味真野潜龍時の伝承についてその信憑性をもう少し具体的に考えてみたい。そもそも男大迹王は味真野に潜龍していたのか、味真野伝承は『足羽社記略』から生まれたのか、あるいは『花筐』に根拠を見出せるのか。以下にいくつかの伝承をあげて考える。
五皇神社
神社が鎮座する越前市文室(ふむろ)町は、味真野地区から谷あいを浅水川に沿って入っていった細長い谷の奥まった一帯である。『今立郡誌』に男大迹王が味真野に潜龍していたときにここに学問所を設けたことが記され、「文室」の地名はこのことに由来するとされる。果たして本当にこんな山奥に学問所を設けたのだろうか。また、もともと文室地区の堂ノ谷に鎮座していたが明治時代に現在地に遷されたという。男大迹王がまだ天皇になるとわかっていない潜龍の時に、あたかも自らが応神五世孫と『記紀』に書かれることが分っていたかのように応神天皇まで遡った先祖5人を祀ったことは俄かには信じがたい。また、この神社は『足羽社記略』に記載がない。
岡太神社
岡太神社は越前市粟田部町にあり、今立郡十四座中で最も古い式内社とされる。『今立郡誌』によると雄略天皇のとき、このあたりが周囲の山々からの激流によって沼のように浸かってしまうことを思慮した男大迹王が三大川を開いて水が流れるようにしたことから、建角身神、大己貴命、国狭槌尊の三柱を勧請したとある。これが事実とするなら少なくとも三大河川の近くに三柱を祀ると思うのだが、どうだろう。周囲の山々というのも岡太神社の周囲ではなく、越前平野の周囲と言う意味だろうから、その点からも鎮座地と由緒のギャップは否めない。なお、この神社も『足羽社記略』に記載されない。岡太神社境内には「継体天皇潜龍之聖迹」の碑が建つ。
薄墨桜
男大迹王が上京する際、前述の岡太神社の桜を形見にするよう言い残したが、上京後は花の色が次第に薄黒くなり、いつの頃ともなく薄墨桜と呼ばれるようになったという。そもそも桜の品種として薄墨というものがあるものの、この岡太神社にある薄墨桜はエドヒガンという品種らしい。鯖江市の上河内の山中にも男大迹王が植えたと伝わる薄墨桜があり、現在のものはその孫桜といわれるが、これもエドヒガンである。継体天皇即位からすでに1500年以上が経過するが、エドヒガンはいったい樹齢何年くらいまで生きるのだろうか。それにしても薄墨桜の伝承はあまりに情緒的すぎて、いかにも後世の創作という印象が拭えない。薄墨桜は『足羽社記略』のみならず『花筐』にも登場しないにもかかわらず『今立郡誌』には「男大迹皇子に由緒ある薄墨桜」として紹介されている。
刀那神社
男大迹王が味真野に潜龍していたとき、当地の守りとして刀那坂の峠に木戸をもうけ、守護神として「建御雷之男命」を祀るために建てたのが刀那神社の始まりとする。「継体一族の旧跡」で書いたとおり、刀那神社の論社は上戸口町、尾花町、寺池町の3カ所にあるが、鯖江市が上戸口町の刀那神社を式内社に比定しているのはこの伝承によるのかもしれない。『今立郡誌』や『越前国名蹟考』にはこの伝承は記載されず、『足羽社記略』には「其の社を尾花の森と言う」「未だ其の証跡を見ず」とあるが伝承と一致しない。
勾の里
越前市上真柄町は継体天皇の第一皇子である勾大兄皇子(第27代安閑天皇)生誕の地とされ、男大迹王が月見の時に腰を掛けた月見の石が残されている。『足羽社記略』には「勾」が訛って「真柄」になったとあり、皇子が安閑天皇として即位した際、郷里を慕ってその宮を「勾ノ金橋宮」と呼んだとも記される。
檜尾谷町
継体天皇の第二皇子、檜隈皇子(第28代宣化天皇)の生誕地といわれ、昔は「檜王谷」と言われていたが「王」の字を使うことが畏れ多いとして「尾」の字になったとか。皇子が愛でた隈石という奇石が近くの個人宅にある。『足羽社記略』は坂井郡の檜山隈坂(檜山村と隈坂村)が檜隈皇子の御名代とし、安閑天皇同様に大和の宮を故郷の名をとって「檜隈の廬入野宮」と名付けたとある。『越前国名蹟考』の坂井郡の項には熊坂村と檜山村が記載され、坂井郡と言う意味でこちらのほうが妥当性があると考えるものの、『坂井郡誌』によれば「天皇などの存すべきところではあらざる辺土の山中」らしい。
ふたりの皇子の生誕地については『今立郡誌』に詳しく紹介されているが、『日本書紀』をもとに考えると、安閑天皇は継体が16歳のときに誕生、宣化天皇は17歳のときとなる。継体天皇は幼少のときに越前の坂井郡にあった母の実家に移ってきたのだが、16〜17歳という青年期にすでに尾張連草香の娘である目子媛を娶り、坂井郡から遠く離れた味真野に暮らしていたとは到底考えられない。まだまだ三尾氏や江沼氏のバックアップが必要であっただろう。
皇子カ池
花筐公園の一角にある皇子ケ池は勾大兄皇子と桧隈皇子がこの地で誕生した時に産湯に使った池と伝えられ、『今立郡誌』などに記載があるが、前述の通り、両皇子が味真野地区で誕生したという伝承そのものを疑う立場から、この話も同様である。
この皇子カ池や岡太神社の所在地は越前市粟田部町である。『足羽社記略』において「御駕庄」の項に「男大跡部 今云粟田部」とある。また『越前国名蹟考』における「味真野」の説明では「昔は全て此の辺り村里田野、皆味真野にして大跡部皇子の皇居なり」とある。「男大跡部」「大迹部」はいずれも継体天皇である男大迹王のことと思われるが、『花筐』に登場した大迹部皇子の名が使われている。「おおあとべ」が「あわたべ」に変化したということだろうが、ここに味真野伝承における『花筐』の影響を垣間見ることができる。
これらのほかにも味真野地区においては大小さまざまな伝承があるようだが、少なくともここに挙げた疑問を解消する材料が見当たらない以上、ほとんどすべてが創作と言ってもよいのではないだろうか。そしてそれは『足羽社記略』によるものではなく、むしろ『花筐』に由来する可能性があることもわかった。『足羽社記略』は1732年に著された書で、『花筐』は室町時代に遡る。次にさらに時代を遡った『万葉集』から探ってみる。
(つづく)
<参考文献等>
「足羽社記略」 足羽敬明(享保17年 1732年)
「越前国名蹟考」 井上翼章・編(文化12年 1815年)
「今立郡誌」 福井県今立郡誌編纂部・編(明治42年 1909年)
「the能ドットコム」
(https://www.the-noh.com/jp/)
五皇神社
神社が鎮座する越前市文室(ふむろ)町は、味真野地区から谷あいを浅水川に沿って入っていった細長い谷の奥まった一帯である。『今立郡誌』に男大迹王が味真野に潜龍していたときにここに学問所を設けたことが記され、「文室」の地名はこのことに由来するとされる。果たして本当にこんな山奥に学問所を設けたのだろうか。また、もともと文室地区の堂ノ谷に鎮座していたが明治時代に現在地に遷されたという。男大迹王がまだ天皇になるとわかっていない潜龍の時に、あたかも自らが応神五世孫と『記紀』に書かれることが分っていたかのように応神天皇まで遡った先祖5人を祀ったことは俄かには信じがたい。また、この神社は『足羽社記略』に記載がない。
岡太神社
岡太神社は越前市粟田部町にあり、今立郡十四座中で最も古い式内社とされる。『今立郡誌』によると雄略天皇のとき、このあたりが周囲の山々からの激流によって沼のように浸かってしまうことを思慮した男大迹王が三大川を開いて水が流れるようにしたことから、建角身神、大己貴命、国狭槌尊の三柱を勧請したとある。これが事実とするなら少なくとも三大河川の近くに三柱を祀ると思うのだが、どうだろう。周囲の山々というのも岡太神社の周囲ではなく、越前平野の周囲と言う意味だろうから、その点からも鎮座地と由緒のギャップは否めない。なお、この神社も『足羽社記略』に記載されない。岡太神社境内には「継体天皇潜龍之聖迹」の碑が建つ。
薄墨桜
男大迹王が上京する際、前述の岡太神社の桜を形見にするよう言い残したが、上京後は花の色が次第に薄黒くなり、いつの頃ともなく薄墨桜と呼ばれるようになったという。そもそも桜の品種として薄墨というものがあるものの、この岡太神社にある薄墨桜はエドヒガンという品種らしい。鯖江市の上河内の山中にも男大迹王が植えたと伝わる薄墨桜があり、現在のものはその孫桜といわれるが、これもエドヒガンである。継体天皇即位からすでに1500年以上が経過するが、エドヒガンはいったい樹齢何年くらいまで生きるのだろうか。それにしても薄墨桜の伝承はあまりに情緒的すぎて、いかにも後世の創作という印象が拭えない。薄墨桜は『足羽社記略』のみならず『花筐』にも登場しないにもかかわらず『今立郡誌』には「男大迹皇子に由緒ある薄墨桜」として紹介されている。
刀那神社
男大迹王が味真野に潜龍していたとき、当地の守りとして刀那坂の峠に木戸をもうけ、守護神として「建御雷之男命」を祀るために建てたのが刀那神社の始まりとする。「継体一族の旧跡」で書いたとおり、刀那神社の論社は上戸口町、尾花町、寺池町の3カ所にあるが、鯖江市が上戸口町の刀那神社を式内社に比定しているのはこの伝承によるのかもしれない。『今立郡誌』や『越前国名蹟考』にはこの伝承は記載されず、『足羽社記略』には「其の社を尾花の森と言う」「未だ其の証跡を見ず」とあるが伝承と一致しない。
勾の里
越前市上真柄町は継体天皇の第一皇子である勾大兄皇子(第27代安閑天皇)生誕の地とされ、男大迹王が月見の時に腰を掛けた月見の石が残されている。『足羽社記略』には「勾」が訛って「真柄」になったとあり、皇子が安閑天皇として即位した際、郷里を慕ってその宮を「勾ノ金橋宮」と呼んだとも記される。
檜尾谷町
継体天皇の第二皇子、檜隈皇子(第28代宣化天皇)の生誕地といわれ、昔は「檜王谷」と言われていたが「王」の字を使うことが畏れ多いとして「尾」の字になったとか。皇子が愛でた隈石という奇石が近くの個人宅にある。『足羽社記略』は坂井郡の檜山隈坂(檜山村と隈坂村)が檜隈皇子の御名代とし、安閑天皇同様に大和の宮を故郷の名をとって「檜隈の廬入野宮」と名付けたとある。『越前国名蹟考』の坂井郡の項には熊坂村と檜山村が記載され、坂井郡と言う意味でこちらのほうが妥当性があると考えるものの、『坂井郡誌』によれば「天皇などの存すべきところではあらざる辺土の山中」らしい。
ふたりの皇子の生誕地については『今立郡誌』に詳しく紹介されているが、『日本書紀』をもとに考えると、安閑天皇は継体が16歳のときに誕生、宣化天皇は17歳のときとなる。継体天皇は幼少のときに越前の坂井郡にあった母の実家に移ってきたのだが、16〜17歳という青年期にすでに尾張連草香の娘である目子媛を娶り、坂井郡から遠く離れた味真野に暮らしていたとは到底考えられない。まだまだ三尾氏や江沼氏のバックアップが必要であっただろう。
皇子カ池
花筐公園の一角にある皇子ケ池は勾大兄皇子と桧隈皇子がこの地で誕生した時に産湯に使った池と伝えられ、『今立郡誌』などに記載があるが、前述の通り、両皇子が味真野地区で誕生したという伝承そのものを疑う立場から、この話も同様である。
この皇子カ池や岡太神社の所在地は越前市粟田部町である。『足羽社記略』において「御駕庄」の項に「男大跡部 今云粟田部」とある。また『越前国名蹟考』における「味真野」の説明では「昔は全て此の辺り村里田野、皆味真野にして大跡部皇子の皇居なり」とある。「男大跡部」「大迹部」はいずれも継体天皇である男大迹王のことと思われるが、『花筐』に登場した大迹部皇子の名が使われている。「おおあとべ」が「あわたべ」に変化したということだろうが、ここに味真野伝承における『花筐』の影響を垣間見ることができる。
これらのほかにも味真野地区においては大小さまざまな伝承があるようだが、少なくともここに挙げた疑問を解消する材料が見当たらない以上、ほとんどすべてが創作と言ってもよいのではないだろうか。そしてそれは『足羽社記略』によるものではなく、むしろ『花筐』に由来する可能性があることもわかった。『足羽社記略』は1732年に著された書で、『花筐』は室町時代に遡る。次にさらに時代を遡った『万葉集』から探ってみる。
(つづく)
<参考文献等>
「足羽社記略」 足羽敬明(享保17年 1732年)
「越前国名蹟考」 井上翼章・編(文化12年 1815年)
「今立郡誌」 福井県今立郡誌編纂部・編(明治42年 1909年)
「the能ドットコム」
(https://www.the-noh.com/jp/)
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