古代日本国成立の物語

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続・継体天皇の考察⑤(越前の式内社と継体天皇の関係・前編)  

2024年09月25日 | 継体天皇
『延喜式』には越前国の神社として114社126座が記載されている。いわゆる式内社である。『足羽社記略』には以下の通り「延喜式ニ云フ」として越前国の40社44座が記載されるほか、近江国の1社も記載される。名称は『延喜式』に記載の名称とし、『足羽社記略』記載の名称が異なる場合はカッコ内に記載。

『足羽社記略』に記載される越前国の式内社
 敦賀郡
  ・天鈴神社
  ・伊部磐座神社(伊部磐倉社)
  ・加比留神社(鹿蒜神社)
  ・丹生神社
  ・石田神社   
  ・信露貴彦神社(信露貴神社)
  ・剱神社
 丹生郡
  ・大山御板神社
  ・佐佐牟志神社四座
  ・麻氣神社
  ・兄子神社
  ・雨夜神社
 足羽郡
  ・直野神社(直埜神社)
  ・分神社(分ノ神社)
  ・足羽神社
  ・杉社郡神社(杉森郡神社)
  ・椎前神社
  ・山方神社(山方ノ神社)
 今立郡
  ・國中神社二座
  ・船津神社
  ・刀那神社
 大野郡
  ・國生大野神社
  ・坂門一事主神社(坂門一事神社)
  ・荒嶋神社
 坂井郡
  ・毛谷神社(毛屋神社)
  ・布久漏神社
  ・柴神社
  ・久米多神社(久米田神社)
  ・己乃須美神社 
  ・意加美神社
  ・國神神社
  ・御前神社
  ・多祢神社
  ・大溝神社
  ・保曾呂伎神社(保曽魯岐神社)
  ・三國神社
  ・高向神社
  ・絲前神社(糸﨑神社)
  ・大湊神社
  ・英多神社(英田神社)

この40社44座のうち、継体天皇をはじめとする天皇家あるいはその近親との関係で記載されるのが上記リストに青字で示した、敦賀郡の石田神社、丹生郡の兄子神社、雨夜神社、佐々牟志神社、麻氣神社、足羽郡の直野神社、分神社、今立郡の刀那神社、大野郡の國生大野神社、坂門一事主神社、荒嶋神社、坂井郡の毛谷神社、久米多神社、國神神社、絲前神社、大湊神社、英多神社の17社があり、それぞれの鎮座地をプロットしてみた。(合祀によって本来の鎮座地が不明な場合は合祀後の神社の鎮座地とするが、神社名は『延喜式』記載の名称を用いる。)



本稿ではまず前編として石田神社から分神社までの7社を確認してみる。

石田神社(敦賀郡)
敦賀市三島にある八幡神社がもともと石田神社と称されていたようだ。「垂仁紀ニ石田祖アリ」とある通り、たしかに『日本書紀』垂仁紀に「五十日足彦命、是子石田君之始祖也」と記される。さらに「継体記日田中皇子」「姓氏録坂田真人」とするものの、継体紀に登場するのは「田中皇子」ではなく「中皇子」であり、『新撰姓氏録』にも坂田真人は「継体皇子仲王之後也」と記される。冒頭で石田神社の鎮座地を「今云田中村」とし「又気比ノ庄朝日ノ市ト云フ」とも記すのは、丹生郡の式内社で現在の鯖江市石田上町に鎮座する石田神社との混同によるものか。丹生郡石田神社のすぐ近くには「田中」「気比庄」「朝日」の地名が残っている。果たしてこれらの混乱は単なる誤りなのか、それとも作為ある虚偽なのか。なお、福井県神社庁によれば敦賀郡石田神社について誉田別尊に加えて配祀される五十日足彦命が石田大神であるとする一方、丹生郡石田神社の祭神は、大日孁貴尊、鸕(茲鳥)草葺不合尊、誉田別尊、大己貴命、少彦名命の五柱とする。

兄子神社(丹生郡)
安閑天皇・宣化天皇の神霊が鎮座する小健山の麓にある神社としている。小健山は「一名日野山又ハ小嶽」とし「兄子神社 小健山ノ梺也」としているので、現在の越前市安古町にある兄子神社ではなく、論社とされる越前市中平吹町茶端にある日野神社とするのが妥当であろう。福井県神社庁によれば兄子神社の祭神は安閑・宣化ではなく穴穂尊(安康天皇)であり、一方の日野神社の祭神は継体・安閑・宣化となっている。由緒には、継体天皇が当国に潜龍し給いし時、二人の皇子(後の安閑天皇と宣化天皇)を伴って登山され、朝日を拝されてその鮮やかなことに感じ入られ、「此処こそ朝日を拝むべき山である」と仰せられたとの伝説がある、と記される。

雨夜神社(丹生郡)
「続日本紀云宝亀五年二月戊申叙越前國丹生郡雨夜神従五位下 是茨田連神社也 延喜式云雨夜神社」として従五位下を叙された雨夜神を祀る茨田連神社が式内社の雨夜神社であるとする。また「古事記云茨田連ハ神武ノ子 日子八井命茨田連ノ祖ナリ」として天皇家との関係を説いている。天正11年(1583年)に明神大社である越前市大虫町の大虫神社に合祀された。福井県神社庁によれば、その大虫神社の祭神は天津日高彦火々出見尊、鸕草葺不合尊など天孫族系の六柱である。また、丹生郡越前町天王の雨夜神社が論社とされているが、こちらの祭神は雨夜神・保食神となっていて茨田連や日子八井命との関係は確認できない。

佐々牟志神社(丹生郡)
「旧事記云三尾君祖ハ垂仁ノ御子磐撞別命」「堅拭ノ女倭姫皇女此所此四人ヲ祭ル」とする。倭姫は三尾君堅楲の娘である。福井県神社庁によれば祭神は鵜茅草葺不合尊・神倭磐余彦尊・ 椎根津彦尊・武位起尊の四柱であるが、倭姫皇女がこの四座を祭っていたのはどうしてだろうか。また、鎮座地の佐々生村の字について「生ノ字モトノ読ハムシ也 今ハフト云」として、「生」はもともと「ムシ」と読んでいたが今は「フ」と言うとするが果たしてどうか。

麻氣神社(丹生郡)
麻氣神社は継体天皇の伯父、麻和加介(まわかけ)の旧跡とする牧谷(現在の南条郡南越前町牧谷)の項に記載され、「其社ハ宮谷村ニアリ」とするが、宮谷村は牧谷から山を越えた反対側、味真野地区にある。福井県神社庁によると現在の祭神は饒速日命となっている。麻氣神社はほかに丹生郡越前町真木の麻氣神社、越前市牧町の酒列神社が論社とされるが、いずれも宮谷村からはかなり離れている。

直野神社(足羽郡)
『足羽社記略』には「直埜神社」と記され「是祭三尾君也」としている。継体妃の倭媛が三尾君堅楲の娘である。福井県神社庁によれば現在は大己貴神社に合祀されているために元の祭神が不明である。その大己貴神社は現在の福井市南居町に鎮座する。

分神社(足羽郡)
足羽東郷脇村の項に説明がある。「脇」「分」「別」の三文字が通じるとして、脇村にあることから「分ノ神社是ナランカ」とする。同様に「継体帝ノ伯父伊被知和希・伊波己里和希等の御代ナランカ」ともする。要するに、脇=分=別(和希)を根拠にして継体天皇と関連づけているのである。福井県神社庁によれば神社の所在地は福井市脇三ケ町で、祭神は伊波知和希命であるので、その点においは整合するが果たしてどうだろうか。さらに「此二神ノ父意富々等王ハ延喜式ニ近江伊香郡意富々良ノ神社也」として、意富々等王と近江国式内社である意富布良神社をつなげている。滋賀県神社庁サイトによると、長浜市木之本町にあって祭神は建速須佐之男命、大穴牟遅命、猿田彦大神など五柱で、由緒に継体天皇との関連を見いだすことはできない。

以上、まず前編として『足羽社記略』において天皇家、とくに継体一族との関係性に言及している式内社7社について内容を確認した。錯誤や語呂合わせの印象が強く、実態が確認できない場合も含めて、積極的に肯定することができない。


(つづく)


<参考文献等>

「足羽社記略」 足羽敬明(享保17年 1732年)
「福井県神社庁Webサイト」
 (https://www.jinja-fukui.jp/
南越書屋Webサイト」 清水英明氏
 (https://nan-etsu.com/)
玄松子の記憶」 
 (https://genbu.net/)





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