古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

上野原縄文の森展示館

2018年06月02日 | 博物館
2018年5月26日、南九州踏査ツアーレポートの第8弾。

南さつま市金峰町の歴史交流館金峰をあとにして最終目的地の上野原遺跡に向かいました。この遺跡も当ブログの「南九州の遺跡」で簡単に紹介しています。

雨がどんどん強くなる中、途中で間違えて高速を降りてしまうという失敗があったものの、13時過ぎに遺跡最寄りの国分ICを降りました。コンビニのおにぎりで昼ごはんを済ませて13時半頃に到着。遺跡が台地上にあるのはわかっていたのですが、これが平地から切り立ったような崖の上にある台地で、 急な坂道をアクセルを踏み続けて上っていくような高さがあります。



遺跡周辺は 「上野原縄文の森」と呼ばれる 県営公園として整備されています。公園内には「上野原縄文の森展示館」という博物館と「鹿児島県立埋蔵文化財センター」があって、後者は鹿児島県内全域の遺跡発掘調査を行い、その成果を報告書としてまとめたり、出土した埋蔵文化財の保存や活用を図る活動をしています。平日であれば収蔵物とともに職員の方々が遺物を調べたり報告書を書いているところを見学できるのですが、残念ながらこの日は休日で見れませんでした。

まずは展示館で見学です。


緑が雨に濡れていい雰囲気です。


料金は310円。チケットを購入してロビーを進むと年配の職員の方がどうぞと案内してくれた部屋が企画展示室。「バックナンバー 古の美術品」というテーマで県内の考古資料を美術品に見立てて展示。南日本新聞の連載企画を本物を展示することで再現した企画展です。軽石の石偶、レモン型土器など珍しい資料がたくさんあって、なかなか面白い企画展でした。

円筒形土器、角筒土器、レモン形土器の三点セット。

どれもこの地方独特の土器で、円筒形土器は歴史交流館金峰でも展示されていました。レモン形というのは、上から見たときの形がレモンの形に似ているからです。これらの形の土器は初めてみました。

市来式土器。

薩摩半島の西側の付け根、いちき串木野市にある市来貝塚から出土した土器。市来貝塚は縄文後期を主とする貝塚で、南九州の縄文後期を代表する「市来式土器」の標式遺跡です。市来式土器は南は沖縄県から九州全域で出土し、地域間の文化交流を示す重要な土器型式とされています。今回、市来貝塚へ行こうとも思ったのですが、少し遠くてルートからはずれるのでパスしたものの、ここでこの土器が見れるとは思っていませんでした。

企画展を見学しているときにさっきの年配の職員さんが「シアターで短い映画が始まるのでどうですか」と言ってくれたのでシアターに行きました。古代を生きた上野原遺跡の人々を描いた漫画映画で、子供向けの映像でしたが学芸員の勉強と思って観ていました。

映画のあと、企画展を最後まで観て常設展示の部屋へ行くと、ここでまた年配職員さんと話をする機会がありました。奄美大島の方でお歳は62歳、おそらく奄美の公務員の方と思われますが、昔から博物館で働きたいと思ってずっと希望していたのですが最後までかなわずに定年退職、この上野原での職員募集の知らせを見て受けてみたら採用されたとのこと。ボランティアかと思っていたら正規職員だそうで「願いがかなってよかったですね、おめでとうございます」と言ったら満面の笑顔になりました。

常設展示室の入口。

遺跡に復元されている竪穴式住居をイメージしています。

そんな話をしていると、今度は職員とおぼしき女性の方が近づいてきて「聞きたいことがあれば説明させていただきます」と声をかけてくれた。聞けば学芸員さんとのこと。面白そうな展示をみつくろって説明してくれました。当方も学芸員の勉強をしていることを伝えて、展示とは関係ない質問をさせていただいたのですが、快くいろいろ答えていただきました。

河口コレクション。


河口貞徳氏は鹿児島考古学会の重鎮。亡くなられたあとに遺族の意向で個人所蔵していた数々の出土品を県立埋蔵文化財センターへ河口コレクションとして寄贈されました。それはそれは貴重なものばかり。発掘調査で出た遺物を個人で所蔵するというのはどういうことなのだろう、個人の資金で発掘したということかな、それにしても出土したものを個人所有にしようと思うと土地の所有者の了解が必要だけど、と考えてしまいました。市来貝塚から出た縄文人の頭骨まで個人で所有されていたとは。

歴史交流館金峰の学芸員さんからも教わったのですが、約7300年前に薩摩半島の南にある鬼界カルデラが大噴火し、積もった火山灰(アカホヤというそうです)によって鹿児島の縄文文化は絶滅したそうです。先の鹿児島独特の円筒形埴輪などはアカホヤよりも古い時代の土器にあたり、アカホヤ以降の遺跡からはこの形の土器がまったく出ないそうです。まるでベスビオ火山の大噴火によって消滅した古代都市ポンペイのようです。いったん絶滅した南九州に北部九州やその他の地域から人々がやってきて新しい縄文文化を形成したとのことですが、それは他の地域とそれほど変わらない文化であったということです。

ロビーに展示される地層の剥ぎ取り標本。

数万年に渡る度重なる火山活動の結果がよくわかります。遺跡には実際に発掘されたときの地層がそのまま保存されています。

喜界カルデラの爆発時の様子がよくわかる地層剥ぎ取り標本。

噴火によってまず軽石が積もり、その後に左から右に火砕流が流れて樹木を燃やし、その上に火山灰(アカホヤ)が積もった様子です。

学芸員さんによると、遺跡が発見された時、当時の知事が『神様からの贈り物』と言ったそうです。上野原遺跡は工業団地の開発で発見されたのですが、知事はそのときから観光資源としての活用を考えていたようで、その結果、工業団地は半分に縮小されて遺跡部分が県営公園として整備されました。

この遺跡を一躍有名にしたふたつの土器。

形だけ見ると弥生式土器のようだけど、これが縄文時代の地層から出たことで専門家が驚愕したという。しかも、ふたつ並んで地中に埋められていたそうです。国の重要文化財に指定されています。

ほかにも興味深い資料(すべてが実物)がたくさん展示されていて時間が経つのを忘れて見学していました。それと、この常設展示は先日行った登呂遺跡に併設する登呂博物館と同じくらいに美しい展示で、まるで図鑑のようでした。











さあ、遺跡の歴史を学びながら展示を堪能したので、いよいよ遺跡を見学に行ってきます。
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歴史交流館 金峰

2018年06月01日 | 博物館
2018年5月26日、南九州踏査ツアーレポートの第7弾です。
栫ノ原遺跡の見学を済ませて国道270号線を北上。南さつま市金峰町にある「歴史交流館金峰」に到着したのが開館時刻の9時少し前。ここは前日に鹿児島から野間岬に向かう途中に立ち寄った「道の駅きんぽう木花館」の裏手にあります。開館まで待って入口に向かうとおばさんが掃除中。「もう開いてますか。」「はい、開いてますよ。どうぞどうぞ。お客さんですよお。」

前日に道の駅から撮った全景写真。


事務室から出てきた女性に料金300円を払って見学を始めたのですがダメもとで「説明をお願いできますか」と聞いてみたところ、快諾をいただいた。聞くと女性は学芸員さんでした。ここが面白くなければすぐに切り上げて鹿児島市内の博物館へ行こうと思ってやってきたのですが、結局はたっぷり2時間、この学芸員さんと楽しい時間を過ごすことになりました。

金峰町には高橋貝塚をはじめ重要な遺跡がたくさんあり、遺跡の宝庫という印象でした。薩摩地方独特の円筒型の土器、南九州唯一の甕棺など多くの貴重な展示資料を写真に撮ったのでここで紹介をしたいのですが、不特定多数の方への公開はNGとのことなので掲載を見送ります。学芸員さんの顔をつぶすことになるので。

でも、これくらいはいいかな。

この学芸員さんが企画から展示までを担当した企画展「米どころ金峰 ~No Rice,No Life~」です。

これは歴史博物館ではよくある古代衣装の試着体験。

他の博物館と違うのは、単なる貫頭衣ではなくて隼人の衣装になっていること。しかも隼人の楯もある。この渦巻き模様は隼人の象徴で、まさしく海の渦、あるいは海流の逆巻く様子を表現していて、隼人が海洋民族であることの証である、というのは私の意見です。

入口のホールに展示される木花咲耶姫の砂像。

金峰町には日本三大砂丘のひとつ、吹上浜があります。吹上浜では機を同じくして「砂の祭典」が開催されていました。でも、けっこう強い雨だったので会場の砂像はどうなったんだろうか。



学芸員さんにはいろいろなことを教わった。展示資料に関する詳しい話のほかに、高橋貝塚は以前は金網で囲っていなくて誰でも入れたこと、そしてこの学芸員さんがそこで高坏の破片を発見したけど持ち帰りたい誘惑に打ち勝ってその場においてきたこと(エライ!)、高橋貝塚のある玉手神社にあった小さな土俵はこの地に伝わる水難事故防止を願う「高橋十八度踊り(ヨッカブイ)」というお祭りで使われること、阿多貝塚の貝殻崎城跡の碑文が小泉元首相の筆による理由、この地域は温暖な気候を利用して全国でも例のない超早場米に特化した米作りをしていることなどなど、興味深いお話が満載でした。学芸員さん、ありがとうございました。

鹿児島県立歴史資料センター黎明館をパスして次に向かうは今回のメインイベント、上野原遺跡。楽しみだ。
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名古屋市博物館

2018年05月20日 | 博物館
名古屋出張の機会を利用して名古屋市瑞穂区にある名古屋市博物館を訪問。「尾張の歴史」をテーマに名古屋市内の古代から近代までの考古資料および歴史資料を展示する市立の大きくて立派な博物館です。

地下鉄桜通線の桜山駅から5分ほどで到着。


正面から見ると大きさがわかる。


見学途中で「ボランティアガイドによる展示説明を希望する人は受付に集合してください」という館内アナウンスがあったので、参加することにした。集合したのは私ひとりだけ。ガイドはおばさんが二名。明らかに一人が新人で、後ろからもう一人のベテランガイドがサポートするという体制で始まったが、このベテランガイド、やたら詳しくて私の質問に的確に答えてくれた。このベテランを頼りにしようと思っていると、すぐにおじさんの見学者が加わってきて、このベテランを独り占めしてしまった。結果、私が新人ガイドをガイドする形になってしまった。

旧石器時代の展示を見ながらベテランが教えてくれた。この一帯から出る黒い色の打製石器は他の地域で見られるサヌカイトや黒曜石ではなく「下呂石」というらしい。下呂温泉の下呂。下呂石とは初めて聞いた。勉強になった。

黒いのが下呂石。


縄文人骨の本物もあった。複製ではありません。


全国でも珍しい舟形木棺。弥生中期の方形周溝墓から出たもの。わずかに人骨が残っていました。


S字状口縁台付甕は東海地方に多い土器で、外来土器が多く出た纒向遺跡にも持ち込まれている。口の縁がS字状になっていて上に土器を乗せると蒸気が逃げないように工夫されている。実物を初めて見た。近くに寄ってみるとたしかに縁がSの形をしているのがわかる。真ん中の黒い大きい土器です。


中段奥の丸窓付土器もこの地方特有の土器。この穴は何のためにあるのだろうか。新人ガイドのおばさん曰く、「花瓶として使われて、この穴からも花を活けたのではないでしょうか」。解明されていない以上、「そうかもしれない」としか答えられなかった。


パレススタイル土器。弥生時代後期の尾張地方を代表する赤い土器。ギリシャのクレタ島から出土した「宮廷式土器」にも匹敵する美しさからパレススタイルと呼ばれる。赤い色はベンガラで着色されている。


名古屋市守山区にある志段味(しだみ)古墳群にある白鳥塚古墳は4世紀前半(古墳時代前期前半)に築造された尾張で最初の前方後円墳。纒向にある行燈山古墳(崇神天皇陵に治定される)と相似形をしていて同じ設計図で造られたという。


古墳時代の展示はこんな感じ。


旧石器時代から古墳時代までの展示は全体の3割もなかったように思うが、時間と興味の関係で中世以降の展示はパスしました。新人ガイドさんに「ここまででいいです。ありがとう。」とお礼を伝えて、最後に「もう一人の方は学芸員さんですか」と聞いてみたところ、「あの方もボランティアガイドです。もう何年もやっていて大変詳しいです」とのことだった。

博物館の運営にボランティアガイドは欠かせない存在になっているが、わずかでもいいので報酬を支払うことはできないのだろうか。学芸員の資格を取ってその後もさらに勉強を重ね、70歳くらいになったらガイドをしてみたいという気持ちがあるものの、無給はいやだな。
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港区立港郷土資料館

2018年05月12日 | 博物館
都内23区の区立博物館を観て回ろうと思って手近なところから順に見学しています。これまで品川区立品川歴史館、大田区立郷土博物館千代田区立図書文化館を訪問しました。今回は東京都港区芝の三田図書館4階にある港区立港郷土資料館です。JR田町駅と都営三田線三田駅からすぐのところで、つい先日まで毎週のように3人で遊んでいたあたりです。





1階から3階までが図書館で4階が資料館になっています。ここの展示のメインは伊皿子貝塚の貝層の剥ぎ取り断面標本で、長さは16メートルもあるらしい。


この標本を展示した当時は日本最大の剥ぎ取り標本だったらしいのですが、大阪の自宅近くにある大阪府立狭山池博物館には日本最古のため池である狭山池の堤の断面標本があり、これは長さが60メートルもあります。それを見ているので16メートルはそれほど大きいと感じませんでした。伊皿子貝塚は縄文時代後期の貝塚で、弥生時代から古墳時代にかけての遺構も見つかっており、出土した土器などの遺物も展示されています。

それともうひとつ。展示室の真ん中にドカンと展示される体長9メートルのミンククジラの全身骨格標本。東京慈恵会医科大学から港区に寄贈されたとのこと。寄贈されたものの適切な保管場所がなく、歴史資料館には相応しくないのだけどやむなくここに展示した、ということかな。



考古資料としては伊皿子貝塚のほか、西久保八幡貝塚の貝層断面標本や出土品、都内最大の前方後円墳である丸山古墳からの出土品が展示されています。そして、ここの展示の特徴の一つは本物の土器を触ることができるということです。




こういった考古資料のほか、歴史資料としては近世から近代にかけての港区を中心にした江戸、東京の発展に関する資料が展示され、その中には品川台場の資料もありました。品川台場は品川区立品川歴史館にも展示されていました。





まだ4つの博物館しか見ていませんが、縄文時代や弥生時代の人はそれぞれの時代の地理や環境の中で暮していたのであって、それを今の行政区域で割って博物館を設けるとなると良く似たものになるんだろうな、というのが正直な感想です。古代の遺跡から出た石器や土器はどこの博物館も似たようなものだし、おそらくこのあと、江戸城や江戸の街に関する展示をあちこちの区立博物館で見ることになるのだろうと予想できます。

リーフレットをもらってくるのを忘れたので、また行くことになりそうです。
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千代田区立日比谷図書文化館

2018年04月25日 | 博物館
4月24日、仕事を終えてから会社近くの日比谷図書文化館に行ってきました。都立であった日比谷図書館が2009年に千代田区に移管され、博物館・学習・交流の機能が付加されて2011年に開館した都内でも珍しい複合施設です。




博物館内は撮影禁止だったので入口で撮ったこの1枚だけ。


これを撮ったあとにこの入口から入ったのだけど、すぐに受付の女性がやってきた。ほかに客がいないので私を監視しにきたようだ。そしてよく見ると入口を入ってすぐのところに小さくて薄い字で「資料の撮影はご遠慮ください」と書いてあった(地図の下の楕円の中)。ははーん、入口の外で写真を撮ったのを見て私に注意しに来たんだな、と合点がいった。スマホをしまって見学に専念しているとその女性は戻っていった。やっぱりそうだったか。しかし、それにしても。写真を撮った場所は受付からは死角になっていて見えないはずだが。これまたよく見ると天井に360度カメラがいくつも設置されている。気づくのが困難な注意書き、気づかずに撮影する人を監視する天井カメラ、違反者を見かけるとここぞとばかりに飛んでくる係員。どれもこれも気持ちよくないなあ。
しかも、ここの常設展示は古代から中世までの考古資料が少しずつあるのだけど、メインは何といっても江戸城と江戸文化。千代田区と言えばお膝元だからやむを得ないのだろうけど、私にとっては展示も面白くなかった。

とはいえ、この日のメインはこちら。


タイトルに魅かれて、というのが一番の理由だけど、この博物館が取り組む学びの支援の実践例を体験するため、つまり学芸員の勉強のため、というのが二番目の理由。ちなみに当館のホームページにはこう書いていある。

日比谷図書文化館の基本理念である「知の拠点」を実現するための機能の一つ「アカデミー機能」を具現化する手段として、「日比谷カレッジ」と題し、ビジネススキルアップや江戸・東京の歴史文化、アートなど多彩なテーマで、講座やセミナー、ワークショップなどを開催。さまざまな「学び」と「交流」の場を創出します。

新天皇の即位の儀が来年10月22日、そして大嘗祭が11月14日・15日です。大嘗祭というのは新しい天皇が即位されて初めて行う新嘗祭のことで、前回は1990年(平成2年)、その前は1928年(昭和3年)なので貴重な巡り合わせです。新嘗祭とは、天皇が行う収穫祭で、天皇がその年の新穀を神に捧げ、天皇自らも食してその年の収穫に感謝する儀式です。

講演の講師は大東文化大学名誉教授の工藤先生。先生は大嘗祭の源流を弥生時代に求めようと研究を続けておられます。大嘗祭は稲にまつわる儀式、すなわち稲作文化をもつ民族の儀式であるので、その源流は日本においては稲作が伝わったとされる弥生時代(あるいは縄文時代晩期)に求められる、という考えは納得です。さらに先生は、日本の稲作の源流は中国の長江流域にあるというのが定説になりつつあるので、そこまで遡って考えることができるとも言います。それも納得です。さらに私の勉強の結果を付け加えるなら、日本神話の源流も長江流域に求めることができるので、結局、現在の日本人がもつ基層文化、精神文化の源流は中国の長江流域にあると言えるのです。製鉄技術もそこから伝わりました。そもそも天皇家の源流もそこにあると言うのが私の考えです。

もうひとつ、興味深い話が聴けました。古代の天皇は、武力王・行政王という側面と、神話王・呪術王・祭祀王という側面があると言い、前者は男性的な側面で後者は女性的な側面です。よくわかります。そして、この天皇制を確立したのが天武・持統の両天皇でした。文献から読み取れる大嘗祭の開始は7世紀末、つまり持統天皇の時ということになります。
また、明治の王政復古は武力王・行政王の側面を天皇に取り戻す意味があった。さらに敗戦後は逆に武力王・行政王の側面が排除されて神話王・呪術王・祭祀王の側面だけが残された。それが現在の天皇である。

自分が勉強してきたこととシンクロして、先生の話に頷くばかりでした。
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大田区立郷土博物館

2018年04月21日 | 博物館
レポートの題材とするため、大田区立郷土博物館へ行ってきました。都営浅草線西馬込駅から歩いて7分。JR大森からだと徒歩20分。ここは区立ということもあって入館料は無料です。ちなみに、品川歴史館は100円でした。



3階建ての2階と3階が展示室になっていて、すべての展示室が盛りだくさんの資料で満杯になり、エレベーターホールや廊下にまで展示ケースを置いていました。2階には先土器時代から古墳時代にいたる考古関係の資料と六郷用水など江戸時代の資料が展示され、解説パネルも充実しすぎるくらいで質・量とも申し分のない展示になっていたと思います。





それに比べて3階は、馬込文士村といって馬込あたりに住んだ文士たちの作品や自筆原稿などを展示するとともに、浅草海苔の養殖の様子、昭和時代の茶の間の再現、伝統工芸のむぎ藁細工、中小企業の町を象徴するモノづくり関連、羽田空港の沿革などを展示。馬込文士村は興味のある見学者には見応えがあると思うものの、そのほかは焦点が定まらない展示となっていました。





大田区は東京23区の中でも古代の遺跡がもっとも多いらしく、それだけに遺物の数も大量にあるのだろう。ここはそれらを単に並べているだけでなく、解説パネルや模型などを多用して古代の様々なことが学習できるように配慮されている。子どもにとっては良い学びの場になると思う。

自分の興味だけであれば2階の考古資料にじっくり時間をかけて3階は見なくてもいいのだが、今回はそういうわけにもいかず、つまらない3階でもしっかりとネタ集めをしてきました。

博物館で3時間以上の時間を過ごし、おまけに帰りはJR大森まで歩いたので疲労困憊となりました。
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大阪府立近つ飛鳥博物館

2018年04月14日 | 博物館
2018年4月14日、大阪府南河内郡河南町にある近つ飛鳥博物館を見学。この博物館は、エリア全体が遺跡博物館ともいわれる陵墓・古墳の宝庫「近つ飛鳥」の中核的文化施設として1994年に開館し、古墳時代から飛鳥時代を中心に古代の国際交流と国家形成過程をテーマとする歴史博物館です。



博物館の公式サイトによると、「近つ飛鳥」という地名は古事記に「履中天皇の同母弟(後の反正天皇)が、難波から大和の石上神宮に参向する途中で二泊し、その地を名付けるに、近い方を近つ飛鳥、遠い方を遠つ飛鳥と名付けた」とあり、近つ飛鳥は今の大阪府羽曳野市飛鳥を中心とした地域をさし、遠つ飛鳥は奈良県高市郡明日香村飛鳥を中心とした地域をさします。この近つ飛鳥の地は、難波の津と大和飛鳥を結ぶ古代の官道である竹内街道の沿線にあたり、周辺には大陸系の遺物を出土する6世紀中葉以降の群集墳が広がっており、とくに博物館が建つ一須賀古墳群は6世紀前半から7世紀中頃にかけて築かれた23支群・総数262基からなる日本有数の群集墳です。また、南部の磯長谷には、敏達・用明・聖徳太子・推古・孝徳の各陵墓指定地など飛鳥時代の大古墳が集まっていて、俗に「王陵の谷」とも呼ばれています。

「黄泉の塔」がそびえる階段状の建物は安藤忠雄氏の設計で、第26回日本芸術大賞を受賞しています。


自宅から車で30分くらいのところにあり、博物館が開館してすぐの20年ほど前に行ったことがあるのですが、博物館の記憶はまったく残っていなくて、隣接する近つ飛鳥風土記の丘を歩いた記憶がかすかに残る程度でした。その後も毎月のように竹内街道(国道166号線)を走って大和高田にある奥さんの実家を訪ねていたにもかかわらず二度目の訪問の機会はなく、この歳になって学芸員の勉強の一環で大阪の歴史系博物館を調べていて、行ってみようという気持ちになったのです。

建物や展示資料が素晴らしいのはもちろんなのですが、この博物館の何が素晴らしいかと言うと、地域住民や子どもたちの学びの活動を熱心に支援していることです。東京と大阪のいろんな博物館のホームページを見て比較しただけなのですが、少なくとも私が見た限りではここがもっとも学習支援や教育に力を入れているように思いました。

本日も生涯学習支援のプログラムとして100回以上の開催を続けている土曜講座に参加して「古墳の終わりと火葬の始まり」と題する副館長の講演を聴いてきました。 参加者は50人ほどで、こういう講座に出るといつも思う通り、年齢層は私よりもだいたいひと回りほど上の世代の方ばかりでした。



学芸員の勉強を始めてからは博物館を見る視点が変わりました。展示資料が実物なのか複製なのか、展示ケースはどういうものを使っているのか、わかりやすい解説になっているか、順路は適切か、といった展示に関わることだけでなく、見学者にはわからない学芸員の仕事を垣間見ようとするようになりました。



それにしてもこの博物館の展示資料は見応えがありました。教科書に出てくるような貴重な資料の多くが実物展示されるだけでなく、精巧な模型を多用して理解を促進し、解説も充実していて、たいへん勉強になりました。また行こうと思います。
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伊都国歴史博物館

2017年10月31日 | 博物館
2017年3月、博多から少し足を延ばして伊都国の地を訪れた。伊都国歴史博物館、井原鑓溝遺跡、三雲南小路遺跡、平原遺跡と順に巡った。

伊都国歴史博物館は糸島市内の遺跡で出土した数多くの文化財を収蔵・展示している博物館。中でも新館3Fには平原遺跡からの出土物、特に直径46.5センチの内行花文鏡5面を含む40面の鏡のすべてが展示されており、圧倒された。また、それらの鏡が見つかった平原1号墓の発掘時の状況が展示室内に再現されている。

昭和62年に「伊都歴史資料館」として開館(旧館建物)。その後、平成16年に前原市立博物館として新館を建設。伊都歴史資料館の開館時、初代館長として平原遺跡発掘の功績を称えて、原田大六を予定したものの開館準備中に逝去された。氏の業績を称えて制作された銅像が旧館正面の脇に佇んでいる。(Wikipediaより抜粋)

旧館の入り口と原田大六氏の銅像。




旧館の裏側に建てられた新館。


新館3階の展示室の全景。


平原1号墓の発掘状況の再現レプリカ。


46.5センチの内行花文鏡。



番号がふられた40面の鏡が順に並べられている状況は圧巻。





糸島平野に広がる遺跡や古墳の数々。ここが伊都国とされている。
写真にある「現在地」が伊都国歴史博物館の位置。写真の下側が北。



このあと、井原鑓溝遺跡、三雲南小路遺跡、平原遺跡と徒歩で巡ったので順に紹介したい。
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