さて、味真野伝承の始まりとその後の展開を考えてみたが、次に継体天皇が三大河川である九頭龍川・日野川・足羽川を開き、越前平野を開拓したという伝承について考えてみたい。取り上げる文献は古い順に『越前地理指南』(1685年)、『足羽社記略』(1732年)、『越前国名勝志』(1738年)、『越前国名蹟考』(1815年)、『今立郡誌』(1909年)など各郡の郡誌とする。
まず、今回対象とした中で最も古い文献である『越前地理指南』は江戸時代における越前・若狭の地誌を集成した『越前若狭地誌叢書』(1973年発刊)に採録されたものを参照する。この『越前地理指南』は『越前国絵図記』とも呼ばれる。その坂井郡三國浦の項に「此湊の所を掘落すと等ク銚子の口より水を移すことくに漲り落るにより水戸を銚子口と云」とある。
次にあらためて『足羽社記略』であるが、「継体帝水ヲ納メ三大川ヲ定メ玉フ」「継体帝水ヲ治メ三大川ヲ開キテ郡郷定リナル」という簡単な記述が2カ所にあるのみだ。
次に、元文3年(1738年)の『越前国名勝志』を見てみる。この書には「一書の古記」と注釈をつけて、明らかに『足羽社記略』からの引用や参照と思われる記述が随所に見られるのだが、不思議なことにこの治水事業に関してはその注釈がつかない。今立郡の項に「開三大河治水郡郷定メ成ル」、足羽郡の項には「三大河ヲサダメ水徳神ヲ祭リ玉フ」「三大河ヲ開キ玉フ」とあり、さらに𠮷田郡の項にも「三大河ヲヒラキ玉フ」と続き、坂井郡山鹿村の項に「大河ヲヒラキ水ヲオサメ郡郷ヲサダメラルルノトキ三國ミナトノ山ヲキリヒラキ玉ヘハ水悉クウミヘ落テ湖水スナハチ陸地トナル」と記される。
前述の3つの文献をもとに整理すると、「三大河を開いた」が基本形で、その基本形にオマケとして「郡郷を定めた」や「三國の湊を開いた」が付加されて2点セットあるいは3点セットになるケース、また、基本形がなくオマケのみのケースもあるということが言える。
次に、文化12年(1815年)に書かれたとされる『越前国名蹟考』を確認する。坂井郡の巻の鳴鹿山鹿村の項に「三大河を開き水を治め郡郷定めなるの時三國の湊の山を切開き玉へば水悉く海へ落て湖水則陸地と成る」とあって『越前国名勝志』山鹿村の項を継承した3点セットである。また、三國浦の項に「此湊の所を掘り落すとひとしく銚子の口より水をうつすか如くに漲り落るにより水戸口を銚子口といへり」と記載され、これは『越前地理指南』からの引用であり、基本形を欠くオマケだけのケースである。さらに𠮷田郡舟橋村の項で基本形の「三大河を開き玉ふ」が『越前国名勝志』から引用される。
最後に明治時代以降に書かれた各郡の郡誌をあたってみたところ、とくに『坂井郡誌』には次のように多数の記載が見られた。九頭龍川の治水沿革として「三國の港口を開墾し九頭龍日野足羽の三大川を疎通し諸水を導て之を北海に注ぎ以て下民の憂苦を除き併せて後世漕運の利を興されたりと傳ふ是れ蓋し本川治水の嚆矢とす」が3点セット、三國の地名由来としての「三國は水國の義なるべし(中略)此地を堀切り港となし玉ひて後いつとなく三國の港と稱ふるに至れり」はオマケのみ、三國港の起源譚としての「此湊の處を掘り落すと等しく銚子の口より水を移すが如くに水が漲り落るにより水戸口を銚子口と云へり」は『越前国名蹟考』三國浦の項をそのまま継承したオマケだけのケース。三國あるいは三國港の説明で治水事業そのものに触れないのは、三國の人々にとっては開港と治水は別物と考えているのだろうか。
さらに三國神社の由緒として「治水の件は多年の思召立にて寶算四十九年の御時開港の御竣功被為在し」、神明神社の由緒として「國内治水の事業にはいたく御叡慮あらせられ多年の思召を以て日野足羽九頭龍の三大川を開墾し諸方の濫水を當地の西北銚子口へ疎通せしめられたり」、横山神社の由緒にも「郡民をして西の方峡門を穿ち盤石を截ち水を大海に注かしめしかば茫々たる曠野を見るに至れり」とあり、最後に坂井郡の歴史の中で「此の國に在すること五十有餘年東奔西走よく本國の水理を察し遂に雍塞せる湖口を切り開き國内に氾濫せる河水を鍾めて海に注がしむ今の三國の港これなり」として継体天皇に触れるが、これらはいずれも基本形のみ、もしくは2点セットである。
ほかに『今立郡誌』では「汜水を治め給ひし(汜水とは、川の流れが本流から支流に分かれて再び本流に戻ること‥‥筆者付記)」、「三大川を治め給ひし」、「汜水を治め、三大川を開き給ふ」、『足羽郡誌』では「三大川を改修し三國に至りて水門を開き給ひしに、作業甚だ困難なり」、『𠮷田郡誌』では「彼の治水の大恩澤に霑ひしも我郡は定めて多かりなるべし」という具合に記載され、基本形のみ、あるいは2点セットをシンプルに伝える。
各郡の郡誌においては『坂井郡誌』だけが継体天皇による治水事業や三國開港を豊富な文字数で伝えるが、やはりこの伝承のお膝元であり、古代より度重なる水害に苦しめられてきた歴史の裏返しなのだろうか。大袈裟と言っても過言ではない言い回しである。『足羽社記略』においてシンプルな表現だった継体天皇の治水事業の紹介が、新たな文献による引用や参照を重ねる過程で、重厚な修飾が加わっていったと言えるだろう。当初は『足羽社記略』の表現がシンプルすぎるが故に、これが伝承の始まりではなく、さらに古い文献に詳しく書かれているはずと考えたのだが、前述の通りシンプルだからこそ伝承の始まりだったのかもしれない、と考えるようになった。実際のところ『足羽社記略』よりも古い『越前地理指南』には三國開港のことが書かれるものの、治水事業のことが書かれていない。そして今のところ、治水事業が書かれた『足羽社記略』よりも古い文献を見つけることができていない。つまり『足羽社記略』が治水伝承の始まりであった可能性が高いということである。
伝承の始まりが『足羽社記略』だっとして、果たしてこの治水事業は本当に継体天皇(男大迹王)によるものかどうか、あるいは継体即位前の5世紀後葉に本当に行われたのかどうか、次にそれを考えてみたい。
越前国各郡と敦賀郡各郷の位置を示す地図(「織田文化歴史館」Webサイト)
(つづく)
<参考文献等>
「足羽社記略」 足羽敬明(享保17年 1732年)
「越前地理指南」 福井藩・編(貞享2年 1685年)
「越前国名蹟考」 井上翼章・編(文化12年 1815年)
「越前国名勝志」 竹内芳契(元文3年 1738年)
「今立郡誌」 福井県今立郡誌編纂部・編(明治42年 1909年)
「𠮷田郡誌」 福井県𠮷田郡役所・編(明治42年 1909年)
「坂井郡誌」 福井県坂井郡教育会・編(大正元年 1912年)
「足羽郡誌」 福井県足羽郡教育会・編(昭和18年 1943年)
まず、今回対象とした中で最も古い文献である『越前地理指南』は江戸時代における越前・若狭の地誌を集成した『越前若狭地誌叢書』(1973年発刊)に採録されたものを参照する。この『越前地理指南』は『越前国絵図記』とも呼ばれる。その坂井郡三國浦の項に「此湊の所を掘落すと等ク銚子の口より水を移すことくに漲り落るにより水戸を銚子口と云」とある。
次にあらためて『足羽社記略』であるが、「継体帝水ヲ納メ三大川ヲ定メ玉フ」「継体帝水ヲ治メ三大川ヲ開キテ郡郷定リナル」という簡単な記述が2カ所にあるのみだ。
次に、元文3年(1738年)の『越前国名勝志』を見てみる。この書には「一書の古記」と注釈をつけて、明らかに『足羽社記略』からの引用や参照と思われる記述が随所に見られるのだが、不思議なことにこの治水事業に関してはその注釈がつかない。今立郡の項に「開三大河治水郡郷定メ成ル」、足羽郡の項には「三大河ヲサダメ水徳神ヲ祭リ玉フ」「三大河ヲ開キ玉フ」とあり、さらに𠮷田郡の項にも「三大河ヲヒラキ玉フ」と続き、坂井郡山鹿村の項に「大河ヲヒラキ水ヲオサメ郡郷ヲサダメラルルノトキ三國ミナトノ山ヲキリヒラキ玉ヘハ水悉クウミヘ落テ湖水スナハチ陸地トナル」と記される。
前述の3つの文献をもとに整理すると、「三大河を開いた」が基本形で、その基本形にオマケとして「郡郷を定めた」や「三國の湊を開いた」が付加されて2点セットあるいは3点セットになるケース、また、基本形がなくオマケのみのケースもあるということが言える。
次に、文化12年(1815年)に書かれたとされる『越前国名蹟考』を確認する。坂井郡の巻の鳴鹿山鹿村の項に「三大河を開き水を治め郡郷定めなるの時三國の湊の山を切開き玉へば水悉く海へ落て湖水則陸地と成る」とあって『越前国名勝志』山鹿村の項を継承した3点セットである。また、三國浦の項に「此湊の所を掘り落すとひとしく銚子の口より水をうつすか如くに漲り落るにより水戸口を銚子口といへり」と記載され、これは『越前地理指南』からの引用であり、基本形を欠くオマケだけのケースである。さらに𠮷田郡舟橋村の項で基本形の「三大河を開き玉ふ」が『越前国名勝志』から引用される。
最後に明治時代以降に書かれた各郡の郡誌をあたってみたところ、とくに『坂井郡誌』には次のように多数の記載が見られた。九頭龍川の治水沿革として「三國の港口を開墾し九頭龍日野足羽の三大川を疎通し諸水を導て之を北海に注ぎ以て下民の憂苦を除き併せて後世漕運の利を興されたりと傳ふ是れ蓋し本川治水の嚆矢とす」が3点セット、三國の地名由来としての「三國は水國の義なるべし(中略)此地を堀切り港となし玉ひて後いつとなく三國の港と稱ふるに至れり」はオマケのみ、三國港の起源譚としての「此湊の處を掘り落すと等しく銚子の口より水を移すが如くに水が漲り落るにより水戸口を銚子口と云へり」は『越前国名蹟考』三國浦の項をそのまま継承したオマケだけのケース。三國あるいは三國港の説明で治水事業そのものに触れないのは、三國の人々にとっては開港と治水は別物と考えているのだろうか。
さらに三國神社の由緒として「治水の件は多年の思召立にて寶算四十九年の御時開港の御竣功被為在し」、神明神社の由緒として「國内治水の事業にはいたく御叡慮あらせられ多年の思召を以て日野足羽九頭龍の三大川を開墾し諸方の濫水を當地の西北銚子口へ疎通せしめられたり」、横山神社の由緒にも「郡民をして西の方峡門を穿ち盤石を截ち水を大海に注かしめしかば茫々たる曠野を見るに至れり」とあり、最後に坂井郡の歴史の中で「此の國に在すること五十有餘年東奔西走よく本國の水理を察し遂に雍塞せる湖口を切り開き國内に氾濫せる河水を鍾めて海に注がしむ今の三國の港これなり」として継体天皇に触れるが、これらはいずれも基本形のみ、もしくは2点セットである。
ほかに『今立郡誌』では「汜水を治め給ひし(汜水とは、川の流れが本流から支流に分かれて再び本流に戻ること‥‥筆者付記)」、「三大川を治め給ひし」、「汜水を治め、三大川を開き給ふ」、『足羽郡誌』では「三大川を改修し三國に至りて水門を開き給ひしに、作業甚だ困難なり」、『𠮷田郡誌』では「彼の治水の大恩澤に霑ひしも我郡は定めて多かりなるべし」という具合に記載され、基本形のみ、あるいは2点セットをシンプルに伝える。
各郡の郡誌においては『坂井郡誌』だけが継体天皇による治水事業や三國開港を豊富な文字数で伝えるが、やはりこの伝承のお膝元であり、古代より度重なる水害に苦しめられてきた歴史の裏返しなのだろうか。大袈裟と言っても過言ではない言い回しである。『足羽社記略』においてシンプルな表現だった継体天皇の治水事業の紹介が、新たな文献による引用や参照を重ねる過程で、重厚な修飾が加わっていったと言えるだろう。当初は『足羽社記略』の表現がシンプルすぎるが故に、これが伝承の始まりではなく、さらに古い文献に詳しく書かれているはずと考えたのだが、前述の通りシンプルだからこそ伝承の始まりだったのかもしれない、と考えるようになった。実際のところ『足羽社記略』よりも古い『越前地理指南』には三國開港のことが書かれるものの、治水事業のことが書かれていない。そして今のところ、治水事業が書かれた『足羽社記略』よりも古い文献を見つけることができていない。つまり『足羽社記略』が治水伝承の始まりであった可能性が高いということである。
伝承の始まりが『足羽社記略』だっとして、果たしてこの治水事業は本当に継体天皇(男大迹王)によるものかどうか、あるいは継体即位前の5世紀後葉に本当に行われたのかどうか、次にそれを考えてみたい。
越前国各郡と敦賀郡各郷の位置を示す地図(「織田文化歴史館」Webサイト)
(つづく)
<参考文献等>
「足羽社記略」 足羽敬明(享保17年 1732年)
「越前地理指南」 福井藩・編(貞享2年 1685年)
「越前国名蹟考」 井上翼章・編(文化12年 1815年)
「越前国名勝志」 竹内芳契(元文3年 1738年)
「今立郡誌」 福井県今立郡誌編纂部・編(明治42年 1909年)
「𠮷田郡誌」 福井県𠮷田郡役所・編(明治42年 1909年)
「坂井郡誌」 福井県坂井郡教育会・編(大正元年 1912年)
「足羽郡誌」 福井県足羽郡教育会・編(昭和18年 1943年)
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