古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

饒速日命の考察①

2017年02月19日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 当ブログの第一部でも触れておいた饒速日命(古事記では「邇藝速日命」)の降臨伝承について今一度、考えてみたい。まず、第一部の内容を確認する。(詳しくは第一部の「饒速日命」「先代旧事本紀と勘注系図」「饒速日命の降臨」などを参照してください)

 日本書紀において物部氏の祖先とされる饒速日命は、天磐船に乗って大空を廻ったときに「虚空見日本国(そらみつやまとのくに)」と言って、神武天皇に先立って大和に降り、大和のクニを治めていた。そのクニの中心は現在の唐古・鍵遺跡と考える。また、古事記では神武の後を追って天降って来たことになっているが、いずれにしても彼は天神の表物(書紀では天羽々矢と步靫、古事記では天津神の印である宝物とだけ記される)を持った天津神であった。神武天皇の祖先である瓊々杵尊は高天原から日向の高千穂の峯に降臨したが、これは天孫族と言われる集団が大陸の江南地方を脱出して南九州の薩摩半島に漂着したことを物語っている。一方の饒速日命はどこからやってきてどこに辿り着いたのか。最終目的地は少なくとも大和であることは容易に想像ができるが、記紀ではその出発地も降臨の地も具体的に記していない。饒速日命の降臨を詳しく記す史料として先代旧事本紀と海部氏勘注系図がある。前者は物部氏および尾張氏の、後者は丹後の海部氏の系譜や伝承が記されるものであり、史料としての価値に疑問を抱く考えもあるが、記紀同様にその記述内容には何らかの史実が反映されているとの考えから、両史料にある饒速日命の降臨伝承にもその史実性を認めるとの立場で次のように考えた。

 旧事本紀によると、饒速日命は天神の御祖神の命令で天の磐船に乗り、河内国の河上の哮峯(いかるがみね)に天降ったとある。天神の御祖神を天照大神と解すれば饒速日命は瓊々杵尊同様に高天原の天照大神の命で河内国に降臨した後に大倭国の鳥見の白庭山に遷り、土着の長髓彦の妹の御炊屋姫を娶って妃とした、つまり長髓彦を帰順させて大和を治めることとなった。ここでは出発地は不明であるが降臨地は河内国の哮峯であり、最終到着地は大和国の鳥見の白庭山であることがわかる。物部氏の本貫地は現在の大阪府八尾市渋川町あたりとされており、その祖先である饒速日命が降臨した地はその本貫地近辺の峯、すなわち生駒山地南嶺の高安山あるいはその東にある信貴山のいずれかであったろう。
 一方、勘注系図の降臨伝承からそのルートだけを抜き出して記すとこうなる。饒速日命は高天原から丹後国の伊去奈子嶽に降り、いったん高天原に戻った後、再び丹波国の凡海息津嶋(おおしあまのおきつしま)に降りた。そして由良之水門(ゆらのみなと)に遷り、天磐船に乗って空に登ってから凡河内国に降り、そのあと大和国鳥見白辻山に遷った。その後、再び天に昇って丹波国に遷って凡海息津嶋に留まり、最後は籠宮に天降った。整理すると「高天原→丹後国の伊去奈子嶽→高天原→丹波国の凡海息津嶋→由良之水門→凡河内国→大和国鳥見白辻山→丹波国の凡海息津嶋→籠宮」となる。
 ここには記紀や旧事本紀に記されていない出発地が記されており、それが瓊々杵尊と同じ高天原であるとなっている。さらに書紀は饒速日命が天神であることを明かしている(古事記にも同様の主旨の記述がある)ことからも、饒速日命の出発地は瓊々杵尊同様に中国江南の地を指すと考えた。江南を出て東シナ海を渡って南九州の薩摩半島に漂着したのが瓊々杵尊で、対馬海流に乗って日本海に入り、丹後の地に漂着したのが饒速日命である。これが第一部で考えた饒速日命降臨伝承の出発地と最終目的地である。

 さて、ここでいったん立ち止まってこの考えを修正したい。上述最後の部分で、記紀において饒速日命が瓊々杵尊と同じ天神であると記されていること、降臨の出発地が同じ高天原となっていること、の2点から、饒速日命も中国江南からの渡来人であるとしたが、さらに第一部ではこれを補強する材料として「対馬海流」の存在をあげた。つまり、中国江南を船で出て九州の西側で対馬海流に乗るとそのまま日本海に入り、さらには海流の蛇行によって丹後あたりに漂着する可能性が高いということだ。その可能性は今でも否定するものではないが、前述2つの理由から饒速日命が中国江南からの渡来人であり瓊々杵尊と同じ天神であったとするのは少し無理があるように感じている。

 神武を初代天皇とする天皇家による大和政権の確立と日本国支配の歴史を記すために編纂された記紀において、天皇家よりも先に大和の国を治める集団が存在し、天皇家がその集団を制圧して大和を乗っ取ったとすることは許しがたいことであった。とはいえ、記紀編纂時においてなお、それを完全に否定して歴史上から消し去ることもできないほどにその集団の存在は広く認知されていた。そこで記紀の編者はその集団を天皇家と同族ということにして、さらにその集団を制圧したのではなくて相手側から帰順してきたことにして事を治めようとした。このように考えたほうがより納得感が高まるように思うがどうだろうか。天神の表物をもって饒速日命を天孫族とした記紀を参照して編纂されたであろう旧事本紀・勘注系図ともに、饒速日命を瓊々杵尊の兄である天火明命と同一神として天孫族に位置づけ、より直接的に天皇家との関係を明示しているが、それぞれ物部氏、海部氏による創作であり、いずれも自らの系譜を天皇家とつなぐための作為であろう。また、丹後に漂着した饒速日命の出発地については、中国江南である可能性は残しつつも朝鮮半島の可能性も考えるべきであると思い直すに至った。以上の修正をもとに、饒速日命降臨伝承の考察を進める。

 旧事本紀によると饒速日命は降臨に際して、尾張連の祖である天香語山命ら32人の防御の人、物部造の祖である天津麻良ら五部人(いつとものお)、二田造ら五部の造、兵杖を帯びた25人の天物部(あまつもののべ)、さらには船長や舵取り、船子ら6人を率いて天降ったことが記される。物部氏の祖である饒速日命に随行したこれらの氏族は物部造や天物部はもとより皆が物部氏と何らかの関係がある氏族であったと言えよう。そしてここに登場する氏族名が河内や大和など畿内にある地名と一致する例が20以上あり、北九州の地名と一致する例も10以上、さらに両方に見られるのが9例ある。北九州では遠賀川下流域に地名をもつ氏族が多く、鳥越憲三郎氏などは北九州における物部氏の拠点であったとして、この北九州の物部氏が畿内へ移ってきて勢力を拡大したとしている。饒速日命の降臨伝承はこの史実を反映したものだというのだ。

 さて、私はこの遠賀川流域、とくに飯塚市にある立岩遺跡を中心にした地域を魏志倭人伝にある不弥国に比定している。この立岩遺跡は石包丁の生産・流通拠点として弥生時代中期にもっとも繁栄したが、倭人伝が記された弥生後期には戸数が千戸余り(千余家)となり、隣の奴国の二万余戸と比べるとかなり小さな規模になっていたようだ。このことも合わせて考えると、この地域の人民が集団で他の地域へ移ってしまった結果、国力の衰退を招くことになったと言えよう。その移住集団を率いたのが饒速日命であり、おそらく彼は不弥国の王とも言える人物であっただろう。不弥国は弥生中期に全盛期を迎えていたにも関わらず何らかの理由で不弥国を脱して東へ向かった。その理由はおそらく隣国である奴国の勢力拡大によるものだった。奴国は中国に朝貢し、西暦57年には後漢から「漢倭奴国王」の金印を授かるほどに、中国の後ろ盾によって倭国内での勢力を拡大していた。不弥国は奴国の攻勢にさらされて国外への退避を余儀なくされたのではないだろうか。結果、不弥国は国力を落とすことになった。

 ところで、先に饒速日命は不弥国の王であると書いたが、倭人伝によると不弥国は倭国の一員であった。そうすると、倭国連合に属する不弥国の王である饒速日命は狗奴国王である神武と敵対する勢力であったということだ。やはり饒速日命は天孫族ではなかったのだ。
 そして饒速日命が不弥国の王であったと考えたときに思い出すのが、神武東征において一行が宇佐に立ち寄ったあとに筑紫に向かっていることである。第一部においては北九州倭国との戦闘に勝利した神武が講和条約を締結するために向かったと考えたが、これについても考えを訂正したい。神武は大和において饒速日命を倒すため、まず本拠地の不弥国を叩いておきたかったのだ。不弥国はこのときすでに奴国による攻勢を受けて国力が衰えていたということは先述したが、それでもここを叩いておくことには意味があると考え、不弥国を攻撃するために筑紫へ向かった。こう考えたほうが東征の途中にわざわざ関門海峡を通って回り道をしたことの意味がよく理解できる。

(続く)



古代海部氏の系図
金久 与市
學生社


弥生の王国―北九州古代国家と奴国の王都 (中公新書)
鳥越 憲三郎
中央公論社




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