2018年5月26日、南九州踏査ツアーレポートの第8弾。
南さつま市金峰町の歴史交流館金峰をあとにして最終目的地の上野原遺跡に向かいました。この遺跡も当ブログの「南九州の遺跡」で簡単に紹介しています。
雨がどんどん強くなる中、途中で間違えて高速を降りてしまうという失敗があったものの、13時過ぎに遺跡最寄りの国分ICを降りました。コンビニのおにぎりで昼ごはんを済ませて13時半頃に到着。遺跡が台地上にあるのはわかっていたのですが、これが平地から切り立ったような崖の上にある台地で、 急な坂道をアクセルを踏み続けて上っていくような高さがあります。

遺跡周辺は 「上野原縄文の森」と呼ばれる 県営公園として整備されています。公園内には「上野原縄文の森展示館」という博物館と「鹿児島県立埋蔵文化財センター」があって、後者は鹿児島県内全域の遺跡発掘調査を行い、その成果を報告書としてまとめたり、出土した埋蔵文化財の保存や活用を図る活動をしています。平日であれば収蔵物とともに職員の方々が遺物を調べたり報告書を書いているところを見学できるのですが、残念ながらこの日は休日で見れませんでした。
まずは展示館で見学です。

緑が雨に濡れていい雰囲気です。

料金は310円。チケットを購入してロビーを進むと年配の職員の方がどうぞと案内してくれた部屋が企画展示室。「バックナンバー 古の美術品」というテーマで県内の考古資料を美術品に見立てて展示。南日本新聞の連載企画を本物を展示することで再現した企画展です。軽石の石偶、レモン型土器など珍しい資料がたくさんあって、なかなか面白い企画展でした。
円筒形土器、角筒土器、レモン形土器の三点セット。

どれもこの地方独特の土器で、円筒形土器は歴史交流館金峰でも展示されていました。レモン形というのは、上から見たときの形がレモンの形に似ているからです。これらの形の土器は初めてみました。
市来式土器。

薩摩半島の西側の付け根、いちき串木野市にある市来貝塚から出土した土器。市来貝塚は縄文後期を主とする貝塚で、南九州の縄文後期を代表する「市来式土器」の標式遺跡です。市来式土器は南は沖縄県から九州全域で出土し、地域間の文化交流を示す重要な土器型式とされています。今回、市来貝塚へ行こうとも思ったのですが、少し遠くてルートからはずれるのでパスしたものの、ここでこの土器が見れるとは思っていませんでした。
企画展を見学しているときにさっきの年配の職員さんが「シアターで短い映画が始まるのでどうですか」と言ってくれたのでシアターに行きました。古代を生きた上野原遺跡の人々を描いた漫画映画で、子供向けの映像でしたが学芸員の勉強と思って観ていました。
映画のあと、企画展を最後まで観て常設展示の部屋へ行くと、ここでまた年配職員さんと話をする機会がありました。奄美大島の方でお歳は62歳、おそらく奄美の公務員の方と思われますが、昔から博物館で働きたいと思ってずっと希望していたのですが最後までかなわずに定年退職、この上野原での職員募集の知らせを見て受けてみたら採用されたとのこと。ボランティアかと思っていたら正規職員だそうで「願いがかなってよかったですね、おめでとうございます」と言ったら満面の笑顔になりました。
常設展示室の入口。

遺跡に復元されている竪穴式住居をイメージしています。
そんな話をしていると、今度は職員とおぼしき女性の方が近づいてきて「聞きたいことがあれば説明させていただきます」と声をかけてくれた。聞けば学芸員さんとのこと。面白そうな展示をみつくろって説明してくれました。当方も学芸員の勉強をしていることを伝えて、展示とは関係ない質問をさせていただいたのですが、快くいろいろ答えていただきました。
河口コレクション。


河口貞徳氏は鹿児島考古学会の重鎮。亡くなられたあとに遺族の意向で個人所蔵していた数々の出土品を県立埋蔵文化財センターへ河口コレクションとして寄贈されました。それはそれは貴重なものばかり。発掘調査で出た遺物を個人で所蔵するというのはどういうことなのだろう、個人の資金で発掘したということかな、それにしても出土したものを個人所有にしようと思うと土地の所有者の了解が必要だけど、と考えてしまいました。市来貝塚から出た縄文人の頭骨まで個人で所有されていたとは。
歴史交流館金峰の学芸員さんからも教わったのですが、約7300年前に薩摩半島の南にある鬼界カルデラが大噴火し、積もった火山灰(アカホヤというそうです)によって鹿児島の縄文文化は絶滅したそうです。先の鹿児島独特の円筒形埴輪などはアカホヤよりも古い時代の土器にあたり、アカホヤ以降の遺跡からはこの形の土器がまったく出ないそうです。まるでベスビオ火山の大噴火によって消滅した古代都市ポンペイのようです。いったん絶滅した南九州に北部九州やその他の地域から人々がやってきて新しい縄文文化を形成したとのことですが、それは他の地域とそれほど変わらない文化であったということです。
ロビーに展示される地層の剥ぎ取り標本。

数万年に渡る度重なる火山活動の結果がよくわかります。遺跡には実際に発掘されたときの地層がそのまま保存されています。
喜界カルデラの爆発時の様子がよくわかる地層剥ぎ取り標本。

噴火によってまず軽石が積もり、その後に左から右に火砕流が流れて樹木を燃やし、その上に火山灰(アカホヤ)が積もった様子です。
学芸員さんによると、遺跡が発見された時、当時の知事が『神様からの贈り物』と言ったそうです。上野原遺跡は工業団地の開発で発見されたのですが、知事はそのときから観光資源としての活用を考えていたようで、その結果、工業団地は半分に縮小されて遺跡部分が県営公園として整備されました。
この遺跡を一躍有名にしたふたつの土器。

形だけ見ると弥生式土器のようだけど、これが縄文時代の地層から出たことで専門家が驚愕したという。しかも、ふたつ並んで地中に埋められていたそうです。国の重要文化財に指定されています。
ほかにも興味深い資料(すべてが実物)がたくさん展示されていて時間が経つのを忘れて見学していました。それと、この常設展示は先日行った登呂遺跡に併設する登呂博物館と同じくらいに美しい展示で、まるで図鑑のようでした。





さあ、遺跡の歴史を学びながら展示を堪能したので、いよいよ遺跡を見学に行ってきます。
南さつま市金峰町の歴史交流館金峰をあとにして最終目的地の上野原遺跡に向かいました。この遺跡も当ブログの「南九州の遺跡」で簡単に紹介しています。
雨がどんどん強くなる中、途中で間違えて高速を降りてしまうという失敗があったものの、13時過ぎに遺跡最寄りの国分ICを降りました。コンビニのおにぎりで昼ごはんを済ませて13時半頃に到着。遺跡が台地上にあるのはわかっていたのですが、これが平地から切り立ったような崖の上にある台地で、 急な坂道をアクセルを踏み続けて上っていくような高さがあります。

遺跡周辺は 「上野原縄文の森」と呼ばれる 県営公園として整備されています。公園内には「上野原縄文の森展示館」という博物館と「鹿児島県立埋蔵文化財センター」があって、後者は鹿児島県内全域の遺跡発掘調査を行い、その成果を報告書としてまとめたり、出土した埋蔵文化財の保存や活用を図る活動をしています。平日であれば収蔵物とともに職員の方々が遺物を調べたり報告書を書いているところを見学できるのですが、残念ながらこの日は休日で見れませんでした。
まずは展示館で見学です。

緑が雨に濡れていい雰囲気です。

料金は310円。チケットを購入してロビーを進むと年配の職員の方がどうぞと案内してくれた部屋が企画展示室。「バックナンバー 古の美術品」というテーマで県内の考古資料を美術品に見立てて展示。南日本新聞の連載企画を本物を展示することで再現した企画展です。軽石の石偶、レモン型土器など珍しい資料がたくさんあって、なかなか面白い企画展でした。
円筒形土器、角筒土器、レモン形土器の三点セット。

どれもこの地方独特の土器で、円筒形土器は歴史交流館金峰でも展示されていました。レモン形というのは、上から見たときの形がレモンの形に似ているからです。これらの形の土器は初めてみました。
市来式土器。

薩摩半島の西側の付け根、いちき串木野市にある市来貝塚から出土した土器。市来貝塚は縄文後期を主とする貝塚で、南九州の縄文後期を代表する「市来式土器」の標式遺跡です。市来式土器は南は沖縄県から九州全域で出土し、地域間の文化交流を示す重要な土器型式とされています。今回、市来貝塚へ行こうとも思ったのですが、少し遠くてルートからはずれるのでパスしたものの、ここでこの土器が見れるとは思っていませんでした。
企画展を見学しているときにさっきの年配の職員さんが「シアターで短い映画が始まるのでどうですか」と言ってくれたのでシアターに行きました。古代を生きた上野原遺跡の人々を描いた漫画映画で、子供向けの映像でしたが学芸員の勉強と思って観ていました。
映画のあと、企画展を最後まで観て常設展示の部屋へ行くと、ここでまた年配職員さんと話をする機会がありました。奄美大島の方でお歳は62歳、おそらく奄美の公務員の方と思われますが、昔から博物館で働きたいと思ってずっと希望していたのですが最後までかなわずに定年退職、この上野原での職員募集の知らせを見て受けてみたら採用されたとのこと。ボランティアかと思っていたら正規職員だそうで「願いがかなってよかったですね、おめでとうございます」と言ったら満面の笑顔になりました。
常設展示室の入口。

遺跡に復元されている竪穴式住居をイメージしています。
そんな話をしていると、今度は職員とおぼしき女性の方が近づいてきて「聞きたいことがあれば説明させていただきます」と声をかけてくれた。聞けば学芸員さんとのこと。面白そうな展示をみつくろって説明してくれました。当方も学芸員の勉強をしていることを伝えて、展示とは関係ない質問をさせていただいたのですが、快くいろいろ答えていただきました。
河口コレクション。


河口貞徳氏は鹿児島考古学会の重鎮。亡くなられたあとに遺族の意向で個人所蔵していた数々の出土品を県立埋蔵文化財センターへ河口コレクションとして寄贈されました。それはそれは貴重なものばかり。発掘調査で出た遺物を個人で所蔵するというのはどういうことなのだろう、個人の資金で発掘したということかな、それにしても出土したものを個人所有にしようと思うと土地の所有者の了解が必要だけど、と考えてしまいました。市来貝塚から出た縄文人の頭骨まで個人で所有されていたとは。
歴史交流館金峰の学芸員さんからも教わったのですが、約7300年前に薩摩半島の南にある鬼界カルデラが大噴火し、積もった火山灰(アカホヤというそうです)によって鹿児島の縄文文化は絶滅したそうです。先の鹿児島独特の円筒形埴輪などはアカホヤよりも古い時代の土器にあたり、アカホヤ以降の遺跡からはこの形の土器がまったく出ないそうです。まるでベスビオ火山の大噴火によって消滅した古代都市ポンペイのようです。いったん絶滅した南九州に北部九州やその他の地域から人々がやってきて新しい縄文文化を形成したとのことですが、それは他の地域とそれほど変わらない文化であったということです。
ロビーに展示される地層の剥ぎ取り標本。

数万年に渡る度重なる火山活動の結果がよくわかります。遺跡には実際に発掘されたときの地層がそのまま保存されています。
喜界カルデラの爆発時の様子がよくわかる地層剥ぎ取り標本。

噴火によってまず軽石が積もり、その後に左から右に火砕流が流れて樹木を燃やし、その上に火山灰(アカホヤ)が積もった様子です。
学芸員さんによると、遺跡が発見された時、当時の知事が『神様からの贈り物』と言ったそうです。上野原遺跡は工業団地の開発で発見されたのですが、知事はそのときから観光資源としての活用を考えていたようで、その結果、工業団地は半分に縮小されて遺跡部分が県営公園として整備されました。
この遺跡を一躍有名にしたふたつの土器。

形だけ見ると弥生式土器のようだけど、これが縄文時代の地層から出たことで専門家が驚愕したという。しかも、ふたつ並んで地中に埋められていたそうです。国の重要文化財に指定されています。
ほかにも興味深い資料(すべてが実物)がたくさん展示されていて時間が経つのを忘れて見学していました。それと、この常設展示は先日行った登呂遺跡に併設する登呂博物館と同じくらいに美しい展示で、まるで図鑑のようでした。





さあ、遺跡の歴史を学びながら展示を堪能したので、いよいよ遺跡を見学に行ってきます。