いわき市遠野町入遠野東山にある安産の神として知られる幡之澤大山衹神社の例大祭が20日に実施されたので、見物に行ってきました。4年に一度の出祭りで、神社から入遠野地区の中心商店街がある前田まで神輿が繰り出し、入遠野公民館では長持ちや和太鼓演奏、七福神の舞など演芸が賑やかに繰り広げられ、たくさんの方が楽しそうに見学していました。
午後からは勿来九条の会が6周年を祈念し勿来市民会館で講演会を開いたので、お話を聞きに行ってきました。
冒頭ではフォークグループ雑魚塾によるミニコンサートが開かれ、原発事故を風化させたくないと作られた「でれすけ原発」「福島の海よ」と2006年の憲法フォークジャンボリーの入選歌「伝えよう!この憲法を」の3曲が披露されました。ちなみに前2曲が収録されたCDが発売されていますので、ぜひお聞き下さい。
この後、戦争体験の語りや講演が行われました。
鈴木富子さんは1921年生まれの92歳。戦時中、従軍看護婦として中国の南京陸軍病院に勤務した経験を語りました。
鈴木さんが看護婦(現在は看護師と呼ばれます)を志したのは、「お前はやさしいから看護婦になれ」とすすめられたため。傷痍軍人療養所村松晴嵐荘などに勤務した後、友人に「中国に来て欲しい」と壊れ、本人も「軍国主義に燃えていた」ことから中国に渡り、南京大学を接収して設置された南京陸軍病院に3年間勤務したと話しました。
その頃は日本軍が真珠湾に奇襲をかけて対米戦争が勃発した後、日本では軍艦マーチが鳴り響いていた時期でした。2交代制で、夜勤が月8回程。勤務はきつく宿舎は粗末な食べ物だったといいます。患者は赤痢や腸チフスなどが多く、薬品が十分でなかったために亡くなる人も多かったそうです。
帰国した後は、15歳を中心に志願少年を集めた特攻の訓練施設に勤務したといいます。特攻機や人間魚雷など特攻兵器に搭乗するために旅立つ少年たちを見送ったといいます。多くの子どもたちの後ろ姿に辛さを感じたといいますが、鳴くことは許されなかった。少年の特攻服の背中には「南無阿弥陀仏」の文字が書かれていたこともあったといいます。
鈴木さんが語ったことがなかった戦時中の体験を話す気になったのは、改憲を言い出した安倍内閣は間違っていると思ったことがきっかけ。「憲法9条があったから戦後の平和な暮らしができた。9条は絶対守らなければならない。この平和が続くよう願っている」と訴えていました。
この後、いわき市在住の呑川泰司さん(歴史科学協議会会員)が「日本人・韓国人―心と心の歴史」と題して講演しました。1909年に伊藤博文を暗殺したとされ、絞首刑となった朝鮮人・安重根(アン・ジュングン)を題材にした講演です。
安重根の行為は、日本が朝鮮を侵害している中で、朝鮮の独立、「東洋の平和」のためにやむにやまれず行ったものであり、殺人の罪で拘束され、裁判、死刑執行にいたるまでの安重根の真摯な姿勢に、弁護士、看守など関わった日本人も感化されていたことを紹介し、朝鮮人を偏見や歪んだ視線で見ることをせず、「良識と良心」の目で見るよう話しました。また 日本が朝鮮の人民を過酷な強制労働に従事させたことを上げながら、これらの行為を真摯に反省するとともに、「人間の道理を堂々と演説するような日本を、一日も早くつくりたい」と講演を結びました。
尖閣諸島、竹島など領土問題での中国や韓国の対応を逆手に取るように、改憲にひた走る安倍首相。その安倍首相が集団的自衛権行使の解釈改憲に意欲を見せ、明文でも改憲することをめざしている中での貴重なお話でした。祭りを祭りとして純粋に楽しむことができるのも、平和な状態が維持されているからです。日本が戦争をしていた時代には、お寺の鐘も供出されたくらいですから、まともに祭りを楽しむこともできなかったでしょう。戦争体験と侵略の歴史に学び、日本と世界の平和に活かしていく大切さを感じた一日です。
大山衹神社の祭りの見物後ベニシジミをみかけました
午後からは勿来九条の会が6周年を祈念し勿来市民会館で講演会を開いたので、お話を聞きに行ってきました。
冒頭ではフォークグループ雑魚塾によるミニコンサートが開かれ、原発事故を風化させたくないと作られた「でれすけ原発」「福島の海よ」と2006年の憲法フォークジャンボリーの入選歌「伝えよう!この憲法を」の3曲が披露されました。ちなみに前2曲が収録されたCDが発売されていますので、ぜひお聞き下さい。
この後、戦争体験の語りや講演が行われました。
鈴木富子さんは1921年生まれの92歳。戦時中、従軍看護婦として中国の南京陸軍病院に勤務した経験を語りました。
鈴木さんが看護婦(現在は看護師と呼ばれます)を志したのは、「お前はやさしいから看護婦になれ」とすすめられたため。傷痍軍人療養所村松晴嵐荘などに勤務した後、友人に「中国に来て欲しい」と壊れ、本人も「軍国主義に燃えていた」ことから中国に渡り、南京大学を接収して設置された南京陸軍病院に3年間勤務したと話しました。
その頃は日本軍が真珠湾に奇襲をかけて対米戦争が勃発した後、日本では軍艦マーチが鳴り響いていた時期でした。2交代制で、夜勤が月8回程。勤務はきつく宿舎は粗末な食べ物だったといいます。患者は赤痢や腸チフスなどが多く、薬品が十分でなかったために亡くなる人も多かったそうです。
帰国した後は、15歳を中心に志願少年を集めた特攻の訓練施設に勤務したといいます。特攻機や人間魚雷など特攻兵器に搭乗するために旅立つ少年たちを見送ったといいます。多くの子どもたちの後ろ姿に辛さを感じたといいますが、鳴くことは許されなかった。少年の特攻服の背中には「南無阿弥陀仏」の文字が書かれていたこともあったといいます。
鈴木さんが語ったことがなかった戦時中の体験を話す気になったのは、改憲を言い出した安倍内閣は間違っていると思ったことがきっかけ。「憲法9条があったから戦後の平和な暮らしができた。9条は絶対守らなければならない。この平和が続くよう願っている」と訴えていました。
この後、いわき市在住の呑川泰司さん(歴史科学協議会会員)が「日本人・韓国人―心と心の歴史」と題して講演しました。1909年に伊藤博文を暗殺したとされ、絞首刑となった朝鮮人・安重根(アン・ジュングン)を題材にした講演です。
安重根の行為は、日本が朝鮮を侵害している中で、朝鮮の独立、「東洋の平和」のためにやむにやまれず行ったものであり、殺人の罪で拘束され、裁判、死刑執行にいたるまでの安重根の真摯な姿勢に、弁護士、看守など関わった日本人も感化されていたことを紹介し、朝鮮人を偏見や歪んだ視線で見ることをせず、「良識と良心」の目で見るよう話しました。また 日本が朝鮮の人民を過酷な強制労働に従事させたことを上げながら、これらの行為を真摯に反省するとともに、「人間の道理を堂々と演説するような日本を、一日も早くつくりたい」と講演を結びました。
尖閣諸島、竹島など領土問題での中国や韓国の対応を逆手に取るように、改憲にひた走る安倍首相。その安倍首相が集団的自衛権行使の解釈改憲に意欲を見せ、明文でも改憲することをめざしている中での貴重なお話でした。祭りを祭りとして純粋に楽しむことができるのも、平和な状態が維持されているからです。日本が戦争をしていた時代には、お寺の鐘も供出されたくらいですから、まともに祭りを楽しむこともできなかったでしょう。戦争体験と侵略の歴史に学び、日本と世界の平和に活かしていく大切さを感じた一日です。
大山衹神社の祭りの見物後ベニシジミをみかけました
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