古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

天照大神と伊勢神宮(第1部・6章)

2022年06月11日 | 伊勢神宮
●直木孝次郎氏が説く伊勢神宮の成立①



私の手元にある本は1991年に出版された藤谷俊雄氏との共著による『伊勢神宮』の新版です。この本の旧版が出版された1960年から30年以上の歳月を経たのちの新版ですが、内容については「誤植を正し、一、二の加筆をするのにとどめてほぼもとの形のまま刊行する」とあとがきに記されています。この直木説は伊勢神宮成立に関する代表的な論考のひとつと言えるでしょう。さっそく著書から引用しながら見ていきます。

直木氏は伊勢神宮の起源を考えるにあたって2つの手がかりをあげます。第1の手がかりは「伊勢神宮の所在地が、伊勢湾をへだてて尾張・三河に対する交通上の要点で、大和政権の東方発展と関係があると思われること」、そして第2には「斎宮に関する記紀の記録」の2点です。それぞれ見ていきます。

まず第1の手がかりについて。天皇家の氏神である天照大神が故なく大和を離れて伊勢に遷されたとは考えられないので、伊勢の地が大和政権の勢力下に入って、なおかつ天皇家に重要視される時代にならなければ伊勢遷祭は起こりえない。著者はその時期を以下のような理由から5世紀中葉以降だとします。

まず、崇神・垂仁朝に相当する3世紀後半から4世紀初めの頃は、天皇家を中心とする大和の諸豪族の連合政権が成立してまのない時代であり、伊勢以東には勢力が伸びていなかったと考えられ、天照大神の社を伊勢に設けるほど、伊勢を重要視、神聖視したとは思えない。

古墳の分布は4世紀後半から5世紀にかけて、大和の勢力が伊勢湾の線をこえて東国地方へのびていっており、それに応じて伊勢地方の重要性も高まったであろうが、4世紀末から5世紀前半の天皇家の主たる関心は西方の朝鮮にあり、都も大和から難波に遷す状態であった。

允恭天皇・安康天皇・雄略天皇の頃からあとの天皇や天皇の后妃に属する部民が、関東地方南部を中心として多数設置されたことが史料からわかるので、天皇家の関心がふたたび東国へ向かうのは5世紀中葉以降と考えられる。この時期、高句麗の南下や、それに伴う百済国都の南遷などによって日本の朝鮮半島進出にも困難が生じてきたので、天皇家は勢力拡大の方向を転換して東方進出に熱心になったと考えられる。

以上が第1の手がかりの要約ですが、次に第2の手がかりである記紀にある斎王記事について、7世紀末頃までの記録を整理すると次のようになります。

 崇神(第10代) 豊鍬入姫命 <記・紀>
 垂仁(第11代) 倭姫命 <記・紀>
 景行(第12代) 倭姫命・五百野皇女 <記・紀>
 雄略(第21代) 稚足姫皇女(栲幡皇女) <紀>
 継体(第26代) 荳角皇女 <記・紀>
 欽明(第29代) 磐隈皇女 <紀>
 敏達(第30代) 菟道皇女 <紀>
 用明(第31代) 酢香手姫皇女 <紀>
 崇峻(第32代)  〃
 推古(第33代)  〃
 天武(第40代) 大来皇女 <紀>

氏は、記紀の斎王関係の記事で多少とも信用できるのは雄略朝にさかのぼるくらいで、それ以前の崇神・垂仁・景行朝はほとんど信用ができない、とします。もしもこの時期に実際に斎王を送るほどに伊勢神宮と密接な関係をもっていたなら、それ以降、雄略朝までの間に斎王記事がみえないことが説明できない、と言います。確かにその通りですが、それはこの時点で伊勢神宮が存在することを前提とした見解です。ただ、雄略朝の稚足姫の記事には問題があるとも指摘しています。

その問題とは、雄略天皇3年に廬城部(いおきべ)連武彦が稚足姫皇女を妊娠させたとする阿閉臣国見の讒言によって稚足姫が五十鈴川のほとりで自死した、とする『日本書紀』の記述が事実であるなら、伊勢神宮における斎王の地位はまだ不安定であり、天皇家と伊勢とのつながりは十分に確立していなかったと考えられるとし、ここでも雄略朝のときに伊勢神宮が存在したことを前提に論述します。筑紫申真氏もこの記事に言及しており、仮にこの話が作り話でなかったとしても、讒言した国見が石上神宮に逃げ込んだとあることから、彼は大和の豪族でありこの事件も大和が舞台であったと推測し、雄略朝において斎王は伊勢に派遣されていなかったとして、直木説よりも踏み込んだ判断をしています。これについては建築史学の林一馬氏も同様の見解を示します。

著者は第2の手がかりからは、天皇家と伊勢神宮が密接な関係を持つようになるのは6世紀初頭以降、古くみても5世紀後半の雄略朝ごろからとしながらも、雄略朝までさかのぼらせることを躊躇します。倭王武の名をもって中国南朝の宋に送った国書から、雄略天皇の数代前から天皇家の勢力が東西に広がっており、伊勢の重要性が高まっていたこと、記紀の雄略朝の記事には斎王以外にも伊勢に関するものが多くみられること、などから雄略天皇のときに伊勢に深い関係を持ったことは事実かも知れないとする一方で、先の稚足姫皇女事件の問題があることから、結局、伊勢神宮成立史においては継体・欽明朝の時代をより重視するとの考えを示します。

(つづく)








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天照大神と伊勢神宮(第1部・5章)

2022年06月09日 | 伊勢神宮
●筑紫申真氏の「アマテラスの誕生」③



筑紫申真氏は、天照大神は天武・持統両帝がつくったカミであり、皇大神宮は天武・持統両帝が築き上げた神社だと断言し、神格三転説にもとづいてそのプロセスや成立年代を説きます。加えて、その場所がなぜ南伊勢であったのか、についても論述しているので要約してみます。

南伊勢の宮川下流域は度会県と呼ばれ、この地の磯部(伊勢部、石部)と呼ばれる漁民たちを支配下におく度会氏が治めていました。天皇家の支配下に入ってからは御食つ国として魚介類を献上するほどに漁業の盛んな地域です。その度会氏は伊勢国造や外宮の神官を務めることになる有力豪族で、天日別命あるいは天日鷲命と呼ばれる日の神を祖先神として祀っていました。

大化の改新以降、度会・多気の二郡は神郡に定められ、度会氏は天皇家から統治を委ねられますが、敏達天皇6年(577年)に日祀部を置いて以降、太陽神を祀っていた天皇家と、同じく太陽神を祖先神とする度会氏との関係が深くなっていきます。そして魚介類を献上する役割を担った伊勢の海部(磯部・伊勢部)の中から、宮廷に専属する語部(かたりべ)となって大和に居住する天語連(あまがたりのむらじ)が生まれ、彼らは伊勢の太陽神信仰にもとづく神話を宮廷にもたらしました。これらが天岩戸神話や天孫降臨神話となって記紀に採録されるようになったのです。

天武天皇が幼少期に養育を受けた凡海氏は摂津の海部の一族ですが、その海部つながりを利用して伊勢の海部は天武天皇に接近しました。天武天皇はその影響もあってか、壬申の乱に際して伊勢の太陽神から受けた恩恵に対する報謝はそのまま伊勢の海部が信仰する太陽神への報謝へとつながり、ついには大和での太陽神信仰の場を南伊勢に移すとともに、大来皇女を斎王として南伊勢に赴任させることになったのです。

一方で伊勢の土豪の勢力関係が崩れて、度会氏のもとにあった宇治土公氏が台頭し、その系列の猿女君が天語連をしのいで宮廷内で力を持つに至ります。『古事記』を誦習した稗田阿礼は猿女君の一族です。宮川流域の度会郡を拠点とする度会氏・天語連から五十鈴川流域を拠点とする宇治土公氏・猿女君への勢力関係の変化が、皇大神宮を宇治に建設させる結果につながったと著者は言い切ります。

天岩戸神話で、岩屋に隠れた天照大神を外に出すために岩戸の前で踊った天鈿女命は猿女君の遠祖にあたり、現代においても毎年11月に宮中で催される鎮魂祭での儀式はこの伝承にもとづく太陽霊復活を祈るものです。そして著者は、伊勢の神島で毎年元旦の早朝に行われているゲーター祭りは宇治土公氏によって行われていた太陽霊復活祭の名残りであると指摘します。

最後に、著者は天照大神のモデルは持統女帝であると説きますが、この説そのものは広く説かれているものです。天孫降臨において、子の忍穗耳尊ではなく孫の瓊瓊杵尊を急きょ降臨させたとする神話は、若くして病死した草壁皇子に代わって孫の軽皇子を文武天皇として即位させた史実を反映したものである、天照大神が女性神であることの決定的な理由は持統女帝をモデルにしているから、としますが妥当な主張だと思います。


ここまで筑紫申真氏の『アマテラスの誕生』を3回にわたって見てきました。理解が難しいところは、多気や宇治で祀られていた川の神がなぜ日の神、太陽神になったのか、という点です。著者は「多気や宇治の地方神も川の神でありながらも天つカミとして日の神、風の神、雷の神でもあった」「これらの中から日の神が人格化されて天照大神ができあがった」としますが、川の神なのに日の神が人格化された理由は曖昧です。あえていうなら、度会氏が日の神である天日別命を祖先神としていたから、あるいは、北伊勢を行軍中に雷雨に打たれた大海人皇子が日の神(であった天照大神)に祈ったから、はたまた、神島でゲーター祭りという太陽霊復活祭が行われてきたから、くらいしかありません。

それにしても、度会氏の祖先神が日の神であるなら、なぜ多気大神宮ではもともと川の神を祀っていたのでしょうか。さらには、伊勢の地に皇祖神を祀った最初の場所が多気(現在の瀧原宮のあるところ)だったとして、そこにもともと祀られていた川の神は追い出されたのでしょうか。武光氏はそのあたりを「太陽神を祀る巫女であるひるめの神が水の神を婿として迎え入れて合祀した」と明確にしますが、筑紫氏はそこを曖昧にしています。

以上、著書の内容のほんの一部を紹介するにとどまりましたが、原始的な自然信仰のあり方、神社という形式が出来上がる前の祭祀のあり方など、たいへん勉強になる本でした。上記のように腹落ちしない部分が残ったものの、なるほどと思える部分もたくさんありました。さて、次は伊勢神宮の成立に関する代表的な説のひとつであり、筑紫氏もその著書を引用していた直木孝次郎氏の説を見て行こうと思います。

(つづく)






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天照大神と伊勢神宮(第1部・4章)

2022年06月07日 | 伊勢神宮
●筑紫申真氏の「アマテラスの誕生」②



『日本書紀』によると、敏達天皇6年(577年)に「日祀部」が設けられました。このとき天皇家は日神を祀っていましたが、まだ天照大神は登場していません。さらに著者は歴史学者の直木孝次郎氏の説を引用して、大化の改新より前に天照大神が祀られた形跡がないことを示します。また、その後も天智天皇に至るまで天照大神や伊勢神宮を祀った記事が『日本書紀』にないことを指摘し、天照大神が天皇家の祖先神として人格を与えられて創り上げられるのは、天武天皇即位(天武元年)から、多気大神宮が度会に遷される前年の文武元年の間だと主張します。

その天武天皇元年(672年)には壬申の乱が起こります。挙兵のために吉野を出て伊勢国に入った大海人皇子(即位前の天武天皇)は「朝明郡の迹太(とほ)川の川辺で天照大神を望拝した」と『日本書紀』は記し、ついに天照大神が登場します。「望拝(たによせおがむ)」を「遥拝」として、すでに伊勢に存在していた皇大神宮を遥か遠くから拝んだ、と解するのが一般的ですが、この時点でまだ皇大神宮がなかったとする著者は、皇祖神としての天照大神ではなく、日の神としての天つカミを拝んだにすぎないとします。大海人皇子の一行は前日からの激しい雷雨で全身ずぶ濡れになり、寒さに凍えて朝を迎えたという状況から考えると、太陽の陽が降り注ぐことを期待して日の神に祈った、という行為は素直に理解できます。しかし、日の神を拝んだにすぎないのであれば「天照大神」という神名が登場することが理解できません。

この解釈については、前回に登場した林一馬氏(建築史学)も近い見解を出しています。同氏はさらに、大海人皇子はこのときに天照大神を自らの陣営の守護神とすることを決めたのだ、と一歩踏み込んだ主張をします。というのも、大海人皇子はこの時点では皇室に対して反逆を企てた謀反人であり、仮に天照大神が皇祖神として成立していたとすれば、それは近江側、すなわち大友皇子によって祀られるべき存在であり、それを強奪でもしない限り大海人皇子が拝むことは考えられないとします。つまり、この時点で天照大神は皇祖神として成立していないということです。的確な指摘だと思います。そして大海人皇子が天照大神を守護神にすることを決めた理由のひとつとして、日神への連想があったことをあげます。林説ではこのときに「天照大神」という名の神を守護神にすることを決めたので、この神名が登場することは納得できることになります。

ところで、『古事記』における天皇家の祖先神の呼び方は、編纂時に確定していた名称である「天照大御神」に統一されていますが、一方の『日本書紀』では古くからの言い伝えを整理不十分のまま掲載しているので様々な名称が出てきます。「日神」「大日孁貴」「天照大日孁尊」「天照大神」などですが、これらはこのまま太陽の霊魂からその人格化、天皇家の祖先神化のプロセスを順に示しています。持統天皇3年(689年)に草壁皇子が死去したときに柿本人麻呂が作った挽歌に「天照らす日女尊」という名が登場します。これは持統天皇のときには天皇家祖先の人格神の呼び名が天照大神として固まっていないことを表しています。神格三転説の第二段階です。

『日本書紀』には持統天皇6年(692年)に伊勢大神が伊勢国の貢ぎ物の免除を天皇に願い出たことが記されることから著者は、このときの伊勢大神は天皇家の祖先神になっていないことが明らかである、とします。たしかに、伊勢大神が皇祖神になっていたとすれば、皇祖神が天皇にお願いするというのはおかしな話です。また同じく持統天皇6年、天皇は伊勢に行幸したものの伊勢大神を参詣しなかったことから、この時の伊勢には参るべき皇大神宮はなく、伊勢大神も皇祖神になっていなかったとします。ただし、ここでは天照大神の前身が伊勢大神であることを前提としていますが、果たしてそうなのでしょうか。

文武2年(698年)に多気大神宮が度会郡に遷されて皇大神宮が成立したとする著者は、多気大神宮の名が多分に皇大神宮的であることなどから、多気大神宮は皇大神宮に似たものとして天皇家によって設立され、天皇家の氏神または祖先神の意識をもって祀られていた、とします。しかし一方では「多気大神宮はもうアマテラスをまつっていたかもしれませんが」と言葉を濁し、多気大神宮に祀られる皇祖神が天照大神であるとは明示しません。いずれにしても持統天皇6年以降、文武天皇2年までの数年の間に神格三転説の第三段階を迎えた、つまり天照大神が誕生したと説きます。

(つづく)






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天照大神と伊勢神宮(第1部・3章)

2022年06月05日 | 伊勢神宮
●筑紫申真氏の「アマテラスの誕生」①



著者の筑紫申真氏はWikipediaによると「在野の神話学者、歴史学者、民俗学者」となっていますが『アマテラスの誕生』を読むと、歴史学者というよりも民俗学者の印象を強く受けます。民俗学によくあるパターンで、いくつかの事実や事象を取り上げて結論を導き出すものの、その因果関係が必ずしも明確ではないので今ひとつ腹に落ちない部分が結構ありました。では、少し長くなりますが著書から適宜引用させていただきながら順に追っていこうと思います。

8世紀よりも古い時代、神は一年に一回、海や川からやって来ると考えられ、その神を迎えるために神の妻となるべき女性、つまり巫女が神の着物とする神衣(かんみそ)を機にかけて織りました。神の一夜妻となるこの巫女は棚機つ女(たなばたつめ)と呼ばれました。

著者は、アマテラスの神格は「太陽そのもの→太陽神を祀る女→天皇家の祖先神」という具合に三転したとします(神格三転説)。『日本書紀』ではアマテラスの呼び方が「日神→大日孁貴→アマテラス」と変化していますが、これは神格が三転したことの表れで、日神とは太陽の霊魂そのもので自然神としての太陽神、大日孁貴とは太陽神を祀る女、つまり棚機つ女であり、オオヒルメのヒルメは日の妻(め)の意味であるとし、これは前回の武光誠氏の著書にも出てきました。

『日本書紀』には、天照大神が機殿で神衣を織っているときに素戔嗚尊が皮を剝いだ馬を投げ入れる場面が記されます。最高神である天照大神が織る神衣は誰のものでもなく天照大神自身のものであり、ここに太陽神と棚機つ女である巫女が同一視されたことが表れていると示唆します。天照大神は棚機つ女をモデルに天皇家の祖先神として創作された神なので女性神なのです。一書(第1)では神衣を織っていたのが稚日女尊となっていて、こちらの方がわかりやすい例かもしれません。ちなみに、このあたりの考え方は、著者が師事した民俗学の大家である折口信夫の影響を受けているとされます。

また著者は、続日本紀にある「文武天皇2年12月乙卯、多気大神宮を度会郡に遷す」の一文をもって、伊勢神宮(皇大神宮)の成立を文武天皇2年にあたる698年であるとします。この多気大神宮は三重県度会郡と多気郡の郡境を流れる宮川の上流域、現在は伊勢神宮別宮である瀧原宮が鎮座する場所にあったとします。この瀧原宮が度会郡に遷された多気大神宮の名残りであり、この「大神宮」という呼び名は古代において皇大神宮以外で使われたことがないとします。そして遷座した先が度会郡の五十鈴川上流の宇治、つまり現在の内宮の場所でした。

しかしこの説に対して建築史学の林一馬氏は、『古事記』分註にある「伊勢大神之宮」「伊勢大御神宮」などの用例や記紀に共通してみられる「出雲大神宮」の表記をもとに、「多気大神宮」は「多気の大神宮」ではなく「多気大神の宮」と読むべきであると反論します。そして、文武2年の記事が内宮遷座を指しているとすれば、天照大神を祀る伊勢内宮の創建を垂仁朝とする『日本書紀』の記述と矛盾する、つまり『日本書紀』と『続日本紀』、2つの正史に矛盾が生じるとも指摘します。また、こういった指摘とは別に、そもそも文武2年の記事は内宮ではなく外宮の成立を表しているとする説もあります。

瀧原宮は現在、天照大神(の和御魂)を祀っていますが、著者によると、もともとは雨水を司る水戸神(みなとのかみ)、つまり川の神を祀っていたそうです。そして度会郡の宇治の地でも毎年定期的に川の神を祀る滝祭りが行なわれていました。つまり、皇祖神としての天照大神が誕生する前は、いずれも多気や宇治の地においてそれぞれの地方神として川の神を祀っていたということです。このようにそれぞれの土地で祀られる神は天空に住んでいると信じられた霊魂で、大空の自然現象そのものの魂であったとし、著者はそれを「天つカミ」と呼びます。いわゆる自然神であり、日の神、月の神、風の神、雷の神、雲の神などが全て「天つカミ」として一括りにされ、多気や宇治の地方神も川の神でありながらも「天つカミ」として日の神、風の神、雷の神でもあったとします。これは神格三転説の第一段階にあたり、これらの中から日の神が人格化されて天照大神ができあがったわけです。

2021年11月、伊勢市街から宮川を40キロほどさかのぼった森の中に鎮座する瀧原宮を参拝しました。ここはどこの神社にもある手水舎がなく、参道から少し下ったところを流れる頓登(とんど)川の御手洗場(みたらしば)で清めてからお参りするのですが、これはまさに五十鈴川で清める内宮と同じ方式です。瀧原宮と内宮とのつながりを感じる一方、大和に居を構える天皇家が自らの祖神を祀る場所としてはあまりに遠く、しかも山あいの辺境な場所であることを実感しました。

(つづく)






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天照大神と伊勢神宮(第1部・2章)

2022年06月03日 | 伊勢神宮
●武光誠氏の考える天照大神



前回の冒頭に紹介した武光誠氏の『誰が天照大神を女神にかえたのか』には「中臣氏が6世紀なかばに高天原神話を整えたときに、大日孁尊(おおひるめのみこと)の別名を持つ男性の天照大神を、女性の天照大神に変えた」と書かれています。大日孁尊は『日本書紀』に天照大神の別名として登場する神ですが、「尊」がついているので男性神とみることができます。しかし一方で「日孁」は「日の女」あるいは「日の妻」として「太陽神に仕える巫女あるいは巫女神」と解するのが有力な考えで、そうすると両者は矛盾する話となります。著者はこの矛盾を解く理屈として次のような解釈を展開します。

農耕神である太陽神(男性神)を祀る集団はその巫女神である「ひるめの神」も一緒に祀っているが、その中に、また別の農耕神である水の神(男性神)を「ひるめの神」の婿として迎え入れて合祀し、より大きなご利益を得たいと考える集団がいました。この合祀によって水の神と太陽の神が一体となった「おおひるめのみこと」というより強力な太陽神が誕生したのです。

この時点で「おおひるめのみこと」は男性神です。また、この解釈においては、古代の日本では婿入り婚が当たり前であったこと、別々の神を合わせてより有力なひとつの神にする合祀の概念が存在したこと、が前提となります。

ところが6世紀の初めに太陽神の祭祀を始めた大王家は天照大神を「おおひるめのみこと」と同じ神とみなしました。このとき、もともと女性神としての「ひるめの神」の名であった「おおひるめ」が天照大神の別名とされたことによって、天照大神を女性神とする発想が形成されていきました。わかりやすく言えば、「おおひるめ」と「おおひるめのみこと」を混同してしまった、ということになるのでしょう。

この解釈、実は私にはあまり理解が及びません。ここでは前後の話を省いて結論だけ書いているのですが、この本を全部読んでも痒いところに手が届かず、なかなか腹に落ちませんでした。婿入り婚については、たとえば九州から東征してきた神日本磐余彦尊が大和の豪族に婿入りして神武天皇として即位した、などの説があることから理解できるとしても、別々の神を合祀するという概念が古代に存在したのでしょうか。著者は大己貴神と少彦名命を祭神とする神田明神が鎌倉時代に平将門を合祀した例をもとに説明をするものの、新しい時代のことを持ち出して古い時代がそうであった、というのは少し無理がありますね。

一方で、日孁(ひるめ)=日の女、あるいは日の妻という見立ては、その後に読んだ本や論文にもたびたび登場し、反論する学者もいるようですが、どうやら定着した考えと言えそうです。

この著者も最後に伊勢神宮の誕生に触れています。天照大神の祭祀は6世紀に中臣氏が主導して中央で創られたとする一方で、これとは全く関係なく、伊勢では古くから「天照神」や「天日別命」、「高木神」などと呼ばれる太陽神が祀られていました。鳥羽の神島で行われていたゲーター祭り(※)はその名残りだとします。ちなみにこのゲーター祭りは2018年以降は祭りの担い手が少なくなったことなどから開催されていません。

壬申の乱に勝利した天武天皇は、大和で行われていた大王家の太陽神祭祀(天照大神の祭祀)を伊勢に遷し、伊勢の太陽神と天照大神を合祀しました。ここには国家祭祀の実権を中臣氏から天皇家に取り戻そうという天武天皇の意図があったとしています。なお、合祀された天照大神が最初に祀られた場所は現在の内宮ではなく、その別宮とされる瀧原宮でした。

ただ、なぜ伊勢だったのか、ということについては残念ながらほとんど触れられていません。伊勢の多気郡や度会郡が神郡とされて中央が重要視する神社が存在していたからと書かれていますが、中央が重要視する神社とはどこなのかがわかりません。さらには壬申の乱の際に伊勢の太陽神に道中の無事と勝利を祈った結果、乱に勝つことができたことにも触れますが、明確な理由とはしていません。

著者は「筑紫申真氏に従って、皇室の伊勢の祭祀の起点を天武天皇の時代においている」としており、この著書における伊勢神宮に関する論考も概ねそれに従っているように感じるので、次はその筑紫申真氏の著書である『アマテラスの誕生』を見たいと思います。


※ゲーター祭り(「小学館デジタル大辞泉プラス」より)
三重県鳥羽市、志摩諸島に属する神島で、大晦日の夜から元旦の早朝にかけて行われる民俗行事。大晦日の晩に、日輪を模してグミの枝を束ね白い紙で巻いた“アワ”と呼ばれる大きな輪をつくり、それを元旦の早朝、東の浜に担ぎ出して紙矛をつけた長い竹の棒で高く突き上げる。アワが高くあがればあがるほど豊漁になると言われている。県の無形民俗文化財に指定。



(つづく)




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天照大神と伊勢神宮(第1部・1章)

2022年06月01日 | 伊勢神宮
●アマテラスは何者?

アマテラス(『古事記』では天照大御神、『日本書紀』では天照大神。以降、特別な意図がない限りにおいて天照大神と記します。)はいったい何者なのか、なぜ女神なのか。今回はこの疑問に対する自分なりの答えを出してみようと思って学習を開始しました。私の人生において天照大神を知ってからここに至るまでの経緯は次のような次第です。

幼少の頃、「かみさまのおはなし」という絵本を幼稚園で買ってもらった記憶があります。天の岩戸や因幡の白兎の話が載っていたと思います。その絵本に登場する天照大神は女神でした。それ以来、天照大神が女神であることに何の違和感も持たずに生きてきました。生まれてこの方、ずっと大阪に住んでいる私の小学校のときの修学旅行はお決まりの伊勢志摩方面。中学生の時に式年遷宮があって、その後すぐに新しい内宮を家族と参拝しました。大学生、社会人になってからも、お手頃な観光地である伊勢には車で何度も出かけては伊勢神宮を参拝しました。小学生の頃からここに天照大神が祀られていることは知っていたし、それが女神であることもわかっていましたが、そこに特別な意味があることなど知る由もありませんでした。

ところが数年前のあるとき、本屋さんで『誰が天照大神を女神に変えたのか?(武光誠著)』という本を見つけて、「えっ?天照大神はもとは男だったの?」と頭の上に「?」がいくつも並んだのです。それでその本を買って読んでみたのですが、今ひとつよくわからず、というか痒いところに手が届かず、読後はそのまま放置していました。

その後すぐくらいのタイミングで、とある大学の公開講座を受講しました。友人の紹介で知り合った宗教哲学の先生の講座で、古代の祭祀やそれにまつわる神社や神様を学ぶ非常に価値ある機会だったのですが、このときに伊勢神宮や天照大神の話に関連して『アマテラスの誕生(筑紫申真著)』という本が紹介されたのです。さっそく買って読んでみると、先生の講義と重なるところもあって大変面白く、天照大神や伊勢神宮に関する知識がグンと増えました。

そして今から一年前の2021年5月、車中泊旅で名古屋から大阪の自宅に戻る途中、三重県津市に住む奥さんの友人宅を訪ねることになりました。私はお会いするのは初めてだったのですが、このときを機にFacebookでつながることになり、ブログも見ていただくようになりました。そして古代史好きな私に「神島で毎年元旦の早朝に行われるゲーター祭りは古代史と何か関係あるのかな」と質問がとんできました。実はこの友人、ゲーター祭りが行われる神島の出身なのです。ゲーター祭りのことは前述の公開講座でも聴き、『アマテラスの誕生』にも書いてあったにも関わらず、すぐに返答できませんでした。

年が明けて今年の1月、古代史コミュニティ「古代史日和」のオンラインサロンの企画で、天孫降臨神話に登場する鹿児島の笠沙岬(野間岬)や伊勢神宮別宮の瀧原宮へ行ったときのことを紹介する機会がありました。その発表に際しての質疑応答対策として事前にいろいろと調べて整理するうちに、あらためて天孫降臨神話や伊勢神宮、それに関連してゲーター祭りへの興味が高まりました。

そんな経緯があって「天照大神」を詳しく調べようと思い立ったのです。そして、専門家の書籍や論文を読んでいくうちに、天照大神のことを知ることは即ち伊勢神宮の成り立ちを知ることに他ならない、ということがわかってきました。天照大神に関する書籍や論文を読むと必ず伊勢神宮のことに多くの文字数が費やされていますし、伊勢神宮の成立を考える際にも天照大神は避けて通れないようです。そういうことで、今回の学習テーマを「天照大神と伊勢神宮」として少し幅を広げて自分の考えを作ってみたいと思います。

次回以降、わたしが読んだ天照大神や伊勢神宮に関するいくつかの書籍や論文の内容について、それぞれの著書からの引用を用いながらダイジェスト的に紹介しますが、他の専門家からの反論やわたしの意見、疑問などを挟んだ文章になることをお断りしておきます。

<伊勢神宮の位置>

 (国土地理院Webサイトより)

(つづく)


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