メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

絵本読み聞かせ(2024年11月)

2024-11-28 14:43:14 | 本と雑誌
絵本読み聞かせ 2024年11月
 
年少
だるまさんと(かがくい ひろし)
いやだいやだ(せな けいこ)
でんしゃがきました(三浦太郎)
年中
だるまさんと
でんしゃがきました
ぐりとぐら(中川李枝子 作 大村百合子 絵)
年長
バスがきた(五味太郎)
ぐりとぐら
すてきな三にんぐみ(トミー・アンゲラー 作 今江祥智 訳)
 
「だるまさんと」はシリーズ三作の最後で作者としてはちょっとアドリブ気味だが、年少の子供たちにもフィットしているようだし、すでに見ている子は先だって反応したりする。そこまでとらえているこの本の威力に驚く。それは「いやだいやだ」も同様。
 
「でんしゃがきました」はちょっと盛りすぎで、こういうところで使うにはもう少しコンパクトにしてほしいところである。食べ物の絵のアピール度は高い。
 
「ぐりとぐら」、提供する大人の評価ほど子供たちは面白がらなくなってきているように見受けられる。それでもこういうところにこれをいれておくのは悪くない。
 
「バスがきた」は二回目、今回はかなり反応がいい、今の子たち五味太郎がわかってきたか?(変な感想だが)
「すてきな三にんぐみ」、今のうるさい教育界からすると問題ある箇所がいくつかある(私はこのくらいでもいいと考えている)が、子供たちはすんなりうけとっていてこの絵本好きである。絵と色がいいからもあるだろう。
 
ところで前回に書いたせな けいこに続き、今回の中川李枝子、先月「もこもこもこ」の谷川俊太郎が亡くなった。我が国絵本の世界、もうかなり長く続いていてそういう時期になったのかと感慨ふかい。

 

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チェーホフ「カシタンカ・ねむい 他七篇」

2024-11-25 10:47:14 | 本と雑誌
チェーホフ: カシタンカ・ねむい 他七篇
       神西清 訳 岩波文庫
チェーホフの戯曲を最近続けて読んでいたが、小説を読もうか、有名なものは再読になるがと思ったが、各社の文庫でも入手がなかなかという状態になっている。上記は半分くらいは読んだものだがいいアンソロジーのようだし、訳は神西清だしで読んでみた。
 
「カシタンカ」は飼い犬から見た物語で、飼い主からはぐれてしまい、いろいろな動物たちの集団に入ってしまう。ここはどうもサーカスか演芸などをやる動物集団で、その主人(団長)や動物たちの中の仕切り屋とのやりとり、出し物の練習が続いて、かなりつらくなってくる。そして本番で、主人公の犬はそれまでの溜まったもののあげくというのか突拍子もない行動に出るが、これが読者にストンとはいるかどうか、というもの。
 
「ねむい」は対照的な話、十三歳の娘が主人の家で子守をやっている。歌をうたいながらあやしているのだが、なかなかつらいもので、先は見えてこない。もうねむくてねむくてというあげく、この娘がとったのは、あっといわせ見事である。
 
そのほかも、よのなかうまくいかないもんだ、子供にとってのなぞ疑問、時間の流れと悲しみ
などなど、作者についてなにか決めつける、結論は、といったことを拒否してしまう、そのことを納得するといった読後感になると言ったらいいだろうか。
チェーホフ(1860-1904)の生きた時期は明治維新から日露戦争、でも比較対照してもあまり意味はないだろう。
 
翻訳の神西清、チェーホフに関しては伝説的な人、この神西によるかなりの頁数のチェーホフ論がここについている。内容は高度で読み切れないが、この中でチェーホフ作品を評して非情(アパシー)という言葉を使っている。これはそうかなと思う。チェーホフの作品は、読む側の感情にうったえるというのとはちがうがしかしこれは真実かと思わせる。
 
さらにその仕事ぶりについて神西敦子(清の娘)が書いている。清に私淑していた池田健太郎も登場する。敦子はピアニストで、いつだったかNHKのTVで演奏を聴いた記憶がある。
 
文庫収録されたものについて通常の解説ばかりでなく、こういうものがついていて、後に残るのはいい。同じ岩波文庫のプーシキン「オネーギン」(池田健太郎訳)にも神西清ともう一人について貴重な文章が掲載されている。


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シュトルム「みずうみ/三色すみれ/人形使いのポーレ」

2024-11-06 14:38:35 | 本と雑誌
シュトルム: みずうみ/三色すみれ/人形使いのポーレ
松永美穂 訳  光文社古典新訳文庫
 
ハンス・テーオドール・ウォルゼン・シュトルム(1817-1888) は北ドイツ出身の作家、名前くらいは知っていたが作品を読むのははじめてである。
この三つの中編、いずれも男女の出会いとなかなかうまくいかない、というかなぜためらったのか、というなりゆき、展開が丁寧な描写と落ち着いた進行で、気持ちのいい説得力のある結末となっている。
 
なぜかもうひといきが足りずしばらくの別離でもう一緒になれない二人が会い、どうにもならないが静かに思い出の地をたどる「みずうみ」、娘を残して妻を亡くし迎えた若い後妻と娘の葛藤のなりゆきを描いた「三色すみれ」、ドイツ職人の世界で子供の時に出会った少年と少女、時をへだてての「人形使いのポーレ」、いずれも中心となる話者に工夫が見られ、気持ちよく読んでいける。
 
ドイツにおいて青春が描かれた小説というと、シュトルムより後になるがヘルマン・ヘッセやトーマス・マンのいくつかしか知らないが、いずれも今回の三編よりもう少し社会あるいは世界への広がりの中でというものだったように思う。だからだろうか、このシュトルムの三編、なにかより個人の人生の真実を感じさせてくれる。
 
この三つ、結末の幸福感はずいぶん異なるけれど、いずれも人が生きていって「再生」する、ということを説得力をもって描いたといえる。
 
訳文は作品の調子によく合っていて読みやすい。



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絵本読み聞かせ(2024年10月)

2024-10-31 11:24:38 | 本と雑誌
絵本読み聞かせ 2024年10月
ハロウィーン行事とかさなったため、クリスマスと同様3組一緒に絵本、そのあと行列してお菓子をもらい外に出かける、という形になった。
 
もこもこもこ(谷川俊太郎 作 元永定正)
にんじん(せな けいこ)
ばけばけばけばけ ばけたくん(岩田 明子)
 
毎年この季節によくやってきたもの、30数人の並び方が壁を背中に一列だったので、頁ごとに横に動かして皆に見えるようにしながらやったが、さてどうだったか。
 
外にでかけるところでお菓子を持って立ち、「トゥリック オア トゥリート」などたどたどしく言う子に一人ずつ「ハッピー ハロウィーン」と言ってキャンディーをあげた。
はじめての経験
 
「にんじん」は前から予定していたのだが、週明けに偶然せなけいこさんの訃報(92歳)、いくつも使わせていただいた、ご冥福を祈る。

 

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トルストイ「イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ」

2024-10-15 16:01:21 | 本と雑誌
レフ・トルストイ: イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ
            望月哲男 訳  光文社古典新訳文庫
このところプーシキンから始めて、ドストエフスキーとチェーホフのいくつかをのぞき親しんでいなかったロシア文学を続けて読んでいる。今回はトルストイ(1828-1910)が1886年と1889年に書いた上記二作、時期的には「戦争と平和」、「アンナ・カレーニナ」のしばらく後である。
 
私の若いころからどうもトルストイはその博愛主義、禁欲主義が表に出ていて(とにかくそういう印象だった)敬遠していた。それでも「戦争と平和」は読んでおかなくてはとかなり歳をとってから読んだが、あの映画化などされている部分はストーリーの一部で大部分は露仏戦争の叙事的な記述で読み進むのもしんどく、評価も難しかった。「アンナ・カレーニナ」は映画で見て何か類型的「無理な男女愛」の印象で、原作を読むに至ってない。
 
さて今回の二つの中編、「クロイツェル・ソナタ」というタイトルは何故?と以前から疑問に思っていたことがきっかけである。
 
まずはイワン・イリイチ、これは同年代の法曹界の仲間が集まり話をしているとき、彼らの同僚である判事イワン・イリイチの訃報が入る。家族への弔問、人事への影響などの話の後、作者はイワン・イリイチ生涯の物語を始める。
 
45年の生涯、まずまずの家系に生まれ、法律家としてまずまずの昇進、結婚生活も必ずしもすべて満足ではなかったが大した破綻もなかった。その彼が体調をくずし医者の診断はすぐに明快にはならなかったがどうもあまり望みがなさそうになってくる。
 
そうなってからの、死に対する観察と思い、これまでの人生つまり仕事、家庭はどうだったかがぐるぐると何度も繰り返し駆け巡る。鬱といえばそうだがこうなってみると無理ない頭のなかの動きなのかもしれない、これを作者は詳細にえがいていく。
 
私が読んてきた範囲でいうと、この国の文学でそれまでこんなに作者が登場人物の内面を外から詳細にえがくということはなかったように考える。それは読む側からすると、作り物に見えてしまうところがあって、こちらに対して相反する効果を来たす。読み終わってみると、そうだろうなとは思うが、衝撃とまではいかなかった。
 
さてクロイツエル・ソナタ、トルストイは禁欲主義をとなえながら、自らの強い性欲になやみ、結婚生活では13人の子供をもうけている。
 
この小説では作者と思われる一人称の語りで、長距離列車のなかで出会った一人の男が語り始める。この男が世に知れた話の主人公、かなり地位のある地主貴族だが、嫉妬がもとで妻を刺し殺した本人だという。どうしてこういうところに出てきて話ができるのか、不思議なところだが、ともかくこれがすべてである。
 
この男、まず男の強い性欲と結婚制度の不適合について、延々とかたる。性欲を結婚家庭にとじこめ、特につぎつぎと子供が生まれると、夫婦ともどうなのかということである。このひと、夫婦でいろいろあった挙句、だいぶ平静になったと思ったら少しピアノが弾ける妻があるヴァイオリン弾きと知り合い、パーティで演奏するという計画が持ち上がる。これを知った男(夫)は妄想ともいうべき嫉妬を宿し、それも演奏が予定され二人が練習に入った曲のなかにクロイツェル・ソナタ(ベートーヴェン)が入っていることから、その始まりのところにある切迫的なパッセ―ジを二人の仲を示すもの、強い影響を与えるものと解釈し、音合わせの現場に乗り込んで妻を刺し殺してしまう。ヴァイオリン弾きは逃げおおせた。その後どういう審理で男がこの汽車で旅ができるようになったのかはわからない。
 
さて作者の主張は一応わかるが、これが一般の人の実生活に反映されるかどうか、発表時随分議論が巻き起こったようである。
 
ところでこのクロイツエル・ソナタというタイトル、私は気に入らない。切迫感、性愛を刺激するというのは一方的な受け取り方で、それはこのソナタに失礼だろう。優れたヴァイオリニストの演奏ではもっと柔らかく広がった迫力が感じられるのだが。たとえばダヴィッド・オイストラフ。


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