崇神天皇の事跡もいよいよ終盤である。
即位60年7月 出雲大社に収められている神宝を見たいと言い、武諸隅を遣わした。
ことの経緯は次の通り。
この神宝は武日照命(たけひなてるのみこと)が天より持って来たものである。この神宝を奉らせるために矢田部造の先祖である武諸隅(たけもろすみ)を遣わした。このときこの神宝を管理していたのは出雲臣の先祖である出雲振根(ふるね)であったが、彼は筑紫の国に行っていたので会えなかった。そこで弟の飯入根(いいいりね)が皇命を承って、その弟の甘美韓日狭(うましからひさ)と子の鸕濡渟(うかずくね)に託して献上した。
出雲振根は筑紫から帰ってきて、神宝を献上したと聞いて飯入根を責めた。数年を経てもこのときの恨みと怒りは去らず、弟を殺そうと考えた。そこで止屋(やむや=島根県出雲市今市町・大津町・塩谷町付近)の淵に誘い出した。振根は密かに本物の太刀にそっくりな木刀を作って、その木刀を帯刀して行った。淵についたときに兄は弟に「水が清らかなので水浴びをしよう」と言った。弟は兄の言葉に従い、それぞれ帯刀していた太刀を抜いて淵のそばに置いて水に入った。兄は先に上がって弟の本物の太刀を帯刀し、続いて弟が上がって兄の木刀を手に取った。そのとき、互いに刀を斬り込むことになったが弟は木刀なので抜く事も出来ず、兄は弟を撃ち殺した。
甘美韓日狭と子の鸕濡渟はその様子を詳しく朝廷に報告したところ、吉備津彦と武渟河別を遣わして出雲振根を殺させた。
その後、出雲臣たちは討伐を恐れるあまり、出雲の神を祀るのを怠りました。すると、丹波の氷上(兵庫県氷上郡氷上町)に氷香戸邊(ひかとべ)という人が皇太子の活目尊(垂仁天皇)に会って、こう言った。
「わたしの小さな子がこんなことを歌っている。
玉藻の中に静かに眠っています。
出雲の人が祭る、立派な大事な鏡が
すばらしい神が、水の底に眠っています。
神霊が山河の水に沈んでいます。
静かに掛けて祭らなくてはいけない立派な鏡が
水の底に沈んでいます。
これは子供の言葉ではない。神が取り憑いたのでしょう。」
皇太子が天皇に伝えると、天皇は勅して鏡を祭らせた。
<考察>
出雲大社に祀ってあった神宝は武日照命が天から持ってきたものだという。武日照命は古事記では天菩日命の子の建比良鳥命となっている。つまり、武日照命は天穂日命の子である。天穂日命は素戔嗚尊と天照大神の誓約によって生まれた5人の男神の一人で、国譲りに際して最初に出雲に派遣された人物であるが、彼は大己貴神におもねって3年経っても報告しなかった。それで子の武三熊之大人(たけみくまのうし)を派遣したが同じ状況であったという。この天穂日命は出雲国造の祖とされている。武三熊之大人は武日照命と同一人物であろう。天穂日命と武日照命は大己貴神の系譜にあり、さらに出雲臣の先祖とされる出雲振根はさらにその後裔ということになろう。
武諸隅が出雲へ到着した際、出雲振根は筑紫の国に行っていたという。日本書紀はここで初めて出雲と筑紫の関係に直接触れることになる。私は第一部で魏志倭人伝に登場する倭の国々を比定したが「不弥国の位置」「投馬国の位置」に書いたように、福岡県飯塚市の立岩遺跡を不弥国に、そしてこの出雲を投馬国に比定している。倭人伝によるとこの両国間には水行20日の航路が成立していたのだ。さらに日本書紀において、素戔嗚尊と天照大神の誓約の際に生まれた田心姫(たごりひめ)、湍津姫(たぎつひめ)、市杵嶋姫(いちきしまひめ)の三姉妹は、素戔嗚尊の剣から生まれたので素戔嗚尊の子とされ、書紀の一書においてこの三女神を筑紫の国に降らせられたことになっている。宗像三女神である。このことも素戔嗚尊の出雲と筑紫の近しい関係を表している。
出雲振根が筑紫に行っている間に弟の飯入根が神宝を献上してしまったことに怒った振根はその後に弟を殺してしまう。その手段が木刀と本物の刀を取り違えさせるという何とも姑息な手である。このやり口、古事記における倭建命(やまとたけるのみこと)の出雲征討でも使われた方法である。倭建命は出雲に着くやいなや、出雲建と交友関係を結ぶ一方で密かに偽刀を作り、ともに斐伊川で水浴びをした際に先に川から上がって太刀を交換させ、斬り合いを仕掛けた、という話だ。
その姑息な手段はさておき、ここまで書きながら思うことがひとつある。それは出雲の神宝とは「剣」のことではないか、ということだ。宗像三女神は素戔嗚尊の剣から生まれた。出雲振根は剣を使って弟を騙して殺した。何よりも出雲振根の名前に「振」がついていることである。これは太刀を振るところから付けられたのではないだろうか。さらに思い出されるのが荒神谷遺跡で出土した358本もの銅剣である。この数は出雲国風土記に記される出雲国の神社の総数とおおよそ一致しているという。何らかの理由があって出雲の各神社が祀っていた剣を荒神谷に集めて埋納した、という説があり、私も同様に考えている。つまり、剣はご神体として祀られる存在、すなわち神宝であったと言える。加えて言えば、三種の神器の1つである草薙剣は素戔嗚尊が出雲で八岐大蛇を退治したときにその尾から出てきた剣である。出雲の神宝は「剣」であったのだ。
それを間接的に裏付けるのが氷香戸邊のくだりである。水底に沈んだ鏡を神や神霊に例え、これを祀らなければならない、という子供の歌を神託として天皇が鏡を祀らせたという。出雲で祀られてきた剣を奪い取り、代わって鏡を祀らせたのだ。明らかに支配者が交替したことを表している。崇神天皇は最後の最後に出雲を制圧し、国造りのあと袂を分かった大己貴神にリベンジを果たしたのだ。
実は細かいことにこだわれば、鏡は天照大神の象徴であるが、その天照大神は神武王朝が祀るべき神であり、崇神王朝が祀る神ではなかった。「崇神天皇(その2)」で見たように、崇神王朝の初めに国が乱れたとき、宮中で祀っていた天照大神を追い出しているのだ。しかし、日本書紀編纂時、すでに鏡は天皇家の祖先である天照大神を象徴するものとして代々の天皇によって受け継がれ、祀られ続けていたので、その事実を反映して鏡を祀らせることにしたのだろう。
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即位60年7月 出雲大社に収められている神宝を見たいと言い、武諸隅を遣わした。
ことの経緯は次の通り。
この神宝は武日照命(たけひなてるのみこと)が天より持って来たものである。この神宝を奉らせるために矢田部造の先祖である武諸隅(たけもろすみ)を遣わした。このときこの神宝を管理していたのは出雲臣の先祖である出雲振根(ふるね)であったが、彼は筑紫の国に行っていたので会えなかった。そこで弟の飯入根(いいいりね)が皇命を承って、その弟の甘美韓日狭(うましからひさ)と子の鸕濡渟(うかずくね)に託して献上した。
出雲振根は筑紫から帰ってきて、神宝を献上したと聞いて飯入根を責めた。数年を経てもこのときの恨みと怒りは去らず、弟を殺そうと考えた。そこで止屋(やむや=島根県出雲市今市町・大津町・塩谷町付近)の淵に誘い出した。振根は密かに本物の太刀にそっくりな木刀を作って、その木刀を帯刀して行った。淵についたときに兄は弟に「水が清らかなので水浴びをしよう」と言った。弟は兄の言葉に従い、それぞれ帯刀していた太刀を抜いて淵のそばに置いて水に入った。兄は先に上がって弟の本物の太刀を帯刀し、続いて弟が上がって兄の木刀を手に取った。そのとき、互いに刀を斬り込むことになったが弟は木刀なので抜く事も出来ず、兄は弟を撃ち殺した。
甘美韓日狭と子の鸕濡渟はその様子を詳しく朝廷に報告したところ、吉備津彦と武渟河別を遣わして出雲振根を殺させた。
その後、出雲臣たちは討伐を恐れるあまり、出雲の神を祀るのを怠りました。すると、丹波の氷上(兵庫県氷上郡氷上町)に氷香戸邊(ひかとべ)という人が皇太子の活目尊(垂仁天皇)に会って、こう言った。
「わたしの小さな子がこんなことを歌っている。
玉藻の中に静かに眠っています。
出雲の人が祭る、立派な大事な鏡が
すばらしい神が、水の底に眠っています。
神霊が山河の水に沈んでいます。
静かに掛けて祭らなくてはいけない立派な鏡が
水の底に沈んでいます。
これは子供の言葉ではない。神が取り憑いたのでしょう。」
皇太子が天皇に伝えると、天皇は勅して鏡を祭らせた。
<考察>
出雲大社に祀ってあった神宝は武日照命が天から持ってきたものだという。武日照命は古事記では天菩日命の子の建比良鳥命となっている。つまり、武日照命は天穂日命の子である。天穂日命は素戔嗚尊と天照大神の誓約によって生まれた5人の男神の一人で、国譲りに際して最初に出雲に派遣された人物であるが、彼は大己貴神におもねって3年経っても報告しなかった。それで子の武三熊之大人(たけみくまのうし)を派遣したが同じ状況であったという。この天穂日命は出雲国造の祖とされている。武三熊之大人は武日照命と同一人物であろう。天穂日命と武日照命は大己貴神の系譜にあり、さらに出雲臣の先祖とされる出雲振根はさらにその後裔ということになろう。
武諸隅が出雲へ到着した際、出雲振根は筑紫の国に行っていたという。日本書紀はここで初めて出雲と筑紫の関係に直接触れることになる。私は第一部で魏志倭人伝に登場する倭の国々を比定したが「不弥国の位置」「投馬国の位置」に書いたように、福岡県飯塚市の立岩遺跡を不弥国に、そしてこの出雲を投馬国に比定している。倭人伝によるとこの両国間には水行20日の航路が成立していたのだ。さらに日本書紀において、素戔嗚尊と天照大神の誓約の際に生まれた田心姫(たごりひめ)、湍津姫(たぎつひめ)、市杵嶋姫(いちきしまひめ)の三姉妹は、素戔嗚尊の剣から生まれたので素戔嗚尊の子とされ、書紀の一書においてこの三女神を筑紫の国に降らせられたことになっている。宗像三女神である。このことも素戔嗚尊の出雲と筑紫の近しい関係を表している。
出雲振根が筑紫に行っている間に弟の飯入根が神宝を献上してしまったことに怒った振根はその後に弟を殺してしまう。その手段が木刀と本物の刀を取り違えさせるという何とも姑息な手である。このやり口、古事記における倭建命(やまとたけるのみこと)の出雲征討でも使われた方法である。倭建命は出雲に着くやいなや、出雲建と交友関係を結ぶ一方で密かに偽刀を作り、ともに斐伊川で水浴びをした際に先に川から上がって太刀を交換させ、斬り合いを仕掛けた、という話だ。
その姑息な手段はさておき、ここまで書きながら思うことがひとつある。それは出雲の神宝とは「剣」のことではないか、ということだ。宗像三女神は素戔嗚尊の剣から生まれた。出雲振根は剣を使って弟を騙して殺した。何よりも出雲振根の名前に「振」がついていることである。これは太刀を振るところから付けられたのではないだろうか。さらに思い出されるのが荒神谷遺跡で出土した358本もの銅剣である。この数は出雲国風土記に記される出雲国の神社の総数とおおよそ一致しているという。何らかの理由があって出雲の各神社が祀っていた剣を荒神谷に集めて埋納した、という説があり、私も同様に考えている。つまり、剣はご神体として祀られる存在、すなわち神宝であったと言える。加えて言えば、三種の神器の1つである草薙剣は素戔嗚尊が出雲で八岐大蛇を退治したときにその尾から出てきた剣である。出雲の神宝は「剣」であったのだ。
それを間接的に裏付けるのが氷香戸邊のくだりである。水底に沈んだ鏡を神や神霊に例え、これを祀らなければならない、という子供の歌を神託として天皇が鏡を祀らせたという。出雲で祀られてきた剣を奪い取り、代わって鏡を祀らせたのだ。明らかに支配者が交替したことを表している。崇神天皇は最後の最後に出雲を制圧し、国造りのあと袂を分かった大己貴神にリベンジを果たしたのだ。
実は細かいことにこだわれば、鏡は天照大神の象徴であるが、その天照大神は神武王朝が祀るべき神であり、崇神王朝が祀る神ではなかった。「崇神天皇(その2)」で見たように、崇神王朝の初めに国が乱れたとき、宮中で祀っていた天照大神を追い出しているのだ。しかし、日本書紀編纂時、すでに鏡は天皇家の祖先である天照大神を象徴するものとして代々の天皇によって受け継がれ、祀られ続けていたので、その事実を反映して鏡を祀らせることにしたのだろう。
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