2022年5月3日・4日の二日間、古代史コミュニティ「古代史日和」が企画・運営する古代史ツアーに参加しました。
初日の5月3日は「巨勢氏の痕跡を追う&話題の牽牛子塚古墳」と題して、次のようなルートを巡りました。
近鉄飛鳥駅集合→牽牛子塚古墳→許世都比古命神社→岩屋山古墳→市尾墓山古墳→市尾宮塚古墳→南水泥古墳→北水泥古墳→近鉄吉野口駅解散
まずは話題の牽牛子塚古墳。7世紀後葉の築造と推定され、第37代斉明天皇(第35代皇極天皇)の陵と考えられています。
想像通りのガッカリでした。発掘調査の結果をもとに復元されたのでしょうが、天皇陵として特徴的な八角墳であることを除き、飛鳥地方にある同時代の古墳とはあまりにかけ離れた姿を見て、本当にこんな姿をしていたのだろうか、という疑問を払しょくできませんでした。何よりもコンクリートで固められていたことが一番のガッカリでした。予約者以外は石室内を見学できなかったことも含めて、誰のために、何のために復元したのでしょうか。この姿は古墳に対する誤解を生むかも。
牽牛子塚古墳にくっつくようにあったのが越塚御門古墳という名の小さな方墳。同行の大先輩がつぶやきました。「牽牛子塚は『牽の牛子塚』と考えれば『牽の越塚』で越塚御門古墳との名前のつながりがあるんだけどなあ。」 なるほどです。
さて、巨勢氏の痕跡を訪ねる第一弾が次の許世都比古命神社。祭神はその名の通りの許世都比古命。許世都比古命は巨勢小柄宿禰のことで巨勢氏の祖。この神社が鎮座する地が「越」というところで「許世」が「越」に変化したとされていますが、そもそも何故この飛鳥の地に巨勢氏の祖神が祀られているのかを不思議に思っていると、先の大先輩が再びつぶやきます。
「『世』は『し』と読むことができるので、許世は『こせ』ではなく『こし』で、本当に巨勢氏と関係あるのかなあ。」 これまた、なるほど。そうすると「許世(こせ)」が「越(こし)」に変化したのではなく、もっと言えばこの神社は巨勢氏と関係なく、むしろ「牽牛子塚(牽の越塚)古墳や越塚御門古墳」とつながると考えることができるのです。
飛鳥駅に戻る途中に岩屋山古墳へ。古墳時代終末期の一辺45m前後の方墳ですが、切石加工が施された巨石を隙間なく組み合わせた石室にビックリです。牽牛子塚古墳の巨石をくり抜いて造られた横穴式石槨、その失敗作ともされる益田岩船、亀石、猿石、須弥山石などなど、飛鳥は石の加工を専門にする技術者集団がいたことは間違いない。
次は飛鳥駅から近鉄に乗って二駅目の市尾駅へ。昨年の冬に来た市尾墓山古墳と宮塚古墳です。前回の時には気がつかなかったのだけど、墓山古墳の墳丘から二上山が望めました。
市尾墓山古墳は全長約63mの前方後円墳。宮塚古墳も全長約44mの前方後円墳で、両墳は6世紀初頭から前半にかけて巨勢氏の首長墓としてあいついで築造されたものと考えられ、特に前者は巨勢男人の墓と推定されています。
宮塚古墳で再び大先輩の知見が爆発。宮塚古墳は小さな山を登ったところにある天満神社の社殿の右手にあるのですが、社殿と古墳の間に遙拝所というところがあります。この遙拝所は古墳の方を向いているので、この近さで遙拝というのはおかしいと思いながらも古墳を拝む場所だと思っていたのですが。
大先輩曰く、「この遙拝所は北に向いていませんか。北の方に何かないですか。」 すぐにGoogleMapを見ると驚いたことに、真北ではないものの橿原神宮があるではないですか。「天満神社というのは本来は天津神を祀る神社で、全国にある菅原道真を祭神とする天満神社は商売目的に祭神を変えたんだよ。」 この遙拝所は橿原神宮あるいは神武天皇を遥拝する場所だったのです。
さあ、いよいよ最後の目的地へ。市尾駅からさらに二駅乗って吉野口駅で下車、少し歩いて南水泥古墳と北水泥古墳へ。こちらは私有地にある古墳なので、所有者の方のご了解を得て見学しました。見学させてもらえるだけかと思っていると、なんと解説までしていただき、さらにはご自宅内の資料室に保管された出土物も見せていただきました。
南水泥古墳は6世紀後葉の築造で直径25mの円墳です。玄室と羨道にそれぞれ1基ずつの家形石棺が置かれていて、玄室のものは二上山の凝灰岩を、羨道のものは兵庫県加古川流域の竜山石が使われ、後者はブランド石だそうです。こちらの石棺の縄掛け突起には蓮華文があって、古墳文化と仏教文化の結合とされていますが、大先輩は6世紀で仏教の影響はホントかな、と。出土した須恵器や金銅製の耳環は実物を見せていただきました。
北水泥古墳は6世紀中頃の築造で直径約20mの円墳です。石舞台を彷彿とさせる両袖式の大規模な横穴式石室に入らせてもらいました。副葬品はないものの、追葬時に使用したと考えられる瓦質円筒状の配水管が見つかっていて、これもみせていただきました。
最後の南北の水泥古墳は所有者の方のご厚意で見学させていただいたので、ここで写真とともに紹介することに少し躊躇があるのですが、お名前、お顔、ご自宅内などを出さずにお許しいただけそうなギリギリと考えた貴重な情報を出させていただきました。ここに所有者の方に厚く御礼を申し上げます。
紀路(巨勢路)に沿って北から、市尾墓山古墳(6世紀初頭)→市尾宮塚古墳(6世紀前半)→北水泥古墳(6世紀中頃)→南水泥古墳(6世紀後葉)と順に6世紀の4代にわたる巨勢氏の首長墓(と思われる古墳)を見学しました。都のあった飛鳥から紀伊国、さらには紀ノ川を下って瀬戸内海、そして朝鮮半島へと続く要地を押さえた巨勢氏を感じることができました。次の機会があれば巨勢寺跡や巨勢山口神社なども訪ねてみようと思います。
↓↓↓↓↓↓↓電子出版しました。ぜひご覧ください。
初日の5月3日は「巨勢氏の痕跡を追う&話題の牽牛子塚古墳」と題して、次のようなルートを巡りました。
近鉄飛鳥駅集合→牽牛子塚古墳→許世都比古命神社→岩屋山古墳→市尾墓山古墳→市尾宮塚古墳→南水泥古墳→北水泥古墳→近鉄吉野口駅解散
まずは話題の牽牛子塚古墳。7世紀後葉の築造と推定され、第37代斉明天皇(第35代皇極天皇)の陵と考えられています。
想像通りのガッカリでした。発掘調査の結果をもとに復元されたのでしょうが、天皇陵として特徴的な八角墳であることを除き、飛鳥地方にある同時代の古墳とはあまりにかけ離れた姿を見て、本当にこんな姿をしていたのだろうか、という疑問を払しょくできませんでした。何よりもコンクリートで固められていたことが一番のガッカリでした。予約者以外は石室内を見学できなかったことも含めて、誰のために、何のために復元したのでしょうか。この姿は古墳に対する誤解を生むかも。
牽牛子塚古墳にくっつくようにあったのが越塚御門古墳という名の小さな方墳。同行の大先輩がつぶやきました。「牽牛子塚は『牽の牛子塚』と考えれば『牽の越塚』で越塚御門古墳との名前のつながりがあるんだけどなあ。」 なるほどです。
さて、巨勢氏の痕跡を訪ねる第一弾が次の許世都比古命神社。祭神はその名の通りの許世都比古命。許世都比古命は巨勢小柄宿禰のことで巨勢氏の祖。この神社が鎮座する地が「越」というところで「許世」が「越」に変化したとされていますが、そもそも何故この飛鳥の地に巨勢氏の祖神が祀られているのかを不思議に思っていると、先の大先輩が再びつぶやきます。
「『世』は『し』と読むことができるので、許世は『こせ』ではなく『こし』で、本当に巨勢氏と関係あるのかなあ。」 これまた、なるほど。そうすると「許世(こせ)」が「越(こし)」に変化したのではなく、もっと言えばこの神社は巨勢氏と関係なく、むしろ「牽牛子塚(牽の越塚)古墳や越塚御門古墳」とつながると考えることができるのです。
飛鳥駅に戻る途中に岩屋山古墳へ。古墳時代終末期の一辺45m前後の方墳ですが、切石加工が施された巨石を隙間なく組み合わせた石室にビックリです。牽牛子塚古墳の巨石をくり抜いて造られた横穴式石槨、その失敗作ともされる益田岩船、亀石、猿石、須弥山石などなど、飛鳥は石の加工を専門にする技術者集団がいたことは間違いない。
次は飛鳥駅から近鉄に乗って二駅目の市尾駅へ。昨年の冬に来た市尾墓山古墳と宮塚古墳です。前回の時には気がつかなかったのだけど、墓山古墳の墳丘から二上山が望めました。
市尾墓山古墳は全長約63mの前方後円墳。宮塚古墳も全長約44mの前方後円墳で、両墳は6世紀初頭から前半にかけて巨勢氏の首長墓としてあいついで築造されたものと考えられ、特に前者は巨勢男人の墓と推定されています。
宮塚古墳で再び大先輩の知見が爆発。宮塚古墳は小さな山を登ったところにある天満神社の社殿の右手にあるのですが、社殿と古墳の間に遙拝所というところがあります。この遙拝所は古墳の方を向いているので、この近さで遙拝というのはおかしいと思いながらも古墳を拝む場所だと思っていたのですが。
大先輩曰く、「この遙拝所は北に向いていませんか。北の方に何かないですか。」 すぐにGoogleMapを見ると驚いたことに、真北ではないものの橿原神宮があるではないですか。「天満神社というのは本来は天津神を祀る神社で、全国にある菅原道真を祭神とする天満神社は商売目的に祭神を変えたんだよ。」 この遙拝所は橿原神宮あるいは神武天皇を遥拝する場所だったのです。
さあ、いよいよ最後の目的地へ。市尾駅からさらに二駅乗って吉野口駅で下車、少し歩いて南水泥古墳と北水泥古墳へ。こちらは私有地にある古墳なので、所有者の方のご了解を得て見学しました。見学させてもらえるだけかと思っていると、なんと解説までしていただき、さらにはご自宅内の資料室に保管された出土物も見せていただきました。
南水泥古墳は6世紀後葉の築造で直径25mの円墳です。玄室と羨道にそれぞれ1基ずつの家形石棺が置かれていて、玄室のものは二上山の凝灰岩を、羨道のものは兵庫県加古川流域の竜山石が使われ、後者はブランド石だそうです。こちらの石棺の縄掛け突起には蓮華文があって、古墳文化と仏教文化の結合とされていますが、大先輩は6世紀で仏教の影響はホントかな、と。出土した須恵器や金銅製の耳環は実物を見せていただきました。
北水泥古墳は6世紀中頃の築造で直径約20mの円墳です。石舞台を彷彿とさせる両袖式の大規模な横穴式石室に入らせてもらいました。副葬品はないものの、追葬時に使用したと考えられる瓦質円筒状の配水管が見つかっていて、これもみせていただきました。
最後の南北の水泥古墳は所有者の方のご厚意で見学させていただいたので、ここで写真とともに紹介することに少し躊躇があるのですが、お名前、お顔、ご自宅内などを出さずにお許しいただけそうなギリギリと考えた貴重な情報を出させていただきました。ここに所有者の方に厚く御礼を申し上げます。
紀路(巨勢路)に沿って北から、市尾墓山古墳(6世紀初頭)→市尾宮塚古墳(6世紀前半)→北水泥古墳(6世紀中頃)→南水泥古墳(6世紀後葉)と順に6世紀の4代にわたる巨勢氏の首長墓(と思われる古墳)を見学しました。都のあった飛鳥から紀伊国、さらには紀ノ川を下って瀬戸内海、そして朝鮮半島へと続く要地を押さえた巨勢氏を感じることができました。次の機会があれば巨勢寺跡や巨勢山口神社なども訪ねてみようと思います。
↓↓↓↓↓↓↓電子出版しました。ぜひご覧ください。