2/28(火)-1℃





おはようございます。
今朝のお目覚めはいかがですか?

早朝の
では、お寺の住職さんや美輪さんが「今日のお言葉」みたいな数分間のお説教やお話をされていますけど、「短期は損気」なんてよく話題になっています。
『”自分らしく素直に生きる”のも大切だけれど、相手を思いやる気持ちを心の片隅に持ち続けましょう。自分自身のおろそかに気付きましょう・・・・。』なんて聞いたときには、”うん、そうそう”って相槌打つのに、いざその場になると私の場合、「その場しのぎ」になってしまうこともしばしば。
気をつけたいところです。
でもでも、ここ数日、連ちゃんで駐車場のシステムダウンと故障が連発。イライラした出勤時に故障してしまうと修理に来ていただくまでの時間が長いこと長いこと。血圧ドバーっと




しているのが自分でも分かるので、今朝は、故障があっても大丈夫なくらい少し早めに自宅出勤したんですけど、またもや故障。メーカーが来て今日は本格的に修理するそうです。
怒る気にもならないというのは、諦めの境地に達したときなんでしょうか?????
昔の諺に、”バカは死ななきゃ治らない”じゃありませんけど、私の場合はまだまだ修行が足らず。根本的に、性転換じゃなかった、性格転換しなきゃダメみたいです。
ご提供いただける方がいらっしゃいましたら、爪の垢でもいただければと思います。(よろしくね
)
今朝は、久しぶりの湯来に伝わる民話です。今回は「明神滝と消えずの火」
です。
むかし、田代川の上流に、「こうのみ」という里がありました。広い田畑を耕して、人々は豊かな暮らしをしていました。
こうのみに九郎太夫という人が住んでいました。ある日となり村へ商売に出かけました。秋の日は釣瓶(つるべ)落としに暮れるので、早めに切り上げて帰り始めました。
九郎太夫が田原山の麓にかかる頃には、まだ大峯山の頂に夕日が残っていましたが、竜石が丘にたどり着くと、もう霜月初めのかすかな星明りだけとなり、くしげのえきの森林に入ると、
「まるで、鼻をつまんでもわからない」
といわれるほどの真っ暗闇になりました。
一歩あやまれば千イ刃(せんじん)の谷底、九郎太夫は木の根や岩角を手探りで歩いていました。
「もう少しすると消えずの火が見える」
と、心に言い聞かせて進んで行きました。やがて、消えずの火が闇に浮かんできました。
「やれやれ、一安心」
と九郎太夫は岩角に腰を下ろし一服しました。
ふと、おじいさんから聞いた話を思い出しました。
『むかし、むかし、明神様(宮島の祭神、イツキシマ姫のこと)は乳飲み子を抱えて、別れた愛人を慕って、故郷の出雲の国を出られて流浪の旅を始められた。石州から芸州を経てこの地においでになった。雲出の一軒の民家に、金のちきり(はた織りの道具の一つ)を預け、明神滝の近くでしばらく滞在されたそうな。ちきりを預かった家では、その名にちなんでちきりがーちの屋号で長く続いた。預けた金のちきりを受け取ったイツキシマ姫は、山の深い防州路で難儀を重ね、時に苦の坂越えは大変な苦しみだったとみえて、必至で持ち歩かれていた金のちきりをこの地に留め置き、旅を続けられた。金のちきりを置かれた周防の国には、今もちきり明神があるということじゃ。さて、この消えずの火のことじゃが、イツキシマ姫が滞在されたので明神滝と言うようになった。
明神滝の三段に積んだ自然石、二丈(約6m)ばかりの石灯籠に神秘の常夜灯がその時に作られ、消えずの聖火として幾千年も光り輝いているのじゃ』
九郎太夫は闇の中、消えずの火を目指して歩き始めました。
「こう暗くては家に帰りつくのは容易なことではない。今夜だけ、この消えずの火を借りて帰ろう」
と聖火を借用し、こうのみの自宅に帰りました。
ひとたび人間の手に触れた聖火は、永久に再び輝きませんでした。
それだけではなく、こうのみの田や畑は、鳥獣虫害しきりに襲い、米麦をはじめ五穀が実らず、次第に荒れていきました。遂には、人々が住めなくなり、こうのみも消えずの火とともに無くなりました。
文久元年の記録によると、
「往古の荒田方御座候へども家の有無の儀、申し伝えも御座なく・・・・・・・・」
とあり、同じ記録に大原、白井田原、すきまき、熊が杉などに家があったと明記してありますから、こうのみがあったのはかなり古いことのようです。
また、この地を浄蓮(じょうれん)屋敷と呼び、万正寺の前進、万願寺の遠祖はここから出たと伝えられています。
今の湯来温泉から数キロ上流の山間の里に伝わる民話です。大原、白井田原、白井、熊が杉、豆栃、日室、赤谷・大山地・蕨さで(?)・・・、色々歩き回りました。今流行の源平にまつわる場所もありますけど、事静かに、静観しているのがそこに棲む動植物にはいいのかも知れません。
やっぱり、そっとしておきましょう。
次回は、「馬頭観音」です。お楽しみに~。

では、今日も一日、楽しい一日でありますように。










おはようございます。

今朝のお目覚めはいかがですか?


早朝の


『”自分らしく素直に生きる”のも大切だけれど、相手を思いやる気持ちを心の片隅に持ち続けましょう。自分自身のおろそかに気付きましょう・・・・。』なんて聞いたときには、”うん、そうそう”って相槌打つのに、いざその場になると私の場合、「その場しのぎ」になってしまうこともしばしば。


でもでも、ここ数日、連ちゃんで駐車場のシステムダウンと故障が連発。イライラした出勤時に故障してしまうと修理に来ていただくまでの時間が長いこと長いこと。血圧ドバーっと







怒る気にもならないというのは、諦めの境地に達したときなんでしょうか?????

昔の諺に、”バカは死ななきゃ治らない”じゃありませんけど、私の場合はまだまだ修行が足らず。根本的に、性転換じゃなかった、性格転換しなきゃダメみたいです。

ご提供いただける方がいらっしゃいましたら、爪の垢でもいただければと思います。(よろしくね

今朝は、久しぶりの湯来に伝わる民話です。今回は「明神滝と消えずの火」

むかし、田代川の上流に、「こうのみ」という里がありました。広い田畑を耕して、人々は豊かな暮らしをしていました。
こうのみに九郎太夫という人が住んでいました。ある日となり村へ商売に出かけました。秋の日は釣瓶(つるべ)落としに暮れるので、早めに切り上げて帰り始めました。
九郎太夫が田原山の麓にかかる頃には、まだ大峯山の頂に夕日が残っていましたが、竜石が丘にたどり着くと、もう霜月初めのかすかな星明りだけとなり、くしげのえきの森林に入ると、
「まるで、鼻をつまんでもわからない」
といわれるほどの真っ暗闇になりました。
一歩あやまれば千イ刃(せんじん)の谷底、九郎太夫は木の根や岩角を手探りで歩いていました。
「もう少しすると消えずの火が見える」
と、心に言い聞かせて進んで行きました。やがて、消えずの火が闇に浮かんできました。
「やれやれ、一安心」
と九郎太夫は岩角に腰を下ろし一服しました。
ふと、おじいさんから聞いた話を思い出しました。
『むかし、むかし、明神様(宮島の祭神、イツキシマ姫のこと)は乳飲み子を抱えて、別れた愛人を慕って、故郷の出雲の国を出られて流浪の旅を始められた。石州から芸州を経てこの地においでになった。雲出の一軒の民家に、金のちきり(はた織りの道具の一つ)を預け、明神滝の近くでしばらく滞在されたそうな。ちきりを預かった家では、その名にちなんでちきりがーちの屋号で長く続いた。預けた金のちきりを受け取ったイツキシマ姫は、山の深い防州路で難儀を重ね、時に苦の坂越えは大変な苦しみだったとみえて、必至で持ち歩かれていた金のちきりをこの地に留め置き、旅を続けられた。金のちきりを置かれた周防の国には、今もちきり明神があるということじゃ。さて、この消えずの火のことじゃが、イツキシマ姫が滞在されたので明神滝と言うようになった。
明神滝の三段に積んだ自然石、二丈(約6m)ばかりの石灯籠に神秘の常夜灯がその時に作られ、消えずの聖火として幾千年も光り輝いているのじゃ』
九郎太夫は闇の中、消えずの火を目指して歩き始めました。
「こう暗くては家に帰りつくのは容易なことではない。今夜だけ、この消えずの火を借りて帰ろう」
と聖火を借用し、こうのみの自宅に帰りました。
ひとたび人間の手に触れた聖火は、永久に再び輝きませんでした。
それだけではなく、こうのみの田や畑は、鳥獣虫害しきりに襲い、米麦をはじめ五穀が実らず、次第に荒れていきました。遂には、人々が住めなくなり、こうのみも消えずの火とともに無くなりました。
文久元年の記録によると、
「往古の荒田方御座候へども家の有無の儀、申し伝えも御座なく・・・・・・・・」
とあり、同じ記録に大原、白井田原、すきまき、熊が杉などに家があったと明記してありますから、こうのみがあったのはかなり古いことのようです。
また、この地を浄蓮(じょうれん)屋敷と呼び、万正寺の前進、万願寺の遠祖はここから出たと伝えられています。
今の湯来温泉から数キロ上流の山間の里に伝わる民話です。大原、白井田原、白井、熊が杉、豆栃、日室、赤谷・大山地・蕨さで(?)・・・、色々歩き回りました。今流行の源平にまつわる場所もありますけど、事静かに、静観しているのがそこに棲む動植物にはいいのかも知れません。

やっぱり、そっとしておきましょう。
次回は、「馬頭観音」です。お楽しみに~。


では、今日も一日、楽しい一日でありますように。
