衝撃 城郭ビイスタ論 上文字クリック
3月3日 驚愕!日本史の対角線文化×、菱形◇文化の謎を解く!
その歴史民俗学的比較研究論
◆前説 前フリ
何故菱餅なのか?日本人の心の奥の謎根本を解くカギ!
ひな祭りと聞いて「ひな」とは日本の都「みやこ」の
対義語たる地方「ひな」である事は誰もが知ってる事、
卑弥呼が治めていた邪馬台国の地方自治完の役職の名
も「ひなもり」です。地方や小さき物をひなとも言う。
◆身近な日本人の避邪思想の伝統
身内者が他界した時に早速その亡骸にカミソリ
や包丁を守り刀の代用とするこれは死者を悪霊
や鬼神から守る日本人の精神的伝統習慣である。
古墳時代の埋葬様式を観察するに高貴で富裕層
の豪族墓には鏡や刀剣を棺桶に副葬品とは意味
の異なる死者の霊魂を地下の悪霊から呪術的な
避邪の器具として配置した例も見られる。一月
正月の門松の竹筒の意味も邪悪な霊が家庭玄関
から侵入をさける悪霊退散の意味の竹矢来てあ
りこれも僻邪の思想習慣であろう二月の節分会
トゲのある突起のある「ひいらぎ/柊」を用いる
事も魔除け僻邪思想である。三月弥生のひな祭
りに供物として用いられる菱餅もこれ意味が深
く悪霊を退散させる突起の形状菱形をしている。
▼過去写真
はじめに1
3月3日桃の節句のひな祭りに日本人は必ず菱形の餅を
つまり◆菱餅をヒナ人形に献上して女子の無事息災成長
を願う習慣がある。その起源桃の節句の桃の実は中国の
僻邪思想「邪悪な霊魂を避ける為の信仰観念」からその
起源が発生している。ももで覚えていて欲しい事は邪悪
をさける習慣こそ僻邪「へきじや思想」である事、次に
ヒナ祭りの菱餅の形状も私は僻邪思想に起因するものと
考察している。ようするに歴代日本国の歴史上の遺跡の
中に「菱形形状」の歴史的遺跡が存在するのか巨視的に
時間軸を通して考察する事が菱形文化の系譜や流れを紐
と歴史民俗学分野であると私は考えている。
はじめに2
日本の伝統文化の中に多くの対角線紋様が潜在する事
は平素気付く事がない。例えば封書や書簡に〆の印を
する人封印の印をする人は現代でも存在する。原稿の
締切の印に〆の象形を用いる事もある。神道における
七五三において七五三縄は祭祀の結界を意味しシメナ
ワと呼ばれる。注連縄とも表現される。取締の漢字に
は糸辺+帝が用いられ古代中国の王も為政者の統制の
意味でこの文字を用いた事は容易に推理できる。統一
の漢字にも糸辺が使われている。シメは現代の宴会の
料理の最期の意味でも使われている。統制とは示しの
意味が含まれている。中国の朝廷から見て謀反人の首
は見せしめの為に晒首や獄門首にされる事は古来多い
従って漢字の道は首が地方から都に運ばれてくる意味
有名な額田王の万葉集「あかねさす紫野行き標野行き
野守は見ずや君が袖振る 」の標野行きとは皇室しか
入山する事が許可されない結界のある牧野狩場の事
である。近代近江中山道の街道においても祭礼の時
に注連縄「しめなわ」を街道に張り巡らし祭礼結界
をなす例がある。また占の漢字は占領占拠するの意。
占い。占星術。などのうらないの言葉とも関連して
存在する。
◆相撲神事の手刀「対角線を形成する手刀」
相撲報奨金を受け取る時に力士は手刀を切り
拝受する。その原型は九字を切る作法にある
とも言われている。十字を切る作法にも似る。
もっとも九字のそもそもの原型は中国の
九字の護法にある。築城にも是を用いる。
有名な「臨兵闘者陳裂開前」の呪言がある。
九字(『九字護身法』 博文堂庄左衛門 1881年2月)
◆神道の修祓「しゅばつ」はらえ おはらい
神職が大幣を持って左右に祓いの儀式を執る
がこれも「祓え」追難の意義があるこれも〆
の印と思われる。はらいと言ったほうが適切?
神職が禊祓「みそぎはらい」いをする時も手刀
を対角線上交叉させ空間を切る仕草をする。
◆閉門の象徴「シンボル」
テレビ映画で竹矢来が×状態で門を閉じ武家屋敷
で表現されるが現代対角線の〆の文化と思われる。
人間が交錯したバッテンをクロスした禁忌の表現
をする事は日常茶飯であり日本の生活習慣で見る。
◆神道の禊の時の手刀 みそぎ
神道において禊の水を浴びて手刀を左右に
切り裂く様にまるで古代の両刃の剣を〆状
に祓を行う儀式も実際にある×の様に切る。
私は大和タケルの草なぎの剣を連想する。
草とは入植させた民俗であり大和朝廷の
倭人が順次日本北部に侵攻進出した事暗
示する。
◆諸刃の剣 もろはのつるぎ
日本刀においても直刀や諸刃の鉾や剣は
両刃を用いている。一方切れる面が片方
になったものを「かたな」片刀なのだ。
う。薙刀はなぎたおす平定する長尺剣の意。
草薙の剣の意味も民衆平定の意味がある。
国民は古来民草とも草々の者とも言われた
草の隠語は入植者の事である。草の者と
は敵国に潜入した居住させたスパイ忍者。
◆古墳祭祀と祝術
ウィッキペデイア
四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがた
ふんきゅうぼ)は、弥生時代中期以降、
吉備・山陰・北陸の各地方で行われた
墓制で、方形墳丘墓の四隅がヒトデの
ように飛び出した特異な形の大型墳
丘墓で、その突出部に葺石や小石を
施すという墳墓形態である。四隅突出
型弥生墳丘墓とも呼称する。四隅から
墳墓の領域に侵入する邪悪な悪霊をば
避ける事は即ち僻邪思想そのもと思う。
長谷川考察図 長谷川対角線挿入
これは対角線の文化、菱形文化の代表である。
◆菱の実形状 鋭い突起は邪悪を退ける。
菱の実の形状は突起により時に歩行者の
の足部を痛撃する。人間にとりその実の
形状の菱形や鋭い突起は邪悪な霊の撃退
の意味が含まれていると思われる。四隅
突出墓も地下の悪霊から死者を守る四神
の役割をなすもの類推される?これまた
前述した、僻邪思想やシンボル菱の実の
形状であろう。さてもう3月3日の菱餅に
込められた民俗学的な意味も賢明なる貴方
ならもう既に理解できるであろう。
◆卑弥呼は鬼道「道教」に通じていた?
『魏志倭人伝』には卑弥呼は鬼道に通じ
よく衆を惑わすと書かれており宗教占い
の託宣を用いて宗教迷信を用いて大衆を
コントロールしていたとある。姉卑弥呼
が「まつり」宗教祭祀を統轄し弟王が国
家の軍事国事の実務を担当するまつり事。
中世は斎王「いつきのひめみこ」と言う。
◆九州平原弥生墓の喪仮の宮の菱形形状
簡単に言うなら四方八方と言う方位だ。
しかしこの平原弥生墳墓には葬祭儀礼
の時には以下の様な神明造の建物ながら
歪な建築物異様な平面形状の菱形と言
える。これが鬼道と言うか我々日本文化
の盲点とも言うべきであるか不可思議
である死者の葬祭殿たる喪仮の宮へと
侵入する悪霊つまり邪鬼を退散させる
意味で僻邪思想の一端と私は観察する。
もがりのみや もがり 喪に服す施設
↑これに私が対角線挿入すると矢張り
異常で不合理な歪な神明造りの建築物
と言えよう。正確な対角線ではなく菱
型の形状を用いて死者の霊魂を悪霊か
ら守る壁邪思想を取り込もうとした結果
であろう。
◆出雲 荒神谷遺跡の「×」印
銅剣358本のうち、何と344本の柄の部分に
同様の「×」印が刻印されていた。「×」印
は荒神谷遺跡近くの加茂岩倉遺跡から出土の
銅鐸に認めらせれた、古代出雲の呪術を象徴
する「×」印対角線の封印の文化と言えるが
銅鐸銅剣の祭祀の終焉や終了や封印の「×」印
〆シメの文化締切とも考えられよう?ケジメと
とも言えようか一つの宗教祭祀の封印の象徴か?
出雲の銅鐸と銅剣の×標は宗教的封印を意味する。
◆吉備桃太郎伝説
吉備津彦神話や桃太郎説話は楽しいものがある。
しかし桃自体が古代中国から伝承される桃の呪
力邪鬼を打ち払う宗教的観念の印象を受ける鬼
は邪悪な悪神としてヒールの役割を担う役割を
担うもの。桃自体が中国の僻邪思想そのものだ。
◆古事記の神代の桃
日本の神観念の根本神のイザナギ、イザナミの
神のイザナギの神は死後の黄泉「よみ」の世界
をおとずれイサナミに面会するがイザナギは生
の世界、現世の世界へと生還する。その過程に
おいて黄泉津平坂において黄泉の鬼に追われる
がイザナギは桃を投げてその呪力の霊力で鬼を
退散させる。これ即ち避邪思想で鬼道であろう。
◆壬申の乱の桃配山伝説
672年(壬申の年)の夏,大友皇子と大海人
(おおあま)皇子とが皇位継承問題で戦った内乱
で東軍「赤組」は桃配山に布陣して諸将に桃を
配り壬申の乱に勝利した伝承がある。勝利した
側が邪悪を避ける僻邪思想を踏襲しているのだ。
◆近江守護職京極政経の桃原城址
滋賀県犬上郡多賀町桃原阿弥陀峰
には全長500mを超える帯郭そし
て同じく土塁が付属して伊勢方面
の仮想外敵の侵入を防いでいる。
桃原の意味も深いと思われる。
◆関ヶ原合戦
徳川家康の桃配山布陣も壬申の乱の前例に習っ
て因み摸倣したもので、因んだものであろう。
これも戦況の吉兆を言祝ぐ前例への踏襲である。
桃の節句、桃自体にこそ僻邪思想の伝統がある。
◆五世紀三つ寺I遺跡の対角線の文化と祭祀
著しく進歩的な東国の五世紀豪族館の平面形状
には驚くがその対角線が交叉する中心近くには
祭祀遺構が含まれている事を看過したくはない。
豪族という権力者政治力や為政者の存在そして
「まつり」祭祀を執行する祭政の中心点の存在。
今回の投稿のテーマとしては対角線の交叉位地。
対角線の文化とも言える。是だけ精密な測量術
がありながら豪族城館が菱形である事に注目す
る事が肝要である正方形に作れるのに正方形に
は態と豪族館を作らない僻邪思想を看破したい。
◆桃の節句の由来
平安時代の貴族が薬草を摘みその薬草で
体の穢れをお祓いして健康と厄除を願う
中国起源の「上巳の節句」とされる。
上巳の節句は、古来中国三国時代の魏に
よって3月3日に行われるようになつた。
これが何を言おうひな祭りの根源思想だ。
◆ひな祭りと菱餅の流行
ひな祭りの原型は内裏つまりは皇室の事
である。天皇と皇后を表わしたものだ。
ひな祭りによく祀られる菱餅の起源とは
現在不明である。その形状が◇菱形だと
言う事は確実であが、これは菱の文化だ。
また対角線の文化とも言える僻邪思想だ。
様々な家具や畳のヘリにも用いられる形。
◆菱紋はウィッキペデイアによると
一年草の水草であるヒシ科のヒシの実または
ヒシの葉を図案化したものといわれる一方で、
単純な図形のために発生のプロセスについては
明確ではないとされている。菱文様は紀元前
より見られ、日本では縄文時代前期の土器に描か
れている[2]。家紋となった経緯については、菱形
が連続した織文様から取り出されたものとされる。
菱紋が現れたのは、1370年(南朝:建徳元年、
北朝:応安3年)頃と見られている。その1370年
(南朝:建徳元年、北朝:応安3年)頃に成立され
たとされる『太平記』に大内修理亮が直垂に「大菱」
を入れたという記述がある。1392年(明徳3年)の
『相国寺塔供養記』には武田信任の直垂に「違い菱」
がつけられていたことが記されている。 これも
敵の邪悪 を退ける日本伝統の僻邪思想であろう。
◆甲斐源氏武田氏のシンボルマークは菱形「武田菱」
これも菱の文化、対角線の文化と言えようか?
◆各種の菱紋
三階菱家紋の例
違い菱家紋の例
◆安土城天主石蔵に潜在する菱形。驚くべき僻邪思想。
◆織田信長とは日本国をすべからく平定する過渡期
に彼の政治府たる府庁の安土城の天主閣を建立してい
る。天主の基盤をなす礎石は方位に鑑み建築に照らし
合わせてすこぶる厳格に整然配列されているにも関わ
らず安土城天守の地下グランドプラン「基礎構想」と
は全く建築学との整合性を無視した一種異様な形状を
呈しているそれこそ中国思想や東洋思想また天道思想
に傾倒する傾向にもあった織田信長の深層心理を反映
していて、安土城の地下石蔵は地下の世界であり地鎮
の世界でもあるここに安土城地下グランドプランの
基本構想に「菱形の僻邪思想」対角線の文化的潜在
を看破する器量や資質ある優れた研究家が登場しな
い事は日本の学術自体が摸倣的亜流的学門を好む性
を持っている事に他ならない。日本国は本来世界に
先駆けて最新科学技術を駆使する先進国だったのに
令和の現在は中国韓国に完全に科学技術差で後進国
に成り下がってしました事はこれも歴史の現実推移。
安土城天主石蔵の構造は工学的なものでは
なく呪術的性を私に感じさせる特に南東辰巳
の方向と西北戌亥の方向を強く意識している。
丑寅の方向にも角を取って鬼門除けとした
ものか?信長は迷信を嫌う唯物論者と一方
的に固定概念を持ってはならない安土地名
や中原思想に影響された中原覇王思想にも
影響され城郭瓦も信長は瓦を葺くため唐人
一観とい う人物に依頼して唐様に指示する。
▼中国の方位思想
◆天正11年賎ヶ岳合戦別所山陣城
の対角線の縄張。扇の形の様に思う。
伝承では加賀藩の開祖となる前田
利家の陣城で規密な幾何学設計の
様子が読み取れる対角線文化だ。
前田利家自体邪悪の霊を退散させ
る「鍾馗」の像を旗印としている。
利家の「鍾馗」も僻邪思想に近い。
▼みごとな菱形対角線文化の応用変形が見られる。
伝前田利家 長浜市余呉町 別所山砦
◆文禄慶長の役
豊臣秀保陣城の対角線説系思想の潜在
この陣形礎石は方位を無視しているが私の
入れた斜線は南北線を表わす方位を意味す
る。また城郭自体統轄支配している基本の
設計線構想はまぎれもなく対角線の文化だ。
羽柴秀保自体が大和大納言豊臣秀長の後継
者であり秀保の城郭ブレーンこそ藤堂高虎
でもある。その意味でもこの陣は織豊系城
郭の真髄や奥義を呈していると言っても過
言ではない。注目すべき慶長期の織豊城郭
◆後世の福知山城菱櫓とは
まあ~
大工泣かせ
畳屋泣かせ
瓦師泣かせ
中途半端な
困った設計の菱櫓である。
大工は半端寸法と言って
是を嫌うが武家の城縄張
と大工の意見は相反する。
縄張する普請奉行と建築
をする作事奉行は別分野で、
これは安土城天主も全く
同じで安土の天主台形状
とその整然とした礎石の
配列に激しい矛盾があり
そもそもその矛盾に気付
く観察力考察力が重要だ。
◆安土城石蔵に潜在する石蔵の変形?菱形の文化で僻邪思想
◆織部焼の菱型と対角線 織部焼にも対角線文化が潜在する。
あの利休の門弟にして武家茶道世界の茶頭とも言える古田織部
はもやはり菱形と円形のプランを用いた城郭構造を連想させる
不思議な対角線の手法を駆使している事が判明する。
明智光秀黒印に潜む菱形 是も対角線つまり菱形である。
明智光秀は本能寺に「鬼」とも言える織田信長を殺害した。
正親町天皇に「鬼たる」織田信長を対峙する往昔、源頼光
なる武将が酒天閣なる楼閣に住まいする悪鬼、酒呑童子を
成敗した逸話は有名であるが明智氏の系譜は頼光に繫がる。
明智光秀の印判は多数の菱形を
用いて一種おどろおとろしい。
無数の三角も併用して誠に怪奇
な印象を受ける。明智の謀反?
◆明智光秀異説『淡海温故録』異聞
明智伝説では最も最古の記録とは
当該記録である。この記録で特に
私は十兵衛の他に十左衛門なる人
も記されており私はその十の文字
が気にかかる十字の交錯は対角線
の意味であり十左衛門跡もあると
聞いている。
◆『淡海温故録』説では
明智は武田に内通した事
が露見し信長への謀反へ
繫がったと記されている。
荒唐無稽で採るに足らない
のだが武田菱を家紋に使う
武田氏。異形の菱黒印使う
明智光秀そして多賀佐目に
は雑賀鉄砲の統領鈴木孫一
の書状もあり菱形の的を射
ぬく射撃の光秀の印象が繫
がり不気味でもある。佐目に
は小字馬城や蔵骨山なども
あり古くは佐目馬の産地で
あった可能性もある。滋賀
に佐目地名は永源寺、多賀
番場「佐目」、醒ヶ井など
の音韻が残っており不思議
な事だ。勿論大和朝廷にも
高級騎馬「左目馬」を飼育
する左目寮なる機関が存在
した。室町時代の官職には
左馬之助「さめりすけ」が
存在する「さまのすけ」と
発音するようになるの江戸
時代になってからであある。
◆正親町天皇の二回の馬揃え
織田信長が主催し正親町天皇が上覧
された天正馬揃えは天皇の所望によ
り2度開催された事が『信長公記』
に記されている勿論その馬揃奉行
は明智十兵衛光秀でる事は世間に
よく衆知されている。
ありがとう
ございます。
此、れを看破する少数の優れた頭脳の明晰の人も日本にいる事に私個人は非常に驚いています。長谷川先生に初めて城址解説をして頂いたときも衝撃を私は強く感じたものです。この衝撃とは元来学門すべき真理や現実に真実に人間が気付いた時に衝撃を受けるものです。滋賀民俗学会のプログレシブ派、イボールション派、進化系、革新系の学問が萌芽開花しようとしている。新しい芽が発芽している事に気付く事が社会の人とりは大切な事です。