古代日本国成立の物語

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続・継体天皇の考察⑨(味真野伝承の誕生と展開)

2024年09月29日 | 継体天皇
701年に制定された大宝律令や757年の養老律令では、笞罪・杖罪・徒罪・流罪・死罪5種類の罪が定められ、これを「五罪」と呼んだ。「五刑」とも呼ばれる。死罪に次ぐ重い罪として流罪があり、これは都から遠く離れた配所に送られて一定期間の労役に服するものであった。罪の軽重により「近流(こんる」、「中流(ちゅうる)」、「遠流(おんる)」の3等級があり、その配流先は「近流」が越前と安芸、「中流」が信濃と伊予、「遠流」が佐渡・伊豆・隠岐・阿波・土佐・常陸の6か国であった。罪が重いほど都から遠いところに流されたわけである。

近流の配流先として越前があるが、味真野がその地だったという。天平12年(740年)頃、中臣宅守が下級女官の狭野弟上娘子(さのおとがみのおとめ)を娶った際、理由は不明ながら越前国への流罪を言い渡された。そのとき二人が交わした相聞歌63首が『万葉集』巻15に収録され、3770番の「味真野に宿れる君が帰り来む時の迎へをいつとか待たむ」から、宅守が越前の味真野に流されたことがわかる。継体天皇の潜龍とこの歌とは何の関係もないのであるが足羽敬明もこの歌を取り上げて「按スルニ此処ハ継体潜竜ノ時御座ノ地」とする。

なお、中臣宅守のほかに越前に配流された貴人として、平安時代後期の源顕清、鎌倉時代の一条実雅、南北朝時代の上杉重能、室町時代の畠山直宗などがいる。また、『花筐』を著した世阿弥はその晩年に中流の罰により佐渡に流されている。

越前市の味真野地区に味真野神社がある。この神社の変遷はややこしく、もともと式内社の須波阿須疑神社三座があったがその後に三社に分離し、本宮として当社が建てられた。明治時代になってから式内社の小山田神社などいくつかの神社を合祀、さらに味真野神社に改称して今日に至る。したがって継体天皇のほか、建御名方命、大己貴命、事代主命、天照大神などが祀られている。しかも鎮座地は継体天皇の宮跡とされており、さらに足利将軍家の子孫である鞍谷氏の御所跡でもある。また、社殿前には『花筐』発祥地の碑も立っていて、隣接する「万葉の里味真野苑」には主人公の大迹部皇子と照日前の像がある。実に盛りだくさんなスポットであるが、実はこの味真野苑は万葉の里というだけあって、継体天皇よりも先述の中臣宅守と狭野弟上娘子に因んで整備された公園で、ふたりの相聞歌の碑が各所に配置されている。その場所が『花筐』発祥の地というのは偶然ではないだろう。



「一乗学アカデミー 歩けお老爺の備忘録」というWebサイトの運営者(氏名不詳)は「世阿弥は、万葉集に詠われた貴種配流地味真野を舞台に、『日本書紀』の継体天皇を題材にして、謡曲『花筐』を新作した」とするが、同感である。一方、世阿弥が配流地の佐渡からの帰京時、越前を通過する際に味真野に立ち寄った可能性を指摘し、その経験をもとに『花筐』を著したとする説があるが、どうだろう。世阿弥が佐渡に流されたのは1434年、72歳のときで帰京したのが79歳、そして帰京の2年後に亡くなっている。帰路に味真野に立ち寄った可能性はあるとしても、帰京してから死去するまでの2年の間に『花筐』を著した可能性はそれほど高くはないと考える。

余談であるが、鞍谷御所の遺構と考えられる土塁や空堀が味真野神社境内をコの字に囲むように残っているが、足羽敬明はこれを「今ニ土階園囿ノ迹」と記す。

味真野伝承に関してここまでの材料をもとに想像を逞しくして以下のように考えたい。越前の人々にとって6世紀に継体天皇を輩出したことは大きな誇りであった。そして奈良時代に律令制度が始まると、とくに丹南の武生盆地に住む人々は、味真野に貴人が流されてくるという経験を何度も重ねることになる。この2つのことは時代を経る過程で越前の人々と都あるいは都に住む高貴な人々との心理的な距離を縮めていった。さらに室町時代になって能楽の第一人者である世阿弥がその味真野を舞台に継体天皇をモデルにした謡曲を著すと、この地の人々が歓喜したことは想像に難くない。流刑地であった地元が天皇の潜龍地として一躍脚光を浴びることになったのだ。『花筐』にあやかって、あちらこちらで今でいうヒット映画の聖地のような場所が誕生したのではないだろうか。神社の由緒や祭神が書き換えれられ、継体天皇ゆかりの旧跡なる場所があちこちに創造され、桜の樹にまで逸話が加えられた。実際は『花筐』にも登場しない想像の産物に過ぎないが、これがそのまま後世に伝わった。

江戸時代になると足羽神社の社家である足羽敬明が神社の権威を高めようと書いた『足羽社記略』に丹南地域のこれらの伝承を取り入れ、さらには継体天皇にあやかった同様の想像話を越前全土に展開した。『足羽社記略』に書かれる多くのことは根拠を見いだせない作り話であることはこれまで見てきたとおりである。また『足羽社記略』のほかにもこの頃に書かれた『帰鴈記』や『越前国名勝志』、あるいはその後に書かれた『越前国名蹟考』といった書物にも同様の話が収録されることになる。さらに明治時代に入ると越前国各郡の郡誌が編纂されることになるが、情報源として採用されたこれらの文献から引用されたり参照されたりして、想像の産物であった伝承があたかも史実であったかのように扱われることになった。このように想像するのである。


(つづく)


<参考文献等> 

「足羽社記略」 足羽敬明(享保17年 1732年)
「帰鴈記」 松波正有(享保2年 1717年)
「越前国名蹟考」 井上翼章・編(文化12年 1815年)
「越前国名勝志」 竹内芳契(元文3年 1738年)
「『福井県史』通史編1 原始・古代」 福井県・編
 (https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/tuushiindex.html)
「一乗学アカデミー 歩けお老爺の備忘録」
 (http://kazuo-ichijyogaku.cocolog-nifty.com/blog/)
「越前市Webサイト」
 (https://www.city.echizen.lg.jp/)

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