當麻蹶速に勝利した野見宿禰は蹶速の土地を貰い受け、そのまま大和に住んでいた。垂仁28年に天皇の同母弟である倭彦命が亡くなったときに近習の者を殉葬したが、その状況に心を痛め、今後は殉葬をやめるように指示をした。そして垂仁32年、皇后の日葉酢媛が亡くなった。殉葬をやめることにしたが后の葬(もがり)をどうするかを臣下に問うたところ、野見宿禰が自分に考えさせてくれと申し出た。野見宿禰は出雲から百人の土部(はじべ)を呼び寄せて、埴土(粘土)で人や馬など、いろいろな物の形を造って、これからは生きた人間に替えてこれらを墓に立てることにしてはどうかと天皇に奏上した。埴輪の起源である。天皇はおおいに喜んで、これらの埴輪を日葉酢媛の墓に立てることにした。そして、今後は陵墓には人ではなく埴輪を立てるように言った。それで野見宿禰を土師職(はじのつかさ)に任じ、土部臣(はじのおみ)の姓を与えた。
まず、古代に殉葬が本当に行われたのかどうかについては、魏志倭人伝に卑弥呼が死去した際に「百余人のを殉葬した」との記載があること、書紀における大化2年の薄葬令の記事においても「人が死んだ時に殉死したり、殉死させたりしてはいけない」とあることから、殉葬はあったと考えることができるだろう。
しかし、過去の発掘において殉死あるいは殉葬が確認された例はないとされている。それは同じ墓に複数の埋葬跡が検出されたとしてもそれが殉死や殉葬であるかどうかわからないだけのことである。弥生時代の集団墓、あるいは墳丘墓に複数の埋葬主体があるような場合は殉葬の可能性は十分にありそうだ。古墳においても複数の埋葬主体がでたり、玄室に複数の棺が見つかる場合があるが、それが殉死あるいは殉葬か否か判別できないだけだ。陪塚に葬られている場合も同様だ。倭彦命の殉葬の記述は「悉生而埋立於陵域」となっており古墳の周囲に埋められたと考えられるので、その場合は古墳の周囲で人骨が出土すれば殉葬の可能性がかなり高いと言えるだろうが、残念ながら今までのところその例は見られない。
倭彦命の墓、身狭桃花鳥坂墓(むさのつきさかのはか)は宮内庁により奈良県橿原市鳥屋町にある桝山古墳(ますやまこふん)に比定されている。5世紀前半の古墳で墳丘に埴輪が確認されている。築造が5世紀前半というのは垂仁天皇の時代を1世紀以上くだると思われることと、墳丘に埴輪が出たことは殉葬の記事と矛盾することから、この墓の被葬者は倭彦命かどうか疑わしい。
ちなみに私は第11代垂仁天皇の治世を3世紀後半と考えている。第10代の崇神天皇が卑弥呼の後の男王であるとして、古事記にある崇神の没年である戊寅を258年と考えると、垂仁は3世紀後半の天皇となる。
日葉酢媛命の墓、狹木之寺間陵(さきのてらまのみささぎ)は同様に宮内庁により奈良県奈良市山陵町にあるに全長207メートルの前方後円墳である佐紀陵山古墳に比定されており、この古墳の築造は4世紀末頃とされている。書紀によるとこの日葉酢媛の墓が初めて殉葬に代えて埴輪を並べたことになる。竪穴式石室の上から複数の衣笠形埴輪と盾形埴輪が出ているのであるが、この古墳の築造も垂仁の治世を大きく外れていると考えられる。
いずれにしても、野見宿禰はこの時に土部職に任じられ、土部臣すなわち土師氏の祖になったとある。世界大百科事典第二版によると、土師氏は「埴輪の製作や陵墓の造営に従事し、また、大王の喪葬儀礼に関与した古代の豪族」とある。埴輪は材料となる埴土(はにつち)を用いて製作するので、ハニを使う人→ハニ師→土師氏、となったのはわかりやすいが、陵墓の造営や喪葬儀礼にまで関わっていたという。しかし、喪葬儀礼への関与は埴輪の製作や埋納作業の延長と考えると理解できるとしても、陵墓の造営とは少し驚きだ。埴輪製作で土を扱うから土師氏と呼ばれたのではなく、陵墓造営のために大量の土を取り扱うことが由来となっているのではないだろうか。古代における最大の構造物は古墳であり、土師氏はその最大構造物を建造する現代で言うゼネコンであったわけだ。とすると土師氏は古代屈指の技術者集団であり、土木者集団であったとも言える。造営地の選定、労働力の確保、土の採取と運搬、古墳の設計と造営などを担うわけだから、天皇家のみならず古墳を設けた各地の豪族とのつながりも強力であっただろう。
土師氏は最初は古墳が造営されるところを転々としていたのだろうが、古墳が大規模化し、あるいは同じところにいくつもの古墳が造営されて古墳群が形成されるようになると、その土地に定住するようになった。そのため大和、河内、吉備などが土師氏の本貫地とされている。とくに河内には「土師の里」と呼ばれる地域があり、土師氏の氏寺である道明寺がある。土師氏一族はこの土師の里に居を構えて、応神天皇陵のある古市古墳群、仁徳天皇陵のある百舌古墳群の造営を担ったのだ。
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まず、古代に殉葬が本当に行われたのかどうかについては、魏志倭人伝に卑弥呼が死去した際に「百余人のを殉葬した」との記載があること、書紀における大化2年の薄葬令の記事においても「人が死んだ時に殉死したり、殉死させたりしてはいけない」とあることから、殉葬はあったと考えることができるだろう。
しかし、過去の発掘において殉死あるいは殉葬が確認された例はないとされている。それは同じ墓に複数の埋葬跡が検出されたとしてもそれが殉死や殉葬であるかどうかわからないだけのことである。弥生時代の集団墓、あるいは墳丘墓に複数の埋葬主体があるような場合は殉葬の可能性は十分にありそうだ。古墳においても複数の埋葬主体がでたり、玄室に複数の棺が見つかる場合があるが、それが殉死あるいは殉葬か否か判別できないだけだ。陪塚に葬られている場合も同様だ。倭彦命の殉葬の記述は「悉生而埋立於陵域」となっており古墳の周囲に埋められたと考えられるので、その場合は古墳の周囲で人骨が出土すれば殉葬の可能性がかなり高いと言えるだろうが、残念ながら今までのところその例は見られない。
倭彦命の墓、身狭桃花鳥坂墓(むさのつきさかのはか)は宮内庁により奈良県橿原市鳥屋町にある桝山古墳(ますやまこふん)に比定されている。5世紀前半の古墳で墳丘に埴輪が確認されている。築造が5世紀前半というのは垂仁天皇の時代を1世紀以上くだると思われることと、墳丘に埴輪が出たことは殉葬の記事と矛盾することから、この墓の被葬者は倭彦命かどうか疑わしい。
ちなみに私は第11代垂仁天皇の治世を3世紀後半と考えている。第10代の崇神天皇が卑弥呼の後の男王であるとして、古事記にある崇神の没年である戊寅を258年と考えると、垂仁は3世紀後半の天皇となる。
日葉酢媛命の墓、狹木之寺間陵(さきのてらまのみささぎ)は同様に宮内庁により奈良県奈良市山陵町にあるに全長207メートルの前方後円墳である佐紀陵山古墳に比定されており、この古墳の築造は4世紀末頃とされている。書紀によるとこの日葉酢媛の墓が初めて殉葬に代えて埴輪を並べたことになる。竪穴式石室の上から複数の衣笠形埴輪と盾形埴輪が出ているのであるが、この古墳の築造も垂仁の治世を大きく外れていると考えられる。
いずれにしても、野見宿禰はこの時に土部職に任じられ、土部臣すなわち土師氏の祖になったとある。世界大百科事典第二版によると、土師氏は「埴輪の製作や陵墓の造営に従事し、また、大王の喪葬儀礼に関与した古代の豪族」とある。埴輪は材料となる埴土(はにつち)を用いて製作するので、ハニを使う人→ハニ師→土師氏、となったのはわかりやすいが、陵墓の造営や喪葬儀礼にまで関わっていたという。しかし、喪葬儀礼への関与は埴輪の製作や埋納作業の延長と考えると理解できるとしても、陵墓の造営とは少し驚きだ。埴輪製作で土を扱うから土師氏と呼ばれたのではなく、陵墓造営のために大量の土を取り扱うことが由来となっているのではないだろうか。古代における最大の構造物は古墳であり、土師氏はその最大構造物を建造する現代で言うゼネコンであったわけだ。とすると土師氏は古代屈指の技術者集団であり、土木者集団であったとも言える。造営地の選定、労働力の確保、土の採取と運搬、古墳の設計と造営などを担うわけだから、天皇家のみならず古墳を設けた各地の豪族とのつながりも強力であっただろう。
土師氏は最初は古墳が造営されるところを転々としていたのだろうが、古墳が大規模化し、あるいは同じところにいくつもの古墳が造営されて古墳群が形成されるようになると、その土地に定住するようになった。そのため大和、河内、吉備などが土師氏の本貫地とされている。とくに河内には「土師の里」と呼ばれる地域があり、土師氏の氏寺である道明寺がある。土師氏一族はこの土師の里に居を構えて、応神天皇陵のある古市古墳群、仁徳天皇陵のある百舌古墳群の造営を担ったのだ。
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