手。


後円部に戻ってきました。向こう側が石碑の位置です。


後円部に直径4~5mの窪みが確認されているものの、発掘調査が行われていないので埋葬施設は不明とのこと。ただし、周濠や古墳周辺は何度か調査が行われ、形象埴輪(馬形・人物・水鳥形)や円筒埴輪片、須恵器などが出土しています。これらの出土品などから築造時期は6世紀初頭とみられています。この出土品は公園内の「ハニワの館」に展示されています。

ハニワの館です。










この日は日差しが強く、気温もかなり高かったので冷房の効いた館内は心地よかったです。近所のお年寄りの憩いの場になっていました。

ハニワの館を挟んだ反対側に御旅所古墳があります。直径約31m、高さ約3mの円墳で、あとで見る白山神社(本殿は白山神社古墳の墳丘上)の西南約80メートルにあって、その白山神社から神輿渡御が行なわれる御旅所であったことから御旅所古墳の名になったそうです。

墳丘の登り口に鳥居が建っています。


墳丘上は平らに削られ、小さな祠が建っています。


墳丘の周囲、墳丘への登り道、そして墳丘上を取り囲むように石柱が建っています。


ご近所の町内会のお年寄りの皆さんが「還暦記念」や「初老記念」と称して個人名で建てられたものです。

この古墳の主体部も発掘調査が行なわれていませんが、公園整備が行なわれた際の調査で円筒埴輪や高坏形器台脚部などが検出されています。

二子山古墳、御旅所古墳と見て、最後に白山神社古墳を見学しました。公園に隣接する白山神社の境内にある全長86mの前方後円墳で前述の通り、社殿が墳丘上に建てられています。2007年に発掘調査が行われ、墳丘北西部のテラス面で円筒埴輪5〜6基おきに朝顔型埴輪を挟んだ埴輪列が検出されたそうです。また、周濠から形象埴輪(家型・人物)や須恵器が出土しました。これらの出土品や墳丘の形状から、5世紀末から6世紀初頭にかけての築造と考えられています。ただし、この古墳も主体部は調査されていません。特にここは主体部があると考えられる後円部には神社の社殿が建っているので、そもそも発掘することはできないでしょう。

白山神社。




鳥居をくぐって進むと古墳の前方部に突き当たります。

この階段を上がると社殿があります。つまりこの階段は墳丘へ登る階段でもあります。

階段右手にある説明板。


墳丘に登る前に古墳をぐるりと一周しました。古墳の南側、前方部から見て右側の周濠跡です。奥が前方部です。


奥は後円部です。


後円部の裏側。木々の間から墳丘上の社殿が見えます。


一周まわって正面にもどると、階段の両側が池になっています。周濠の名残りです。




墳丘へ登ると立派な拝殿と本殿がありました。




古墳の上に神社があるケースはこれまでも何度も見てきました。出雲の神原神社古墳、尾張の尾張戸神社古墳など、神社の祭神と古墳の被葬者に何らかの関係を見いだせることが多いのですが、今回の白山神社はその由緒によると、1659年に尾張国春部郡味鋺村白山薮(現在の名古屋市北区楠町5丁目)にあった白山神社が現在地に遷座した、とあります。また、もともとの祭神である菊理媛命は白山神社の総本社、石川県の白山比咩神社に祀られる白山比咩神と同一神と考えられているため、どうやらこの古墳群と関係がなさそうです。

もう少し時間があれば500mほど西にある味美春日山古墳も見たかったのですが、残念ながら3つの古墳に時間をかけ過ぎたので行けませんでした。


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金隈遺跡

2019年09月07日 | 遺跡・古墳
 2019年8月、福岡県福岡市博多区、福岡平野の東を御笠川に沿って南北にのびる月隈丘陵のほぼ中央部、標高30mのところにある金隈(かねのくま)遺跡に行ってきました。福岡空港からバスに乗って金隈遺跡前で下車、ダラダラとした坂道を登りきったところです。この遺跡の西2kmほどのところには板付遺跡があり、南西3kmのところには須玖岡本遺跡があり、いずれも弥生時代を代表する遺跡です。



坂道の途中から見あげる丘陵。この上に遺跡があります。


 ここは一昨年の11月に「魏志倭人伝と神功・応神の痕跡を訪ねる旅」と称して古代史仲間3人で巡った実地踏査ツアーの踏査地として候補に挙げていたものの、当時はリニューアルのために閉館中だったのであきらめたところです。今年の5月にリニューアルを終えて再開されたのでようやく来ることができました。



ここを上がります。


 この遺跡は、1968年(昭和43年)に農道建設に伴って発見された弥生時代の共同墓地です。調査の結果、弥生時代前期中頃から後期前半の甕棺墓348基、土壙墓119基、石棺墓2基が見つかりました。 また、甕棺墓からは136体の人骨が検出されています。これらの人骨から男性の平均身長が162.7cm、女性が151.3cm、さらには平均死亡年齢が40歳代であることがわかりました。副葬品には南方海域にしか生息しないゴホウラ貝で作った腕輪や石剣、石鏃、首飾り用の玉などが見つかり、中国大陸や南方文化との交流が想定されています。

 遺跡を保存、展示するため、発掘調査現場に屋根をかけるような形で展示館が建てられ、甕棺や人骨が発見されたままの状態で見学することができます。当日は朝が早かったこともあって私のほかに見学者は誰もいません。警備員の方が玄関を掃除しているところにお邪魔しました。

この上が展示館の入口。




 展示館に入ると甕棺墓が発掘されたままの姿が保存されていました。カバンから眼鏡を出そうとしているとうしろから警備員の方が近づいてきて説明を始めてくれました。名札には「橋隈」とあり金隈遺跡とのゆかりを感じました。橋隈さんの説明によると「約400年の間に約400体の遺体が葬られたということは平均すると1年間に一体ということになり、集落の一般民衆の共同墓地だとすると1年に一体というのは少なすぎるので、おそらく特別な一族の墓であろう。ゴホウラ貝の腕輪が出ていることから祭祀を司るような集団のリーダー的な一族の墓だと言う先生もいる。」とのことでした。 なるほど、と思う一方で疑問もわきます。同じ北部九州の弥生遺跡で甕棺が出た立岩堀田遺跡、須玖岡本遺跡、平原遺跡、三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡などからは副葬品として銅鏡が検出されているのに、この金隈遺跡からは銅鏡はおろか、副葬品がほとんど出ないのは何故だろう。ゴホウラ貝ひとつで祭祀集団の墓と決めることは相当に無理がある。

展示館の内部です。


手前からの全景。


人骨も実物が保存されています。


奥からの全景。


テラス部に実物の甕棺が展示されています。


 入口の横には小さな展示スペースがあり、時間の経過とともに形状が変化する甕棺の実物が展示されていて、ここでも橋隈さんが甕棺の形状の変化や甕棺製作技術の変化について説明してくれました。

展示スペースです。


遺跡の紹介。

こんなところまで中国語や韓国語が。



甕棺の形状の変化。




遺跡の全体図。白く浮かび上がった部分が展示館として保存された場所。




 詳しい説明をしてくれるだけでなく、質問にもそれなりに答えてくれる橋隈さんは5月のリニューアルオープンのために警備員として赴任してきた警備会社の方で、考古学や古代史はまったくの門外漢とのこと。警備のみならず受付を含む見学者の応対を実質的にまかされるので渡されたマニュアルをもとに勉強をしているそうで、付け焼刃にしては堂々と適切に説明されるので驚きました。2015年に福岡市博物館で開催された特別展「新・奴国展」の分厚い図録を見せてくれたり、福岡平野にあるほかの遺跡を紹介してくれたりと至れり尽くせりです。毎日の来館者数はせいぜい十数人と少ないので、来館者との会話が楽しいのかもわかりません。おかげで私も楽しい時間を過ごすことができました。展示館を見学した後は展示館の裏側の公園(もちろん多数の甕棺が出たところ)をぐるっと回って帰路につきました。

石棺が出たところ。盛り土をして円墳のように復元されています。


このあたり一帯から甕棺が出ました。



以上、金隈遺跡の紹介でした。



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西上免遺跡・今伊勢古墳群

2019年08月25日 | 遺跡・古墳
 2019年8月、愛知県一宮市にある西上免遺跡を訪ねました。名古屋駅から名鉄に乗って石刀(いわと)駅で下車、太陽が容赦なく照りつける中を真西に向かって歩きます。東海北陸自動車道に突き当たったところで左に折れて少し歩くと高速の高架下に目的地がありました。石刀駅からは10分ほどで到着です。



高架下に設けられた休憩所が遺跡の場所になります。


 高速道路の高架下ということで、この遺跡が東海北陸自動車道の建設に伴う調査で発見された遺跡であることがわかります。1990年(平成2年)から1995年(平成7年)にかけて発掘調査が行われた結果、弥生時代中期、古墳時代初頭、奈良時代、鎌倉時代、戦国時代の5つの時代にわたる複合遺跡であることがわかりました。なかでも墳丘長40.5mの前方後方墳である西上免古墳が発見されたことによって、この遺跡が有名になったようです。



 西上免古墳は発掘時はすでに墳丘が完全に破壊されていたものの、発掘によって約10mの周溝に囲まれた前方後方墳が存在したことがわかりました。東海地方を特徴づけるパレススタイル壺やS字甕など約100点の土器が出土し、これらの遺物から古墳の造営時期が3世紀中葉を下らない、つまり3世紀前半の造営であることが判明しました。愛知県内では最古、全国的にも最古級の前方後方墳ということになります。
 3世紀前半は弥生時代の後期後半あるいは終末期とされ、まだ古墳時代に入っていない時期になります。したがって厳密に言うとこの古墳は墳丘墓と呼ぶのが適切なのだろうと思いますが、研究者の間でも様々な考えがあるようで、個人的には古墳と呼ぶことでまったく問題ないと考えます。




現在はこんな状況になっています。


 もともと完全に削平されてその痕跡を失っていた古墳が発掘によって姿を現しました。しかし見ての通り、高速道路建設のために再び埋められて跡形もなく消え去ることとなりました。最古級の前方後方墳という貴重な遺構が二度と見ることができなくなったのは誠に残念です。
 


 高架下の日陰と風通しが心地よく、ほとんど見るべきものがないこの場所に40分ほど滞在しました。その後、駅の方へ戻り、名鉄の踏切を渡って県道190号線を越え、事前に調べておいた4ヵ所の古墳を巡ったので順に紹介します。

今伊勢の集落の中に残された上町屋古墳。




 1939年(昭和14年)に発掘調査が行われて7世紀の築造と推定されています。おそらく円墳です。その時に見つかった石室の石材が墳丘上に露出していたそうなのですが、人目を憚って墳丘に立ち入れなかったので確認できませんでした。

さらに東に行ったところにある西口社古墳。




 道路に囲まれて元の形が想像できないほどに変形しています。1908年(明治41年)の調査で須恵器が出土したそうです。

 次はさらに北東へ10分ほど歩いたところにある石刀神社の境内にある石刀古墳。境内にあるというよりも古墳の上に社殿が建てられているというのが適切です。

まずは石刀神社。






石刀神社の由緒。

ほとんど読めませんが、主祭神は手力雄命となっています。創建は崇神天皇の頃だそうです。この神社は毎年4月に行われる例祭である「石刀祭」とその祭りで曳かれる山車が有名みたいです。





 さて、こんな由緒ある石刀神社の建つ石刀古墳はどうなっているのでしょうか。社殿をぐるりと一周してみました。

社殿の左手。

地面が少し盛り上がっているように見えます。

左手を奥へ進むと50センチほど高くなっているのがよくわかります。


社殿の裏手。


ぐるりと廻ります。




 上の状況から削平された円墳の上に社殿が建てられたことが確認できますが、発掘調査は行われていないようなので確かなことはわかりません。
 神社の裏手は森になっており、やかましいくらいに鳥の鳴き声が響いていました。気になって足を踏み入れたのですが、なんだか生臭い匂いがして足元には白い羽根や糞がいっぱい。気持ち悪くなってすぐに出てきました。





 さて、次は最後の訪問地である今伊勢車塚古墳です。一宮市教育委員会の説明板によると、築造は5世紀前半、推定全長70mの前方後円墳です。ただし、径35mの円墳という説もあるようです。









 この古墳は大きさに加えて、鏡や勾玉、鉄製品などの豊富な副葬品が出ていることから、この地域の首長墓と考えられます。この日の後半に巡った古墳群は今伊勢古墳群と呼ばれており、車塚古墳はこの今伊勢古墳群の盟主墳と言えるでしょう。

 この日は約3時間かけて強い日差しが照りつける中、ほとんど陰のないところを歩いていたので熱中症寸前だったかもわかりません。帰りは名鉄の今伊勢駅を目指すのですが、とにかく身体を冷やしたいと思って目の前に現れた和食麺処サガミに飛び込みました。疲労困憊でしたが、心地よいランチタイムとなりました。

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東之宮古墳

2019年07月20日 | 遺跡・古墳
 犬山市といえば犬山城。観光で犬山を訪れる多くの人は犬山城を目指すのでしょうが、今回の私は東之宮古墳を訪問。愛知県最古級、古墳時代前期の3世紀後葉から4世紀初めの築造とされる全長67mの前方後方墳。昭和48年(1973年)の盗掘を機に発掘調査が行われ、竪穴式石槨や豊富な副葬品が出土しました。また、このときの測量では全長が72mとされたのですが、その後の再調査の結果、葺石が分布する範囲から67mと修正されています。


 3月に訪ねた青塚古墳史跡公園にあるガイダンス施設「まほらの館」には東之宮古墳の副葬品である銅鏡11面などが展示されていました。まほらの館を見学したときに受付のおじさんから「是非行ってみてください」と勧められたこともあって今回の訪問となりました。

まほらの館に展示されている11面の鏡。

 東之宮古墳へは名鉄の犬山遊園駅で下車、駅の東側にある標高143mの白山平山を30分ほどかけて山頂まで登ります。この山は濃尾平野に向かって流れ込む木曽川の左岸、犬山扇状地の要に位置しています。濃尾平野を一望する山の頂上に築造された古墳に眠る被葬者はこの邇波(にわ)の地を治めた初代の王なのでしょうか。

登る途中のあちこちで見かけるチャート(堆積岩)の露頭。
この道は成田山名古屋別院大聖寺(犬山成田山)への裏道にもなっていて途中までは車で登れます。

駐車場からの眺め。犬山城が見えます。

ここから先は東之宮古墳への専用道。

チャートの切通し。山全体がチャートで覆われているようです。

30分ほどかけて汗だくになりながら山頂に到着。古墳の横には東之宮社が鎮座しています。

南側から登ってくる参道。

 東之宮社についてネットで調べていると、琥翔さんのブログにこんな記事を見つけました。→「東之宮古墳と東之宮神社」 
 この記事から「針綱神社」のサイトにたどり着いて、主祭神が尾治針名根連命(おわりはりなねむらじのみこと)だということがわかりました。先代旧事本紀によると尾治針名根連命は尾張氏の祖である天火明命(あめのほあかりのみこと)の14世孫とされています。
 針綱神社はもともと濃尾の総鎮守として現在の犬山城天守閣付近にありましたが、天文6年(1537年)の犬山城築城に際して白山平に遷座されました。今見ている東之宮社です。もとの鎮座地から見て東の山上なので東之宮です。その後、さらに遷座が続いて明治15年(1882年)に現在の犬山城内に落ち着いたようです。

東之宮社の横に建つ「史跡 東之宮古墳」の石碑。
石碑の横にある台にはもともと立派な古墳の説明板があったようですが、おそらく台風などによって倒壊してしまったようで、近くに廃棄されていました。元の姿は琥翔さんの記事を見てください。

 さて、いよいよ古墳を観てまわります。古墳の周囲には遊歩道が整備されているので見学がしやすいです。

後方部の右側の角の部分。

 前方後方墳を間近に実感するのは初めてです。奈良県の馬見古墳群にある新山古墳も前方後方墳でしたが大きすぎるのと木々が茂っていたことから後方部を実感できませんでした。

後方部の左側。馴染みのある前方後円墳と違うのがわかります。

前方部の左側の角。

同じく前方部の右側。なぜか上部の角の土が取り除かれています。

 墳丘を一周したあと、東之宮社の右手、古墳のくびれ部から墳丘に登ってみました。

前方部から後方部を。

 この古墳はこの主軸に意味があるとされています。太陽の力が一番弱くなる冬至の日、この主軸の先から太陽が昇るというのです。主軸は北西から南東の軸になります。

犬山観光情報サイトから転載させていただきます。
被葬者は「冬至の王」とも呼ばれているそうです。

後方部から前方部を。
見ての通り、表面は山を登ってくる途中で見たチャートの破片で覆われています。

 ちょっとマニアックなことをやってみました。平成24年(2012年)に埋葬施設の再調査が行われた際に掘られたところを木の枝でかたどってみました。草が茂っているところがまさに埋葬施設があったところです。埋め戻した土に混じっていた草の根が成長したのでしょう。

北西部(後方部墳頂の前方部側)から。

南東部(後方部墳頂の先端)から。

そしてこれが実際の発掘時の北西部からの写真。
2012年の調査時に使われた現地説明会資料から転載させていただきます。撮影地点はふたつ上の写真と同じです。

石槨の石蓋をはずした状態。こちらも現地説明会資料からの転載です。

石槨の内部。こちらも現地説明会資料からの転載です。
チャートを綺麗に積み上げて石槨を形成しています。

 大和の纒向にあるホケノ山古墳の墳丘に登った時と同じような衝動に駆られました。この足元にこんな立派な埋葬施設があるのか。今すぐにこの手で掘ってみたい!

 前述の説明会資料に掲載された下の写真は後方部の北東側斜面にトレンチを入れたときに写真ですが、この発掘によって後方部の中間あたりの高さにテラス部が存在したことと、その上の二段目の斜面に葺石があったことが確認されました。そのトレンチの部分を確認しようと足元の不安定な斜面を降りて発見したのが2枚目の写真です。比べてみてください。


 東之宮古墳から眺めるこのあたり一帯は古代には尾張国丹羽(にわ)郡と呼ばれていました。私は「丹羽」を「たんば」あるいは「たにわ」と読んで、日本海側の丹波国とのつながりを想定しています。丹波国、あるいはその後に分かれた丹後国から近江を経由してやってきた人々が定着した地域で、丹波の丹波氏や丹後の大海氏と尾張の丹羽氏はつながっていると考えるのです。
 濃尾平野の南西部一帯(おおむね新幹線よりも南側)は現在でも海抜が低い地域で、内陸部の大垣市でさえ海抜数メートル、海抜ゼロメートルというところも点在しています。清須市にある貝殻山貝塚資料館に行ったときに職員の方から「朝日遺跡が見つかったこのあたりは弥生時代以降、人が住むようになったのは平成になってから。それまでは水田の広がる湿地帯で人が住むところではなかった」という驚きの話を聞きました。今でこそ伊勢にまで広がる広大な平野には交通網が縦横に巡っていて、大阪や奈良からだと近鉄大阪線でまっすぐ東に伊勢平野に抜けたあとは北上して揖斐川、長良川、木曽川を渡って濃尾平野に入って名古屋に行くことができますが、古代にはそのルートは取れなかった。伊勢から海路で三河の渥美半島へ渡るルートはあったものの美濃へは遠い。
 一方、地図を見ると丹後から美濃は意外に近いのです。若狭湾や琵琶湖の海路を使うとすぐにでも行けそうです。丹後→近江→美濃というルートは古代から栄えていたに違いないです。東之宮古墳に眠るとされる初代の邇波の王の出身は丹後であったのかも知れない。そんな思いを強くしました。

 古墳の周囲を二周し、墳丘を登ったり下りたり、墳丘上や墳丘斜面でいろいろ確認したり、木曽川、犬山城から濃尾平野を眺めたり、1時間ほどいたでしょうか、後ろ髪を引かれながら下山することにしました。このあと、近くにある妙感寺古墳も見ておきたいと思ったので、下山時は成田山の正面に出る道を下りました。

東之宮古墳は背後に見える山の上です。

成田山から下りてきて名鉄沿いの細い道を進むと左手に突然、妙感寺古墳が現れます。手前の盛り上がりは周堤の一部と言われています。

 妙感寺古墳は5世紀前半、古墳時代中期の前方後円墳で全長は約95mとされています。東之宮古墳から150年ほど後、青塚古墳から100年ほど後の築造でしょうか。とすると被葬者は邇波の王の5代目あたりかな。

 古墳は日蓮宗一翁山妙感寺の境内に位置しており、周辺や墳丘を含めて発掘調査は行われておらず、出土遺物なども確認されていません。

一翁山妙感寺の参道。背後に古墳が見えます。

本堂の裏手に墳丘があります。後円部です。

墳丘上の前方部に建つ小さな祠。最上稲荷とあります。

くびれ部です。

前方部には墓地が広がっています。

 草木が茂り、蜘蛛の巣が張り巡らされる墳丘の上をひとしきり探索して帰路につきました。犬山駅に向かう途中、古墳の全体が見えたので撮影しました。

左に走る名鉄は古墳の周濠の北西の角を削って敷設されたようです。


 最後に、往路で犬山遊園駅を降りたときにホームで見かけたこの看板。この犬山市に桃太郎伝説があることを初めて知りました。




 
 
 

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青塚古墳

2019年07月11日 | 遺跡・古墳
 2019年3月、愛知県犬山市にある青塚古墳を訪ねました。全長123mの前方後円墳で、愛知県下では名古屋市熱田区にある断夫山古墳の151mに継ぐ第二位の規模を誇ります。出土した埴輪や土器から古墳時代前期、4世紀中葉の築造と考えられています。
 名鉄の楽田駅で下車、県道を西へひたすら歩くこと30分、小さな橋を渡った左手に綺麗に整備された古墳が突然現れます。  

 
   

 墳丘は前方後円形の基壇の上に構築され、後円部が3段築成、前方部が2段築成で、墳丘表面は河原石の葺石で覆われ、各段に壺形埴輪が2m間隔で並べられていたことがわかっています。墳丘周囲にはやや不定形な盾形の周濠および外堤が巡らされていました。発掘調査を終えた古墳は復元整備され、青塚古墳史跡公園として公開されています。 
 
             

 一見すると前方部が3段で後円部が4段のように見えるのですが、最下部は基壇とされ、その基壇の上に築造された様子が見事に復元されています。これまで見てきた古墳の中で最も美しいと感じました。芝生が青くなるともっと美しくなるんだろうな。
 
 この古墳は東へ4キロほどのところにある尾張国二之宮である大縣神社の所有地になっていて、古墳にはその大縣神社の祭神とされる大荒田命が葬られているとの伝承があるそうです。大荒田命は「先代旧事本紀」に見える邇波県君(にわのあがたのきみ)の祖とされています。発掘調査は神社の協力によって実現したものの、埋葬主体があると考えられる後円部の墳頂部分は調査対象外となりました。

 公園内にはガイダンス施設「まほろの館」が併設されています。青塚古墳のほか、犬山市内にある古墳からの出土品などが展示されています。 
 

熊野神社第一号墳の出土品。
 
白山神社古墳の出土品。
 
上野古墳群の出土品。
  
東之宮古墳の調査の様子。
 
東之宮古墳に副葬されていた11面の銅鏡。レプリカです。
 

 展示を見学した後、資料コーナーで青塚古墳の調査報告書を読んでいると、受付のおじさんが声をかけてくれました。この邇波地方の古代史などについて30分ほど会話をすることができました。おじさんによると、この青山古墳は邇波の二代目の王の墓ということでした。
 初代の王は犬山市の北の方にある東之宮古墳に葬られているのでぜひ行ってみて、と言われたので必ず機会を作ろうと思いました。(そして先日、東之宮古墳に行ってきました。)

 青塚古墳の周囲には小さな古墳がいくつか残っているとのことだったので、まほろの館を出た後に見てまわりました。

青塚古墳の前方部の前にある小さな古墳。

たぶん葺石の名残りです。

竹藪になっていますが古墳です。
 
 美しい古墳を見ることができたのと、古代史マニアの受付のおじさんのおかげで実に楽しい時間を過ごすことができました。
 このあと、大縣神社を参拝しようかと思ったのですが、楽田駅まで戻ってそこからさらに30分、往復で1時間ほど余分に歩くことを考えると、体力に自信がなくてあきらめました。
 
 
 

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新山古墳

2019年05月21日 | 遺跡・古墳

2019年1月、例によってワンコの散歩を兼ねて奈良県北葛城郡広陵町にある新山古墳(しんやまこふん)へ行ってきました。

 

新山古墳は馬見古墳群の東南端、高田川の左岸に面する丘陵の端に位置する前方後方墳で4世紀中半から末の築造とされています。大和では珍しい前方後方墳で全長が126mあり、そこそこの規模の古墳です。第25代武烈天皇陵の候補と考えられ、宮内庁によって「大塚陵墓参考地」として管理されています。 明治18年に土地の所有者がそこに古墳があるとは知らずに植樹をしようと穴を掘ったところ、後方部にあった竪穴式石室につきあたり、34面もの銅鏡ほか多数の副葬品が出土したとのことですが、その大半は宮内庁で管理されるようになりました。なかでも西晋(265年~315年)のものと思われる金銅製の帯金具は古墳の年代決定における重要な副葬品とされています。

 

 

高田川越しに古墳の南東方向から。

 

 

川を渡って近づくと周濠の名残りと思われる池があるのがわかります。

 

古墳の北側は小さな公園になっていますが、古墳の後方部とほぼ一体となった小山です。

 

フェンスの向こう側が後方部です。

 

 少し離れて北側を撮ると、ここにも周濠の名残りと思われる池があります。

 

後方部の北東の角。陵墓参考地の碑と立て札が立っています。

 

後方部の北西の角。住宅がそこまで迫っています。

この住宅地の開発に伴って1980年、81年と正式な調査が行われました。この住宅地は「みささぎ台」と言います。

 

前方部の南東の角。

 

 

北側の公園にたつ説明板。

 

 

すぐ近くにある喫茶店「陵」。右端です。

 

おそらく土地の所有者、あるいはその関係者が経営されていると思われます。

 

「陵」の2階には新山古墳からの出土品が展示されていて、自由に見学をさせてもらえるそうです。 色が抜けていますが、そう書いてあります。

ワンコの散歩の途中だったので見学を断念しましたが、陵墓参考地からの出土品を所有しているということは、土地の所有者で明治18年の発掘に関係した人、あるいはそのご家族の方なのでしょう。

 

 宮内庁はこの新山古墳を武烈天皇陵の参考地とする一方で、奈良県香芝市今泉にある傍丘磐坏丘北陵(かたおかのいわつきのおかのきたのみささぎ)を武烈天皇陵に治定しています。また、蒲生君平が「山陵志」において武烈天皇陵とした築山古墳(磐園陵墓参考地)はここから南に1キロほどのところにあります。 古墳の規模や豊富な副葬品から考えると、天皇陵であってもおかしくないのですが、やはり前方後方墳というのが引っ掛かりますね。




 

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馬見古墳群

2019年05月08日 | 遺跡・古墳
これまでに築山古墳群続編と合わせて二度にわたって紹介しましたが、今回はその北側に広がる馬見古墳群の南端に分布するいくつかの古墳を紹介します。いずれもワンコの散歩がてらの見学なので、そんなに遠くへ行けず、近鉄大阪線あるいは国道165号線と県道105号線(中和幹線)に挟まれた地域のみの探索となります。
 
<黒石古墳群>
 
みささぎ公園内に円墳が2基、前方後円墳が1基、計3基の古墳が残されています。
 
左手奥に円墳が見えます。その右の小山が前方後円墳の後円部となるのですが、前方部の範囲がよくわかりませんでした。写真の下半分全体がそのように見えるものの、それだと前方部が大きすぎる気もする。
 
前方後円墳の前方部の手前にあったもう1基の円墳。
 
別のところから移築された黒石13号墳の石室。
 
 
みささぎ公園の西にある黒石公園内に残された2基の円墳と1基の前方後円墳。
 
おそらくこれが前方後円墳と思われます。
 
階段を挟んで2基の円墳。
 
 
公園の近くに放置された林がありますが、おそらくこれも古墳と思われます。
 
<別所石塚古墳>
 
自動車学校の敷地に隣接する前方後円墳。前方部はこの教習所の建設時に削られたと思われます。全長が90~100mと推定されています。
 
近づくと後円部が比較的よく残っているように見えます。高さは8mで埴輪や葺石があったと考えられ、埋葬施設も検出されています。
 
後円部の先端です。墳丘に登ることも可能です。上の写真の裏側です。
<城山1号墳・2号墳>
 
城山児童公園内に残された古墳で、1号墳が全長42mの帆立貝式、2号墳が東西径19m、南北径21mの円墳とされるが、墳丘に登ってみると2つの古墳は1号墳の前方部を介してつながっているように感じるので、どちらが帆立貝式でどちらが円墳なのかわからない。墳丘や周囲を歩いてみるとむしろ2号墳が前方後円墳のように思える。
 
1号墳の後円部。滑り台のあるところが2段築成の1段目のように見えますが、よくわからない。
 
1号墳の墳丘上。手前が前方部です。
 
1号墳は盗掘を受けたとの連絡を受けたあと、記録をとってすぐに埋め戻されたそうです。その際に硬玉製管玉1個と碧玉製管玉1個が見つかったとのことです。
 
2号墳。上の写真とこの写真のどこかに2つの古墳の境い目があるはずなのですが、よくわかりませんでした。
 
墳頂部は盗掘を受けていたものの、残された埋葬施設が詳しく調査されています。札甲(さねよろい)、鉄斧、鉄剣、鉄刀、鉄槍など、豊富な鉄製品が副葬されていたそうです。
 
2号墳の墳丘から。この写真を撮った時はこちらが前方後円墳と思っていたので前方部を撮ったつもりでした。
 
2号墳の周囲はこんな感じ。上が前方部、下が後円部と思っていたのですが、、、
 
 
以上、馬見丘陵の南端に広がる古墳群を探索した様子を紹介しました。このあたり一帯はすべて住宅地として開発が行われた結果、数多くの古墳が姿を消したと思われます。しかしその一方で、開発に伴って詳細な調査が行われたことによって、膨大な遺物、精緻なデータが得られました。近年の考古学の発展は目覚ましいものがありますが、それは高度成長期以来、全国各地で行われた宅地開発や道路建設などの副産物とも言えるでしょう。それにしても、馬見丘陵を開発して出来上がった街を「真美ケ丘」と名付けたのは秀逸だと思います。
 
 
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築山古墳群(続編)

2019年01月10日 | 遺跡・古墳
年末年始に奈良県大和高田市の奥さんの実家に帰った時に築山古墳群を再度探索しました。前回のときに写真を撮り忘れたところや今回新たに訪ねたところを紹介します。

まずは近鉄大阪線の築山駅の前にあるインキ山古墳(前方後円墳)です。

前回は日が暮れてからだったので明るいときに再訪しました。

右手が墳丘で左が駅です。おそらく鉄道や駅の建設のときに墳丘が削られて道路が敷設されたのだと思います。

道路を進んで振り返ったところ。右手が駅で、墳丘上には保育園があります。この駅は築山という駅ですが、もともとこのあたりの地名が築山といいます。まさに古墳を表している地名だと思います。

次にかん山古墳。築山古墳群最大の築山古墳の隣(北側)にある築山児童公園の中にあります。公園の入口はまさに墳丘を登る感じです。


帆立貝型前方後円墳の前方部から。

右手に見える階段を登ると墳丘の頂上です。頂上からの眺めはなかなか素晴らしい。

南側の眼の前に築山古墳。


西を臨めば二上山から葛城・金剛連山。


北側には大谷自然公園。

林のあたりが公園で、公園内にふたつの円墳(大谷1号墳と2号墳)があります。見えないですが、このずっと先に馬見丘陵が広がっています。

東には近畿地方最大の円墳であるコンピラ山古墳と、ずっとむこうの左手に三輪山が見えます。


次は大谷自然公園内にある大谷1号墳。



2号墳。


円墳の肩越しに築山古墳が見えます。

築山古墳の北東すぐのところにある古屋敷古墳。


Wikipediaによると石室が露出しているとなっているのですが、私有地で中に入れないので確認ができませんでした。

築山古墳から南へ進んでJR和歌山線を越えたあたりの池田遺跡に隣接する領家山古墳。

道端にあった町内会の地図には「領家山古墳」と書かれていたのですが、どうやらこの丘陵全体が古墳ということではないようです。この丘陵上に3つほどの古墳があるそうです。

説明板にはたしかに「領家山古墳群」と書かれています。階段を登って天照皇太神社の社殿の裏側にまわると小さな円墳らしき小山がありました。


さらに南へいくと古墳らしきこんもりした空間。

ここには岡崎稲荷神社があり鳥居をくぐって境内の左側に行くと小さな祠がありました。


右側に墳丘が少し削られたと思われる痕跡があります。たぶん古墳と思われるのですが、一度ちゃんと調べてみます。

最後に盟主墳である築山古墳をぐるっと一周しました。

前方部の右隅。


前方部。


前方部左隅。


南側の前方部から後円部にかけて。

前回は北側(右側)しか撮影しなかったので、今回は反対側を撮りました。こちらはくびれ部に造り出しがあるのがわかります。

後円部。(前回の写真)


北側の後円部から前方部にかけて。(前回の写真)


この築山古墳群を含めて馬見丘陵に広がる馬見古墳群は葛城氏の墓域と考えられていますが、葛城氏の本貫地はもう少し南へいった葛城市から御所市にかけてのあたりと考えられるので、少し距離が離れているように感じます。この築山古墳群がぎりぎりのところかもわかりません。今回、ワンコとともに歩き回ってつぶさに観察したことで、この古墳群にたいへん興味を持ったので、あらためて勉強してみたいと思いました。

以上、築山古墳群レポートの続編でした。



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大山古墳(伝仁徳天皇陵)

2019年01月08日 | 遺跡・古墳
 2018年12月、大阪府堺市にある百舌鳥古墳群最大の前方後円墳である大山古墳とその陪塚をいくつか訪ねました。すぐ目の前にある堺市博物館を先に見学して少しインプットしてから時間の許す限り観察しました。といってもあまりに大きいので前方部手前の道路を行ったり来たりしただけに終わったのですが、、、



 大山古墳あるいは大仙陵古墳と一般的に呼ばれるようになったのは最近のことではないでしょうか。大阪に生まれ育った私は子どもの頃から何の疑いもなく仁徳天皇陵と呼んでいたし、学校でもそのように教わりました。しかし被葬者が仁徳天皇と特定できないばかりか、そもそも仁徳天皇は実在しなかったという説もあるくらいなので、仁徳天皇陵という名称はあくまで通称で、遺跡名としての大山古墳あるいは大仙陵古墳を用いるのが適切であるということだと思います。ちなみに宮内庁ではここを仁徳天皇陵に治定するとともに記紀の記述をもとに「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)」という呼称を用いています。世界最大の古墳で墳丘の全長は486m、堤や濠まで含めた古墳全体の最大長は840mにもなります。現在の濠は三重になっています。

拝所。撮影場所は第2堤、つまり外側の堤の上で、拝所そのものは第1堤の上です。


 ボランティアガイドの方が近づいてきて「説明しましょうか」と言ってくれたのでお願いすることにしました。大きな話題となった宮内庁と堺市による共同調査が終わったばかりだったので、そのネタから会話が始まりました。ガイドの方のお名前は木内さん。古墳に詳しく私と同様に機会を見つけては全国の古墳を訪ね歩いているそうです。

拝所からすぐそこに見える調査現場。第1堤の一画です。

2月に発掘調査結果の報告と写真パネルによる展示が行われるようです。

 百舌鳥古墳群は南を流れる石津川あるいはその支流の河岸段丘上、もしくは上町台地の南端といった方がいいのでしょうか、いずれにしても平地よりも10mほど高くなったところにあります。この古墳群に限らず多くの古墳群は台地上や段丘上など周囲より一段高いところに造営されることが多く、その理由は諸説あるようですが、ガイドの木内さんのお考えによると、これらの古墳は築造当時は木々はなく葺石で覆われた大きな造営物で、少し見上げるような場所にあると人々に被葬者を崇める気持ちが湧いてくる、だから一段高いところに造るのだとおっしゃいます。一理あるなと思うのですが、私は少し違う考えをしています。というのも、宮崎県にある西都原古墳群や新田原古墳群なども段丘上にあるのですが、いずれも平地との標高差が数十メートルの急坂を上った高台の上に古墳群が広がっており、平地から古墳は見えないのです。とすると、必ずしも下からどう見えるかを意識したのではなく、逆に上から見下ろすことを意識したのではないでしょうか。そしてもうひとつの理由は、低地に造ると河川が氾濫したときに流されてしまうから。だからできるだけ周囲から高いところに設けようとしたのです。古墳時代前期やさらに遡る弥生時代には少し高いどころか、山上や丘陵上に築かれた古墳や墳丘墓がたくさんあります。

古墳右側の濠と前方部の右隅。


古墳左側の濠と前方部の左隅。


前方部前面の濠。左側から。

世界最大とあって一周すると3km近くあるので今回はこのように前方部の前面のみの見学です。そして前方部の手前に並ぶ陪塚も見てきました。

前方部手前のもっとも右側にあるのが収塚(おさめづか)古墳。

5世紀中頃の築造で全長59mの帆立貝形古墳です。


次に大山古墳の軸線上にある孫太夫山(まごだゆうやま)古墳。

これも5世紀中頃築造の帆立貝式古墳で、全長は65mです。


そして竜佐山古墳。


5世紀後半から末の築造とされる全長60mの帆立貝式古墳。


前方部手前の左端にあるのが狐山古墳。

5世紀後半の築造とされる径30mの円墳。


狐山古墳から少しだけ前方部側に寄ったところの銅亀山(どうかめやま)古墳。

5世紀中頃の築造で、一辺26mの方墳。


最後に収塚古墳から少し離れたところにある長塚古墳。


5世紀中頃から後半の築造とされる全長106.4mの前方後円墳。

これは他の陪塚と比べると規模が大きくて墳形も整っていることから、大山古墳の陪塚ではなくて単独の古墳とされ、国史跡になっています。ただ、実際に歩いてみると大山古墳からの距離が他の陪塚とあまり変わらないことや、大きさも確かに100mを越える全長であるものの、孫太夫山古墳の65mと比べると圧倒的に大きいわけではないので、これも陪塚と考えるのが自然なように思いました。

 それから、ガイドの木内さんはこの古墳編年表を見せながら、和泉の百舌鳥古墳群と河内の古市古墳群で交互に古墳が大きくなっていき、この大山古墳を最後にこれよりも大きな古墳が築かれなくなった、ということを説明してくれました。わずか10キロほどの至近距離に同時期に存在したふたつの勢力が競い合っていたということになるのでしょうか。木内さんはこの質問には答えてくれませんでした。

この編年表は近つ飛鳥博物館の前館長の白石太一郎氏によるものです。

 この表を見ていて大きな疑問が湧きました。表中の百舌鳥古墳群にある上石津ミサンザイ古墳は宮内庁が履中天皇陵に治定している古墳です。それが仁徳天皇陵に治定される大仙陵よりも先に築かれたことになっているのです。応神→仁徳→履中→反正→允恭、、、おかしいですね。考古学的にはこの大山古墳は仁徳天皇陵と言えないのかもしれません。そういえば学術的には今城塚古墳が継体天皇陵に治定されるべきなのに、時代が合わない太田茶臼山古墳が継体陵に治定されているというケースもありました。

 それともうひとつ。現在は三重の濠になっているのですが、三重目の濠は明治時代になってから設けられたとのこと。江戸時代の「舳松領絵図(へまつりょうえず)」に三重目の濠の南西角周辺が残存した姿が描かれていたことが根拠とされています。しかし、木内さんの話では、三重目の濠を掘った時に埴輪などの遺物がほとんど出なかったので、やはりもとから二重の濠であったのではないかと言われているそうです。

舳松領絵図(堺市立図書館地域資料デジタルアーカイブより)


 木内さんのおかげで新たな気づきを得ることができ、そして楽しい時間を過ごすことができました。ありがとうございました。帰り間際に私の本を宣伝しておいたのですが、読んでくれたでしょうか。

この大山古墳の拝所と眼の前にある堺市博物館は、最寄り駅であるJR阪和線の百舌鳥駅から徒歩で数分のところです。


世界遺産に登録されるといいのにな。



よみがえる百舌鳥古墳群―失われた古墳群の実像に迫る
 
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築山古墳群

2018年12月25日 | 遺跡・古墳
奈良県大和高田市、近鉄大阪線築山駅の周辺、奈良盆地西部を南北に延びる馬見丘陵の南端に広がる古墳群です。家内の実家がこのあたりにあるので、これまで何十回、いや何百回と足を運んでいるところです。このたび、実家に帰るたびに犬の散歩がてら歩いて見てきたので紹介します。

国土地理院のアプリで地形とあわせて場所を確認。

図の真ん中(奈良盆地西側)を縦断するのが馬見丘陵。築山古墳群はそのいちばん下にあります。標高は60~70mくらい。奈良盆地は南から北に向かってダラダラと標高が低くなっています。川の流れがそれをわかりやすくしてくれています。馬見丘陵の東から順に、高田川、葛城川、蘇我川、飛鳥川が南から北に向かって流れて大和川に合流しています。

築山古墳群のあたり。拡大してみると丘陵の様子と古墳が南北に並んでいるのがわかります。


築山古墳群の盟主墳である築山古墳。

被葬者は明らかでないのですが第23代顕宗天皇の可能性があるとのことで「磐園陵墓参考地」として宮内庁の管理下にあります。全長は210mあり、後円部径120m、前方部幅105mの前方後円墳で、採集された埴輪片から4世紀後半の築造と考えられています。蒲生君平の山陵志では南にある全長75mの前方後円墳である狐井塚古墳(「陵西(おかにし)陵墓参考地」)と共に武烈天皇陵と顕宗天皇陵に比定されています。そういえば、結婚前(30年以上前)に近鉄で来たとき、築山駅にある観光案内板に付近の名所として「伝武烈天皇陵」と書いてあったのを記憶しています。







築山古墳の南西すぐ近くにある陪塚の松島茶臼山古墳。直径47mの円墳でこちらも陵墓参考地です。




同じく築山古墳のすぐ東にあるコンピラ山古墳。

数回にわたる範囲確認調査などで墳丘は直径95mの規模を持つ、近畿地方最大級の円墳であることが判明。墳丘は2段築成、テラスと墳頂には埴輪列が廻らされていたようです。埴輪の特徴から5世紀前半の築造と推定されています。

私有地に囲まれているのですが、なんとか全貌を見たいと思って執念で回りました。










左が築山古墳で右がコンピラ山古墳。


こちらは築山古墳のすぐ南側にある狐井塚古墳。



全長75m、後円部径40m、前方部幅40mの前方後円墳で5世紀中葉の築造とされています。前述の通り「陵西(おかにし)陵墓参考地」として宮内庁管理下にあって立ち入りができません。

前方部右側(北側)の角。

この左側の一段低くなった土地が駐車場になっていますが、周濠であったことが伺われます。この古墳には5つの小さな陪塚があります。

陵西陵墓参考地い号。


陵西陵墓参考地ろ号。


陵西陵墓参考地は号。


陵西陵墓参考地に号。


陵西陵墓参考地ほ号。

ここは周濠跡が確認されたのでしょうか、石敷きで表現されています。

5つの陪塚全てが陵墓参考地になっていて立ち入りができないのですが、ご覧の通り、住宅地の中にある小さな古墳ばかりでスコップで簡単に掘れそうです。5つ目の「ほ号」がある場所は「池田遺跡」と呼ばれ、高田温泉さくら荘(1994年10月開業)、老人ホーム慈光園等の建設のために発掘調査が行われた結果、多くの古墳や遺跡が埋もれていることが判明しました。さくら荘にはよく行ったのですが、遺跡の上にあるとは当時は知りませんでした。

池田遺跡の説明板。


池田遺跡の南に広がる領家山古墳。




山上にある神社の名は天照皇太神社。いかにも、という感じです。


領家山の麓から西を眺めると二上山が見えます。


南西には葛城山。



ここまでは主に築山古墳群の盟主墳である築山古墳の南側を見てきましたが、北側にも古墳が分布しています。

インキ山古墳。

築山駅のすぐ近くですが、古墳の原型をとどめていません。

かん山古墳。

築山古墳の北にある築山児童公園内にある帆立貝式前方後円墳とのこと。登ってみたところ、かろうじて帆立貝の形をイメージできたのですが、古墳だとわからなければ単なる小山です。

さらに北へ行くと大谷山自然公園があり、公園内に大谷1号墳(直径33mの円墳)、2号墳(直径13mの円墳)があるのですが写真を撮り忘れました。2号墳はきれいに整備されて墳丘に登ることもできます。

小道を下った先に大谷2号墳があります。


このほか、築山駅の北側にも黒石山の黒石支群、エガミ田支群、モエサシ支群、新山古墳などがあるそうですが、またの機会にします。最後に、今回歩き回った古墳群の空撮写真をWikipediaから転載させていただきます。インキ山古墳は今はこんなにも緑はなくて宅地になっています。池田遺跡や領家山は一番下のJR和歌山線よりも下になります。



 → 「築山古墳群(続編)」もご覧ください。



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断夫山古墳・白鳥古墳

2018年12月02日 | 遺跡・古墳

 名古屋市熱田区、高蔵遺跡を南へ少し歩くと伏見通り沿い、神宮公園内にそびえる断夫山古墳が現れる。全長が151メートルで愛知県最大の前方後円墳です。三段築成で前方部が発達した古墳時代後期の特徴を示しており、出土した埴輪や須恵器から6世紀前半頃の築造と推定されています。このあと行く白鳥古墳とともに尾張氏の首長の墓と考えられています。この古墳はかつては日本武尊の妃である宮簀媛命の墓とされていました。同様に白鳥古墳は日本武尊の墓とされていましたが、いずれも時代が全く合いません。





ここはもともと熱田神宮の管理下にあったものを戦後に愛知県が県有化し、1987年になって国史跡に指定されました。その後、県営熱田神宮公園として整備されて現在に至っています。

西側のくびれ部の造り出しです。

ここから多量の須恵器が出たそうです。東側に造り出しはありません。また、写真でわかるように周濠が墳丘を囲んでいますが、これは後世に造作されたものです。

前方部の左隅。


こちらは右隅。

左隅と違って削られているようです。

後円部の先端。

許可をもらえば墳丘に登れます。


断夫山古墳から少し南へいくと白鳥古墳があります。高蔵遺跡が熱田台地の東端でしたが、この白鳥古墳は西端に位置します。

白鳥古墳の少し北側の道ですが、西に向かって下っているのがわかります。突き当たりは堀川という川になっています。

川沿いの道から東へすぐ。

この階段の高さがこのあたりの熱田台地の高さといううことになります。

白鳥古墳。

全長が70メートルの前方後円墳で6世紀初頭の築造とされます。ただし、この古墳は前方部の南端は道路建設で、後円部の東側は法持寺の移転改築などで削られていて正確な大きさは不明です。

前方部の先端。

手前には周濠があったとされています。

熱田神宮社伝では、能褒野(のぼの)に葬られた日本武尊が白鳥となって当地に降り立ったという伝承により、この古墳を日本武尊の墓としています。白鳥古墳の名称もそこからきており、白鳥御陵とも呼ばれていますが、断夫山古墳と同様に時代が合いません。

隣接する法持寺。

曹洞宗の寺院で山号は白鳥山。白鳥陵の宝物を護持する寺であることから草創期は宝持寺と称していたそうです。

法持寺の境内。

左側の森が古墳。手前が前方部の東側、奥が後円部の東側です。古墳に接するように、というよりも墳丘を削って境内が作られています。この境内は三保が関部屋の稽古場になっていたようで、ここで鍛錬した北の湖が横綱になったことから、北の湖や相撲に関する石碑もたくさんありました。


以上でこの日の目的を達成したのですが、ここまで来たら熱田神宮を参らないわけにはいきません。

結構疲れていたので正面までまわるのはやめて西門から入りました。

ここでもお決まりの大楠。


三の鳥居。


拝殿。




神社公式サイトによると、主祭神の熱田大神は三種の神器の一つである草薙剣を御霊代(みたましろ)とする天照大神のことだとか。ここ熱田神宮に草薙剣が祀られるようになった理由、というよりも逆にここに祀られている草薙剣がなぜ三種の神器とされるようになったのか、を考えているのですが、それはまたいずれ。

その草薙剣が祀られていた土用殿。


境内の一番奥にある一之御前神社。

天照大神の荒魂(あらみたま)が祀られています。

本殿をぐるりと取り囲む「こころの小径」を歩いて参拝を終了。歩き疲れてクタクタになりました。

尾張氏、熱田神宮、草薙剣、、、、尾張の地は謎でいっぱいです。



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高座結御子神社・高蔵遺跡

2018年12月01日 | 遺跡・古墳
 名古屋市熱田区高蔵町にある高座結御子(たかくらむすびみこ)神社は熱田神宮の境外摂社で、尾張氏の祖神とされる高倉下命(たかくらじのみこと)を祀っています。
 祭神の高倉下命は名古屋市守山区の東谷山の山頂にあった尾張戸神社にも祀られていました。その尾張戸神社のある東谷山の北側、庄内川を渡ったところは高蔵寺町で高座山がありました。この高座結御子神社のあるところも高蔵町です。ということは、記紀に登場する高倉下に因んで地名がつけられたと考えられます。







 熱田神宮の公式サイトには次のように紹介されています。

 祭神の高倉下命(たかくらじのみこと)は、この地域の産土神(うぶすながみ)であり「高座さま」と呼ばれ信仰を集めております。熱田神宮とほぼ同年に創祀された古社で、延喜式に名神大社として記載されております。
 当神社は古来、子育ての神として信仰が篤く、4月3日に幼児成育祈願祭、続く6月1日の例祭には境内末社の御井社(みいしゃ)で名高い「高座の井戸のぞき」があり数多くの人々が子供を連れてお参りします。幼児に井戸をのぞかせると「疳(かん)の虫封じ」になるという信仰です。




ちょうど訪ねたときに、若い夫婦が赤ちゃんを連れて祈願をしてもらっているところでした。そして祈願のあと、この井戸をのぞいていました。


お決まりの大楠の樹。

 
高座結御子神社は弥生時代から古墳時代にかけての遺跡である高蔵貝塚あるいは高蔵遺跡の上に鎮座しています。境内にもそれを示す立札がありました。


神社を囲むように公園があって、何らかの遺跡の痕跡が見れるだろうと思っていたのですが、まさかこんな事態に遭遇するとは思いませんでした。


なんと、神社のすぐ隣でまさに遺跡を発掘していたのです。公園整備に伴う発掘とのこと。


しかも、発掘現場の見学会が終わったばかりでした。


この高蔵遺跡は弥生時代前期としては列島の東端にあたる遺跡であることから全国的にも有名です。出土したこの地方特有のパレススタイル土器は国の重要文化財として東京国立博物館に収蔵されているとのこと。

神社の裏へまわるとこんなに広い公園になっていて、この一帯が高蔵遺跡です。


今は影も形もないですが、ここに古墳がありました。


金網の向こうは神社の境内で、そこには墳丘がみえます。

神社を取り囲むように7基の円墳があったとされており、周辺も含めれば5世紀後半から6世紀後半の15~20基の古墳があったとされ、高蔵古墳群とも呼ばれています。

この高蔵遺跡は南に向かって舌のようにベロンと延びた標高10メートルほどの熱田台地の東端にあります。神社から東に向かうとすぐに坂道を下るので、台地の東端というのがわかります。


ここから少し南側、台地の西端に断夫山古墳と白鳥古墳が、さらに少し行った南端には熱田神宮があり、狭い台地上に尾張氏ゆかりの遺跡や神社が密集する地域となっています。

神社南側の道路を渡ったところにある小学校も遺跡の上に建っています。






遺跡と神社をあとにして、断夫山古墳、白鳥古墳、そして熱田神宮へと向かいました。



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今城塚古墳

2018年11月26日 | 遺跡・古墳
2018年11月、高槻市立今城塚古代歴史館を見学したあと、徒歩ですぐの今城塚古墳を散策しました。古墳時代後期の6世紀前半の築造で全長が190メートル、内濠と外濠の二重の濠がめぐっており、淀川流域では最大規模の古墳です。後円部は三段築成であるものの、三段目は削平されて石室等は存在していません。

この古墳は学術的には継体陵とする説が有力であるにもかかわらず、宮内庁は近くの太田茶臼山古墳を継体陵と治定して管理しています。戦前に設けられた臨時陵墓調査委員会においても、今城塚古墳を「陵墓参考地に編入すべし」との答申が行われたにもかかわらず、宮内庁は今城塚古墳の陵墓参考地指定について現在も難色を示しているとのこと。そのおかげ(?)もあって、こちらは発掘調査(といっても国の史跡なので学術調査に限定されます)が可能となっており、高槻市では史跡公園としての整備を目指して1997年(平成9年)以降、継続的に発掘調査を行っています。だからこの古墳は天皇陵であることはほぼ間違いないとされているにもかかわらず、墳丘上も含めて自由に見学ができるのです。史跡公園として整備されているので見学というよりも散策といったほうがいいと思います。

歴史館を見学中、今城塚古墳が継体陵とされなかった理由をボランティアのおばさんから聞きました。17世紀に江戸幕府が高槻藩に対して「継体陵と考えられる古墳があるか」と問い合わせたところ、高槻藩は「ない」と答えたそうです。意図的な回答であったわけではなく、戦国時代に摂津を侵攻した織田信長が墳丘を削って砦を築いたり、1596年の伏見大地震によって墳丘が地すべりを起こして崩壊したり、周濠が埋められて田畑になっていたり、ということがあって、当時は小山があるという程度の認識で古墳があるとは考えられていなかったそうです。「削られたり崩れたといっても前方後円の形はそれなりに残っていただろうから、それはおかしい」というと「当時は飛行機もヘリコプターもドローンもないから空から形をみることができないでしょ」と言われてしまいました。そりゃそうだ。一方、お隣の茨木藩は太田茶臼山古墳がそうではないかと回答したので、こちらが継体陵に治定されることになったそうです。

天皇陵の治定は江戸時代から行われており、記紀を中心とする文献資料から推測される場所にふさわしい墓があることを根拠に決められているようです。そして明治以降も基本的に当時の治定を引き継いでおり、現在は治定された陵墓の管理は宮内庁が行っています。この治定の見直しが行われるとすれば「被葬者の特定が可能な史料が発見された」「天皇陵ではないことが文献や記録から明らかになった」などの事情による場合のみというのが宮内庁の方針のようです。要するに文字による証拠が出ない限り見直しはしない、ということです。

今城塚古墳の全体図。高槻市のインターネット歴史館のサイトより。


日本最大の埴輪祭祀場の復元。はにわバルコニーからの眺め。

場所は前方部から見て左の内堤の外側に設けられたテラス状の張り出し部です。

古墳の散策はこの埴輪祭祀場からスタート。近くで見ると圧巻です。








これだけの形象埴輪が粉々になって出てきたとは驚き。ひとつひとつの埴輪を復元するだけでも大変なのに、それらが並べられた状態を復元したことに驚愕します。

時計回りと反対方向に周濠をに歩き、前方部をぐるっとまわります。



前方部の周囲のみ内濠に水を湛えています。この古墳、整備前は前方部前面の中央部が幅35mにわたって内濠側へ弧状に突き出したように見えていたことから剣菱形とされてきたそうです。しかし、調査の結果、伏見大地震による地滑りで墳丘が内濠へ崩れ落ちたということがわかりました。

内堤から内濠に降りました。

右側(南側)の造り出し部です。

通常のコースは後円部から墳丘に登るようなのですが、この造り出し部から登ってまず前方部へ向かい、そのあと墳丘を縦断して後円部へと歩きました。

前方部から後円部へと続く墳丘上の様子。



地滑りがあったとわかるほどの変形。アップダウンが続く墳丘。

後円部頂上、といっても三段目は削平されているので二段目の頂上ということになります。

このあたりに石室を支える石組みの基壇がありました。それも地震で崩れ落ちたそうです。

後円部から水のない内濠に降り、再び内堤へもどって後円部を撮影。


後円部を左側から。

階段部分を見ると一段目、その上に二段目と見えますが、実際の二段目はさらに上になるので、ここに見えているのは地滑りできた段差です。

内堤の下をくぐる通路。

堤の断面の剥ぎ取り標本です。

後円部の三段目がきれいになくなっていたので石室、石棺などの埋葬施設もなく、今一つ天皇が葬られていたという実感がわかない天皇陵です。加えて、地滑りで墳丘がガタガタになっているので、いざ墳丘に足を踏み入れると古墳ということを忘れて山歩きをしている感覚になりました。


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志段味古墳群(続編)

2018年11月18日 | 遺跡・古墳
 2018年11月のとある休日、名古屋市守山区にある志段味古墳群を訪ねました。4世紀から7世紀という古墳時代全期にわたって数十基(100基以上とも言われる)の古墳が築かれた古墳群です。ここは昨年2017年5月にも訪れたのですが、その際は古墳群の西側の地区しか見ることができませんでした。というのも東側、とくに東端にあたる地区の古墳は東谷山という山の上に築かれていることもあって、体力と時間の関係で見ることが叶いませんでした。それで今回はその東谷山に登ろうと決心をしてやってきたのです。

「歴史の里しだみ古墳群」のサイトより。


JR中央本線を高蔵寺駅で下車、駅からまっすぐ南へ向かうと庄内川に出ます。ここから左手を見上げれば目指す東谷山が望めます。


橋をわたって左折するとすぐのところに東谷山白鳥古墳があります。

ここは前回も来たのですが通り道なのでもう一度見学しました。径17mの円墳で6世紀末~7世紀初めの築造とされています。横穴式石室の内部をみることができます。




さて、ここからいよいよ山登りの様相を呈してきます。最初は住宅地の中を抜けるのですがとても危険な急坂です。住宅地を抜けるといよいよ山道に入ります。


手前で舗装が途切れています。この先も林道になっているので道は広いのですが、とにかくダラダラと登ります。登ること30分ほどだったかな、ようやく頂上近くの平らなところへ到着。東谷山の標高は198メートルでその頂上付近にあるのが尾張戸(おわりべ)神社古墳とその墳丘上に建つ尾張戸神社。





 尾張戸神社古墳は径27.5m、2段築成の円墳で築造は4世紀前半とされています。斜面にはおそらく山頂付近で集めたと考えられる大振りの角礫が葺かれていました。葺石上には多量の石英が撒かれていたと推定され、平坦面の敷石の一部にも石英が使われているとのこと。

 墳丘の裏へまわってみる。写真上部に本殿を囲む白壁と本殿の屋根が見えます。このあたりを発掘して2段築成ということがわかったようです。しかし2段目は神社を建てる際にほとんど削平されてしまいました。また、神社が建っているためにこのように墳丘の裾部分しか発掘できなかったと思われます。





 Wikipediaによると、墳丘上に建つ尾張戸神社の祭神は尾張氏の遠祖とされる神々で、尾張氏の始祖とされる天火明命(あめのほのあかりのみこと)、その子にあたる天香語山命(あめのかぐやまのみこと)、別名を高倉下命(たかくらじのみこと)といい、神武東征の際に熊野で天皇一行を救った人物、そして天火明命十二世孫にあたる建稲種命(たけいなだねのみこと)の三柱です。神社由緒によると天香語山命(高倉下命)は庄内川対岸の高蔵山に降り立ち、のちにこの東谷山に移ったとされ、その際に白鹿に乗って川を渡ったことから、その地に架かる「鹿乗橋」に伝承の名残を残しているとのことです。そういえばそんな名前の橋でした。
 JRの最寄駅の名は高蔵寺駅で「こうぞうじ」と読みますが、訓読みすれば「たかくらてら」です。高倉下と高蔵寺あるいは高蔵山は通じているのでしょうか。それとも後付けでしょうか。

由緒が刻まれた碑。

色合いや陰影の加減で見えにくく、博物館実習で教わった拓本を採りたいと思ってしまったのですが、それはともかく、祭神には上記の三柱のほかに、天道日女命(あめのみちひめのみこと)と乎止與命(おとよのみこと)の二柱の名が見えます。先代旧事本紀によれば天道日女命は天香語山命の母神とされます。乎止與命は建稲種命の父神で先代旧事本紀では成務天皇の時に尾張国造に任命されたとあります。いずれも尾張氏ゆかりの人物とされます。

 さあ、そうするとこの古墳に葬られている人物は自然に考えれば尾張氏ゆかりの人物ということになるのではないでしょうか。古墳の築造が4世紀前半なので尾張氏の系図からその時代に合う人物を求めるとよいことになります。二世の天香語山命が神武東征の頃なので私の考えでは3世紀中頃です。十一世孫の乎止與命が成務天皇のときに尾張国造になったというのが史実とすれば4世紀中頃ということになります。3世紀中頃の二世から4世紀中頃の十一世までおよそ100年で10代というのは少し密度が濃いようですが、4世紀前半となれば単純に考えれば五世孫から七世孫あたりになるでしょうか。先代旧事本紀などに記される尾張氏につながる系図でみると五世孫が建斗米命、六世孫が建田背命、七世孫が建諸隅命、八世孫が倭得玉彦命となりますが、どこまで行っても想像の域を出ないので別の機会に考えてみたいと思います。

 それよりも、なぜこんなに高い山頂に古墳が築かれたのでしょうか。このあと巡る中社古墳も南社古墳もそうです。初期の古墳は台地や河岸段丘の上、あるいは丘陵の尾根を切り出して築かれたケースが多いのは承知しているのですが、この志段味古墳群は少しおかしい。
 というのも、東谷山西麓の平地に白鳥塚古墳という愛知県で3番目に大きい前方後円墳があるのですが、この古墳も4世紀前半の築造とされています。その理由は、崇神天皇陵に治定される纏向の行燈山古墳とほぼ相似形であること、その行燈山古墳と同様に周濠に陸橋(渡り土手)があること、埴輪が出ていないこと、など畿内の早い時期の古墳の特徴を持つことから古墳時代前期前半の4世紀前半とされているのです。これは理解できます。そして、東谷山頂の尾張戸神社古墳も埴輪を持たないこと、葺石に石英がまかれていたこと、という特徴が白鳥塚古墳と似ていることから4世紀前半の築造とされたのです。これは少し無理があるのではないでしょうか。

白鳥塚古墳。




 東谷山の山頂に築かれた小さな円墳と山麓に築かれた巨大な前方後円墳が同じ時期に造られたことになるのですが、私は古墳群を含むこの地域一帯を見下ろす山頂に築かれ、かつ墳丘上に被葬者を祀ると考えられる祠が建てられた古墳の方が古く、この古墳の被葬者の後継がさらに勢力を拡大して畿内勢力と結びついて自分が治める土地に巨大な前方後円墳を築くまでになった、と考えるのが自然なように思うのです。つまり、山頂の尾張戸神社古墳の築造は4世紀前半よりも遡るのではないかと考えるのです。仮に3世紀後半や中頃まで遡らせると被葬者はそれこそ尾張氏始祖の天火明命や二世の天香語山命まで候補として考えられる。いかん、また想像が過ぎてきた。

古墳の近くの展望台からの眺め。下を流れるのが庄内川です。


 山頂をあとにしてここからは下り坂を下ります。少し下ると突然現れるのが中社(なかやしろ)古墳。東谷山山頂からのびる尾根を切り出して成形した全長63.5m、後円部3段、前方部2段の前方後円墳です。ここからは円筒埴輪や形象埴輪が出土しています。







 この円筒埴輪は奈良県東南部の影響が色濃く、東海地方では最古級の円筒埴輪だそうです。また白鳥塚古墳と同様に後円部の葺石の上や墳丘頂上に石英がまかれていたようです。墳形や円筒埴輪が大和政権の影響を受けており、白鳥塚古墳と似た特徴を持っていることから白鳥塚古墳よりも少し新しい4世紀中頃の築造とされているようです。

 これも少し違うような気がする。やはり平地にある古墳よりも山の上の方が古いと考えられないでしょうか。しかも尾根を切り出しているのです。平地に巨大な古墳を築くようになったあとにわざわざ山の上の尾根を削るでしょうか。白鳥塚古墳が4世紀前半ではなく、もう少し新しいのかもしれません。とにかく時代を特定する土器が出ていないのでどこまで行っても推測の域を出ないのです。

 さらに下ると南社(みなみやしろ)古墳です。径30m、2段築成の円墳です。1段目の斜面には山中で採取した人頭大あるいは拳大の角礫が葺かれ、上段は角礫ではなく円礫が葺かれていました。これはわざわざ山麓から運んだものと思われます。ここからも円筒埴輪や形象埴輪が出ており、円筒埴輪は中社古墳のものと共通性が認められ、両古墳の埴輪は一体的に生産されたと考えられています。このことから築造時期は中社古墳と同様の4世紀中頃とされています。







 さあ、これで今回の目的は達成です。あとは山を下りて駅に向かうだけと思って急な坂や階段を下っていくと登山靴を履いた何人もの人が登ってくる。誰もかれも汗だくでヘトヘトな感じ。こちらはどんどん下るだけなので楽チン。そうか、ここはハイキングコースになっていてその登山口から登ってきた人たちなんだ。たまたま私は古墳を見るために反対から山に入ったので登りは登山といっても車の通れる道を登って来たので、それほどヘトヘトにならずに済んだのです。これはラッキーしたぞ。逆のコース=本来の登山コースで来ていたら、山頂に着くまでに疲れ切っていたかもしれない。しかも登山靴なんて履いていないし。ただし、山を下りてからは駅まで結構な距離を歩くことになりました。

こんな急な階段が続く。階段だからまだ歩きやすいが延々と登り続けるのはきついだろうな。


この右手が散策路の入口。私にとっては出口でしたが。しかし、散策路とあるのは問題かも。どう考えても登山です。


途中、前述した白鳥塚古墳にも立ち寄りました。ここは前回に来たものの、もう一度見ておこうと思って時間をとりました。






高蔵寺駅を出て庄内川を渡り、東谷山白鳥古墳→尾張戸神社古墳→中社古墳→南社古墳→白鳥塚古墳と巡り、2時間半ほどでもとの高蔵寺駅に戻ってきました。ここで昼食をとって、午後からは清須市にある貝殻山貝塚資料館へ向かいました。


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