一昨年来、伊勢神宮(皇大神宮)の成立についていろいろと勉強して、様々に考えを巡らせた結果を自身の論考として本(Kindle版)にしました。
また、つい先日、2月半ばに古代史仲間とともに飛鳥を訪ねました。このときに訪ねた場所や感じたり考えたことはこれまでに順次投稿してきました。
飛鳥ではいろいろと感じるところがあったのですが、石舞台や都塚古墳、飛鳥寺など、とりわけ蘇我氏に思いを馳せる場面が多く、当時の最大氏族であり天皇家を支えていた物部氏を倒してまでして仏教を取り入れ、その後の日本の方向を決定づけたといっても過言ではないその影響力を改めて認識した次第です。
おそらくそんな流れがあったからでしょう、今朝がた、突然に閃いたのです。創建以来、明治維新に至るまで持統天皇を除く歴代天皇が伊勢神宮(皇大神宮=内宮)を参拝してこなかった理由が分かったのです。皇祖神を祀る場所が大和ではなく、大和から遠く離れた場所だったことも、そもそもなぜ皇祖神を祀ることになったのかも。
すべては蘇我氏の策略です。蘇我氏は物部氏を倒したあと、仏教政策を推し進めることによって自身の勢力を拡大して盤石なものとするため、天皇家によって続けられてきた神祇の中心地を大和から伊勢に遷したのです。天皇家の力を削ぎ、守旧派豪族の意識を大和の外に向かわせるため、極論すれば大和から遠ければどこでもよかったのでしょうが、天皇家や他の豪族がもっとも納得できる場所として太陽信仰の聖地、伊勢を選んだのです。そしてその場所で皇祖神を祀ることにしました。伊勢に皇祖神が祀られているとあっては天皇家も豪族連中も伊勢を祭祀の中心地と考えざるを得ません。もしかすると、それまでは皇祖神という概念がなく、この時に初めて皇祖神が定められたのかもわかりません。しかしそれは天照大神ではなく高皇産霊尊でした。(皇大神宮成立の経緯や蘇我氏の関与などは前掲の「天照大神と伊勢神宮」に書いたので興味ある方は是非ご覧ください。)
さらにそれと同時に、我が国初の本格仏教寺院である飛鳥寺を中心にして様々な仏教政策を進めました。しかし、この蘇我氏の独善的な動きを天皇家や反蘇我勢力は苦々しく思っていたことでしょう。それが積もり積もって噴出したのが中大兄皇子と中臣鎌足による乙巳の変です。それを証拠に中大兄皇子は即位して天智天皇となっても伊勢神宮に参ることはありませんでした。さらには次の天武天皇でさえ伊勢神宮を参拝していません。しかし、次の持統天皇になると逆に突然に、しかも重臣の猛反対を押し切って伊勢行幸を敢行しています。
持統天皇は父親が天皇ではない孫の文武天皇即位の正当性を担保するため、自身を擬した天照大神という神を創出し、高皇産霊尊に代わる皇祖神として『日本書紀』に登場させ、さらに伊勢の内宮で祀ることにしたのです。その後も伊勢での皇祖神祭祀は斎宮を中心に脈々と続けられますが、蘇我氏の行った仏教政策の影響は大きく、天皇家はどんどん仏教に傾倒していくことになり、ついには平安時代の神仏習合、本地垂迹説によって神々は仏の下に位置づけられることになりました。こうなると大日如来を崇めることはあっても、天照大神を堂々と祀ることはできません。結果、明治になるまでに伊勢神宮を参拝したのは持統天皇だけ、ということになってしまいました。ただし、持統天皇も伊勢に行幸した記録はあるものの、皇大神宮を参拝したとは書かれていません。
飛鳥時代はまさに日本の行く末を左右した時代であり、その意味で明治維新に匹敵します。今回の飛鳥訪問では、その激動の時代を一時的にでも制した蘇我氏の凄みを感じずにはおれませんでした。
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↓↓↓↓↓↓↓ 電子出版しました!
また、つい先日、2月半ばに古代史仲間とともに飛鳥を訪ねました。このときに訪ねた場所や感じたり考えたことはこれまでに順次投稿してきました。
飛鳥ではいろいろと感じるところがあったのですが、石舞台や都塚古墳、飛鳥寺など、とりわけ蘇我氏に思いを馳せる場面が多く、当時の最大氏族であり天皇家を支えていた物部氏を倒してまでして仏教を取り入れ、その後の日本の方向を決定づけたといっても過言ではないその影響力を改めて認識した次第です。
おそらくそんな流れがあったからでしょう、今朝がた、突然に閃いたのです。創建以来、明治維新に至るまで持統天皇を除く歴代天皇が伊勢神宮(皇大神宮=内宮)を参拝してこなかった理由が分かったのです。皇祖神を祀る場所が大和ではなく、大和から遠く離れた場所だったことも、そもそもなぜ皇祖神を祀ることになったのかも。
すべては蘇我氏の策略です。蘇我氏は物部氏を倒したあと、仏教政策を推し進めることによって自身の勢力を拡大して盤石なものとするため、天皇家によって続けられてきた神祇の中心地を大和から伊勢に遷したのです。天皇家の力を削ぎ、守旧派豪族の意識を大和の外に向かわせるため、極論すれば大和から遠ければどこでもよかったのでしょうが、天皇家や他の豪族がもっとも納得できる場所として太陽信仰の聖地、伊勢を選んだのです。そしてその場所で皇祖神を祀ることにしました。伊勢に皇祖神が祀られているとあっては天皇家も豪族連中も伊勢を祭祀の中心地と考えざるを得ません。もしかすると、それまでは皇祖神という概念がなく、この時に初めて皇祖神が定められたのかもわかりません。しかしそれは天照大神ではなく高皇産霊尊でした。(皇大神宮成立の経緯や蘇我氏の関与などは前掲の「天照大神と伊勢神宮」に書いたので興味ある方は是非ご覧ください。)
さらにそれと同時に、我が国初の本格仏教寺院である飛鳥寺を中心にして様々な仏教政策を進めました。しかし、この蘇我氏の独善的な動きを天皇家や反蘇我勢力は苦々しく思っていたことでしょう。それが積もり積もって噴出したのが中大兄皇子と中臣鎌足による乙巳の変です。それを証拠に中大兄皇子は即位して天智天皇となっても伊勢神宮に参ることはありませんでした。さらには次の天武天皇でさえ伊勢神宮を参拝していません。しかし、次の持統天皇になると逆に突然に、しかも重臣の猛反対を押し切って伊勢行幸を敢行しています。
持統天皇は父親が天皇ではない孫の文武天皇即位の正当性を担保するため、自身を擬した天照大神という神を創出し、高皇産霊尊に代わる皇祖神として『日本書紀』に登場させ、さらに伊勢の内宮で祀ることにしたのです。その後も伊勢での皇祖神祭祀は斎宮を中心に脈々と続けられますが、蘇我氏の行った仏教政策の影響は大きく、天皇家はどんどん仏教に傾倒していくことになり、ついには平安時代の神仏習合、本地垂迹説によって神々は仏の下に位置づけられることになりました。こうなると大日如来を崇めることはあっても、天照大神を堂々と祀ることはできません。結果、明治になるまでに伊勢神宮を参拝したのは持統天皇だけ、ということになってしまいました。ただし、持統天皇も伊勢に行幸した記録はあるものの、皇大神宮を参拝したとは書かれていません。
飛鳥時代はまさに日本の行く末を左右した時代であり、その意味で明治維新に匹敵します。今回の飛鳥訪問では、その激動の時代を一時的にでも制した蘇我氏の凄みを感じずにはおれませんでした。
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