継体天皇の母、振媛の父方は三尾氏の後裔であり、その三尾氏は近江の高嶋郡を拠点とするが、越前、能登へと移動した一派がいた可能性がある。また、振媛の母方は加賀の江沼郡を拠点とする余奴臣(江沼氏)である。このことから振媛は、越前国坂井郡にやってきた三尾氏と加賀国江沼郡の江沼氏との間にできた娘と考えることができ、彼女の故郷が越前国坂井郡の高向であることとも符合する。
さて、三尾氏が三国氏と近しい関係、あるいは同族関係という説があることを先に紹介したが、その三国氏についても考えておく必要があるだろう。というのも、三国氏あるいは三国は継体天皇や振媛の出自を見ていく中で何度も登場するので、そこに何らかの関係性がありそうなのだ。記紀及び上宮記には継体天皇に関連する「三国」が次のように記載される。
①彦主人王は振媛を召し入れるために越前国三国の坂中井へ使者を派遣した。(書紀・上宮記)
②彦主人王の薨去後、振媛は「親族のいないところにいて独りで皇子を育てるのは難しい。先祖の三国命のいる高向村に下がります」と言った。(上宮記)
③大伴の金村らは男大迹王に皇位を継承してもらうために臣や連たちを派遣して三国に迎えに行かせた。(書紀)
④彦主人王の祖父である大郎子(意富富杼王)は、三国君・息長君・坂田君などの祖であった。(古事記)
⑤三尾君堅楲(かたひ)の娘である倭媛が継体の妃になって生んだ椀子皇子(まろこのみこ)は三国公の祖となっている。(書紀)
ここには5つの「三国」が登場しているが①および③は地名である。①について、越前国坂中井は坂井郡を指すと考えるが、三国という地名が越前国のうしろで坂中井よりも前にあるので、越前国よりも狭くて坂井郡よりも広い地域を指している。一般的に三国の名がつく地名は、三国山、三国岳、三国峠、三国ヶ丘など現在でも残っており、これらは三つの国の境界にある山や峠を意味している。越前の三国も三つの国を総称した地名であると素直に考えるのがいいだろうが、ここでいう国は律令制における国ではなく、範囲としては郡に相当すると考えるのが妥当であろう。
律令制における郡で該当しそうなところは、越前国においては坂井郡とそのすぐ南にある足羽郡、そして3つ目として西側の丹生郡や東の大野郡が考えられるが、3つ目はそのいずれでもなく、加賀国の江沼郡が妥当ではないだろうか。加賀国は分国前は越前国の一部であり、江沼郡は振媛の母方の出身氏族である余奴臣(江沼氏)の拠点で、坂井郡の北で境界を接していたことは先に書いたとおりである。そして、③の三国についても①と同じ地域と考えて問題ないであろう。
あとの3つの「三国」は人名あるいは氏族名であるが、先に見た三尾氏がそうであったように氏族名と地名は密接な関係にあることが多く、この場合も①や③にある地名の三国(おそらく越前国坂井郡を中心とする一帯)との関連性が強いことが想定される。つまり、三国を本拠地にしたのが三国氏であるということだ。②の三国命については振媛の祖先の中に三国を名乗る人物がいたことになるが、その場合であっても地名に由来している可能性が高いだろう。
「福井県史 通史編1 原始・古代」には「上宮記には『命』のついた人名が三国命以外に三例あり、いずれも継体天皇の直系尊属の女性ばかりである。上宮記の母系を三尾氏の系譜とみれば、三国命は振媛の母である阿那余比弥(あなにひめ)をさしている可能性が強い」とある。
福井県史はさらに「振媛の直系尊属のなかに三国命と名のる人物がいたことは確実であり、これは三尾と三国の同族説に重要な論拠を与えるものである。三国氏と三尾氏を同族とすれば、三尾氏からは継体天皇に二人の妃を出しているし、また継体天皇の母振媛も三尾氏出身と考えられるので、三国・三尾氏の同族関係を矛盾なく理解することができる」と続ける。
この「三国命は振媛の母である阿那余比弥をさしている」という説はどうであろう。上宮記一云において阿那余比弥は余奴臣(江沼氏)の祖となっているので三国氏と関係があるとは考えにくい。三国命は三国氏と関係がなく、あくまで地名の三国からの名であるということだろう。
三尾氏は継体天皇に二人の妃を出しているが、その一人が⑤にある三尾君堅楲の娘である倭媛である。子の椀子皇子は三国公の祖となっていることから三国氏の母方が三尾氏ということになる。もうひとりの三尾氏の妃は三尾角折君の妹である稚子媛である。古事記では「三尾君等の祖、若比売」と記され、継体の后妃の筆頭に挙げられる。継体天皇は母の振媛を通じて三尾氏とつながっているだけでなく、自らも三尾氏と関係を結んだ。その三尾氏は三国氏と同族あるいはかなり近しい関係にあったことがわかる。
また、わずかではあるが継体自身も三国氏とつながっている。④によると三国氏は継体の曾祖父である大郎子(意富富杼王)を祖とすることから、三国氏と継体は遠い親戚ということになる。
684年、天武天皇は皇親政治による新しい国家体制を作り上げる政策の一環として八色の姓を定めた。具体的には、真人・朝臣・宿禰・忌寸・道師・臣・連・稲置の八つの姓である。特に真人・朝臣・宿禰・忌寸の四姓については、旧来の臣・連の中から天皇家と関係の深い氏族を対象にこれらの姓を与え、新しい身分秩序によって皇族の地位を高めようとした。上級官人と下級官人の家柄を明確にするとともに、中央貴族と地方豪族とを区別する意味合いもあった。
そしてこのとき最上位の真人姓が与えられたのは、守山公・路公(みちのきみ)・高橋公・三国公・当麻公・茨城公(うまらきのきみ)・丹比公(たぢひのきみ)・猪名公(いなのきみ)・坂田公・羽田公・息長公・酒人公・山道公の13氏であった。記紀や新撰姓氏録によると、そのほとんどが応神天皇あるいは継体天皇の系譜につながる氏族であることがわかる。三国・息長・坂田・酒人・山道・羽田の各氏が意富富杼王を祖とすることが古事記に記されていることは先に見た通りである。継体天皇から系譜をつなぐ天武天皇の目論んだ皇親政治の中核をなすのが真人姓を与えられた13氏であり、三国氏もその一翼を担うこととなった。
さて、継体天皇とつながる三国氏が真人姓を与えられたことは理解できるとしても、ここに三尾氏が入っていないことが気になる。天武天皇の時にはすでに没落していたのであろうか。彦主人王の時代から200年以上の年月を経ているためにその可能性は否定できないが、そこからさらに20年ほどを経た8世紀初めに編纂された記紀に垂仁天皇の子である磐衝別命が三尾氏の先祖であるとわざわざ注記していることをどのように考えるか。検証する術がないが、三尾氏が三国氏に改姓した、あるいは三尾氏から出た三国氏が本家を吸収したなどの理由で三尾の名が消えたものの、真人の姓を賜るほどの名家である三国氏の本宗家が三尾氏であったことは記紀編纂の時点でも周知のことであり、その三尾氏から二人の女性が継体の妃となっている。三国氏の要請によるものなのか、それとも天武自らの指示によるものなのか、誰かの意向でそのことが書き記されることになった、と考えるのはどうだろうか。
さて、三尾氏が三国氏と近しい関係、あるいは同族関係という説があることを先に紹介したが、その三国氏についても考えておく必要があるだろう。というのも、三国氏あるいは三国は継体天皇や振媛の出自を見ていく中で何度も登場するので、そこに何らかの関係性がありそうなのだ。記紀及び上宮記には継体天皇に関連する「三国」が次のように記載される。
①彦主人王は振媛を召し入れるために越前国三国の坂中井へ使者を派遣した。(書紀・上宮記)
②彦主人王の薨去後、振媛は「親族のいないところにいて独りで皇子を育てるのは難しい。先祖の三国命のいる高向村に下がります」と言った。(上宮記)
③大伴の金村らは男大迹王に皇位を継承してもらうために臣や連たちを派遣して三国に迎えに行かせた。(書紀)
④彦主人王の祖父である大郎子(意富富杼王)は、三国君・息長君・坂田君などの祖であった。(古事記)
⑤三尾君堅楲(かたひ)の娘である倭媛が継体の妃になって生んだ椀子皇子(まろこのみこ)は三国公の祖となっている。(書紀)
ここには5つの「三国」が登場しているが①および③は地名である。①について、越前国坂中井は坂井郡を指すと考えるが、三国という地名が越前国のうしろで坂中井よりも前にあるので、越前国よりも狭くて坂井郡よりも広い地域を指している。一般的に三国の名がつく地名は、三国山、三国岳、三国峠、三国ヶ丘など現在でも残っており、これらは三つの国の境界にある山や峠を意味している。越前の三国も三つの国を総称した地名であると素直に考えるのがいいだろうが、ここでいう国は律令制における国ではなく、範囲としては郡に相当すると考えるのが妥当であろう。
律令制における郡で該当しそうなところは、越前国においては坂井郡とそのすぐ南にある足羽郡、そして3つ目として西側の丹生郡や東の大野郡が考えられるが、3つ目はそのいずれでもなく、加賀国の江沼郡が妥当ではないだろうか。加賀国は分国前は越前国の一部であり、江沼郡は振媛の母方の出身氏族である余奴臣(江沼氏)の拠点で、坂井郡の北で境界を接していたことは先に書いたとおりである。そして、③の三国についても①と同じ地域と考えて問題ないであろう。
あとの3つの「三国」は人名あるいは氏族名であるが、先に見た三尾氏がそうであったように氏族名と地名は密接な関係にあることが多く、この場合も①や③にある地名の三国(おそらく越前国坂井郡を中心とする一帯)との関連性が強いことが想定される。つまり、三国を本拠地にしたのが三国氏であるということだ。②の三国命については振媛の祖先の中に三国を名乗る人物がいたことになるが、その場合であっても地名に由来している可能性が高いだろう。
「福井県史 通史編1 原始・古代」には「上宮記には『命』のついた人名が三国命以外に三例あり、いずれも継体天皇の直系尊属の女性ばかりである。上宮記の母系を三尾氏の系譜とみれば、三国命は振媛の母である阿那余比弥(あなにひめ)をさしている可能性が強い」とある。
福井県史はさらに「振媛の直系尊属のなかに三国命と名のる人物がいたことは確実であり、これは三尾と三国の同族説に重要な論拠を与えるものである。三国氏と三尾氏を同族とすれば、三尾氏からは継体天皇に二人の妃を出しているし、また継体天皇の母振媛も三尾氏出身と考えられるので、三国・三尾氏の同族関係を矛盾なく理解することができる」と続ける。
この「三国命は振媛の母である阿那余比弥をさしている」という説はどうであろう。上宮記一云において阿那余比弥は余奴臣(江沼氏)の祖となっているので三国氏と関係があるとは考えにくい。三国命は三国氏と関係がなく、あくまで地名の三国からの名であるということだろう。
三尾氏は継体天皇に二人の妃を出しているが、その一人が⑤にある三尾君堅楲の娘である倭媛である。子の椀子皇子は三国公の祖となっていることから三国氏の母方が三尾氏ということになる。もうひとりの三尾氏の妃は三尾角折君の妹である稚子媛である。古事記では「三尾君等の祖、若比売」と記され、継体の后妃の筆頭に挙げられる。継体天皇は母の振媛を通じて三尾氏とつながっているだけでなく、自らも三尾氏と関係を結んだ。その三尾氏は三国氏と同族あるいはかなり近しい関係にあったことがわかる。
また、わずかではあるが継体自身も三国氏とつながっている。④によると三国氏は継体の曾祖父である大郎子(意富富杼王)を祖とすることから、三国氏と継体は遠い親戚ということになる。
684年、天武天皇は皇親政治による新しい国家体制を作り上げる政策の一環として八色の姓を定めた。具体的には、真人・朝臣・宿禰・忌寸・道師・臣・連・稲置の八つの姓である。特に真人・朝臣・宿禰・忌寸の四姓については、旧来の臣・連の中から天皇家と関係の深い氏族を対象にこれらの姓を与え、新しい身分秩序によって皇族の地位を高めようとした。上級官人と下級官人の家柄を明確にするとともに、中央貴族と地方豪族とを区別する意味合いもあった。
そしてこのとき最上位の真人姓が与えられたのは、守山公・路公(みちのきみ)・高橋公・三国公・当麻公・茨城公(うまらきのきみ)・丹比公(たぢひのきみ)・猪名公(いなのきみ)・坂田公・羽田公・息長公・酒人公・山道公の13氏であった。記紀や新撰姓氏録によると、そのほとんどが応神天皇あるいは継体天皇の系譜につながる氏族であることがわかる。三国・息長・坂田・酒人・山道・羽田の各氏が意富富杼王を祖とすることが古事記に記されていることは先に見た通りである。継体天皇から系譜をつなぐ天武天皇の目論んだ皇親政治の中核をなすのが真人姓を与えられた13氏であり、三国氏もその一翼を担うこととなった。
さて、継体天皇とつながる三国氏が真人姓を与えられたことは理解できるとしても、ここに三尾氏が入っていないことが気になる。天武天皇の時にはすでに没落していたのであろうか。彦主人王の時代から200年以上の年月を経ているためにその可能性は否定できないが、そこからさらに20年ほどを経た8世紀初めに編纂された記紀に垂仁天皇の子である磐衝別命が三尾氏の先祖であるとわざわざ注記していることをどのように考えるか。検証する術がないが、三尾氏が三国氏に改姓した、あるいは三尾氏から出た三国氏が本家を吸収したなどの理由で三尾の名が消えたものの、真人の姓を賜るほどの名家である三国氏の本宗家が三尾氏であったことは記紀編纂の時点でも周知のことであり、その三尾氏から二人の女性が継体の妃となっている。三国氏の要請によるものなのか、それとも天武自らの指示によるものなのか、誰かの意向でそのことが書き記されることになった、と考えるのはどうだろうか。